今年1月本国フランスで公開するや、アカデミー賞を賑わせた『ゼロ・グラビティ』や『あなたを抱きしめるまで』を抜いて、初登場NO.1の大ヒットを記録しました。公私ともにサンローランのパートナーだったピエール・ベルジェ氏が全面協力し、イヴ・サンローラン財団所有のアーカイブ衣装の貸し出しの許可も得て制作された、ブランド初公認の本格伝記映画。

監督は、本作が3本目となるジャリル・レスペール。俳優としてローラン•カンテ監督に見いだされ、その短編で映画デビュー、その後キャリアを積むと同時に、映画制作にも興味を示す。短編制作を経て、2004年にブノワ•マジメルを主演に迎えた『24 Mesures』で初長編監督デビュー。

ジャリル・レスペール監督にインタビュー!

$red ——この企画はどのように始まったのですか? $

僕は力強くて素晴らしい愛の物語を描きたいと思った。それに、夢を実現しようと奮闘する人物を描きたいとも思っていた。新しい企画で何をしたいかと考えを巡らせる中で、本作『YVES SAINT LAURENT』の着想を得た。フランスの偉大なデザイナーとピエール・ベルジェを描いた映画を製作することにワクワクしたよ。

$red ——イヴ・サンローランの人生と仕事であなたをそれほどワクワクさせたものは何ですか? $

第一に、サンローランの類のないカリスマ性にとても感銘を受けた。そして彼の脆さと無邪気さにも。彼は非常に賢明で、妥協することなく自分の芸術に打ち込んだ。彼とピエール・ベルジェの生涯にわたる愛情にも深く感動したよ。そそれに加えて、サンローランが素晴らしい創造力を備えていたことだね。彼は真の創造者で、幅広い作品を生み出し、常に時代に先んじていて、真のアバンギャルドだった。創作品だけでなく、彼は日常生活において衣服がいかに重要かを理解していて、女性がまだ男性より下に見られていた時代に、現代女性のためのスーツを考案したんだ。彼は時代を観察するというより、むしろ時代に貢献した。彼は大胆にも、女性らしさを否定することなく、タキシードの上着やズボンといった男性服を女性に着せたんだ。当時、こうした服装は非常に革新的なものだった。









——どのようなリサーチをなさいましたか?

たぶんイヴ・サンローランとはあまり関連性のないものまで、あらゆるものを読んだり見たりしたと思う。リサーチは必要だった。というのも最初、僕はサンローランのことをよく知らなかったし、手に入れた書物はサンローランの私生活についてほとんど触れていなかったから。その結果、全ての情報を再確認して、つなぎ合わせなければならなかった。それは時間がかかって骨の折れる作業だった。でもそのおかげで彼の人生の20年にわたる物語をまとめあげることができた。その後は、フィクションとしての余地を残すため、そして事実を利用して物語の展開を強化するために、少し距離を置くことにした。それから撮影に取り掛かった。

——リサーチの過程でピエール・ベルジェと仕事をしていかがでしたか?

ピエールの承諾がなければこの映画は撮れなかっただろう。彼が重要人物だからというのではなく、彼はサンローランの終生のパートナーだったからだ。サンローランの人生という段になると、ピエール・ベルジェは不可欠な存在だ。ベルジェを描かずしてサンローランを描くことはできない。ベルジェには近くにいてもらい、彼しか知らない情報を得ることが必要だった。事業全体について彼が考えていることや感じていることを、僕と共有してもらいたかった。さらに、僕にとって、「YSLファミリー」に会うことは重要だった。その財団にはサンローランの創造的な仕事に協力した人たちがいて、彼らは5年前に亡くなったデザイナーのサンローランにまだ親しみを感じている。僕はドキュメンタリーを見て、サンローランのメゾンには家族的な雰囲気があることに気が付いた。当然のことながら、僕は彼らに一人残らず会いたいと願ったよ。オートクチュールメゾンは当時すでに産業になっていたにしても、彼らはチーム精神を培っていたんだ。これは、きわめて私的かつ公的だったという点で、サンローランとベルジェの愛の物語を思い出させる重要な要素なんだ。公私の両面は、劇団の場合と同じように、切り離すことができないものだ。そういった全てを映画に描きたいと思った。だから、まずは自分でそれを体験する必要があった。

——本作は何よりもまず美しい愛の物語ですね……

この物語で僕が感動したことは、二人の素晴らしい人物を描いていることだ。そのうちの一人は天才で、天才には欠点と傷がつきものだ。その上、サンローランは躁鬱病で、医者にもそう診断されていた。

僕が関心を持ったのは、この二人の主人公が、サンローランの病気と仕事の重圧にも関わらず、どのようにして生涯にわたる関係を続けることができたのかという点だ。二人は自分たちの夢を追い続け、可能性を広げることができた。二人が先に進めば進むほど、二人の愛はさらに試練にさらされ、様々な障害を上手く乗り越えていった。だからこそ、前例のない素晴らしい愛の物語になったわけだ。感情は何倍にも高まるからね…。

——芸術的な創造を通して自由を探求する様子も描かれています。映画製作とオートクチュール製作に関連性はありますか。

産業的な観点では、たぶん関連性はあるだろう。どちらも大金が絡むし、自由な精神のアーティストにはとうてい理解できない実際の経済的な難問があるからね!創造的作業にはある種の制限があると思うけど、サンローランはこうした全てのことを乗り越えたんだと思う。僕の見方では、サンローランはファッションのデザインに行き詰まった時に、芸術的な限界を強く感じたと思うんだ。それが素晴らしい成功であっても、「まさに」それをしていることに何か不安を感じていたに違いない。それでも、色々な基準で制限されているからこそ、創作はなおさらワクワクするものだ。制約されると創造性は刺激を受けるものだと思う。サンローランは心の中では自由な精神を持っていたから、制約には苦しんだだろう。とても若い年齢で多くの責任を負うことになったからね。彼はものすごく多層的な人物で、仕事や感情の面で重い責任を負って心が揺らいでいたし、その間もずっと有名な人物だった。同時に、彼はただひとつのことだけ——逃げ出すこと——を願っていた!遠くに行っても、また戻って来てドレスをデザインしたいと思うかどうかを知りたかったんだ。時々、確信が持てなくなることがあったから。

——映画ではサンローランをあまり美化して描くのを控えています——それどころか、彼を傷つきやすく、人を感動させる人物として、さらにまた不誠実で怒りっぽい人物としても描いていますね。

これは、20年間——1956年から1976年まで——にわたり、仕事でまばゆいほどの才能を発揮した男の物語だ。サンローランは21歳で栄光と愛を経験した。彼は一夜にしてディオールのチーフデザイナーに昇進したわけで、それはこの若者にとって押しつぶされそうなほどの責任だった。ディオール社は当時フランスの大企業だったからね。同じ頃に彼はピエール・ベルジェと出会い、それから18年を共に過ごした。また、サンローランは自身のブランドと会社を創設した。彼はオートクチュールの高品質な基準を既製服にも適用して、オートクチュールをさらに庶民的なものにした最初のデザイナーだった。だが、彼は様々な作品を創り上げながらも、情緒的な衰弱を経験し、単調な「結婚の」日常に苦しみ、後に、疑惑と存在の危機を抱くようになる。そうした20年を通じて、彼の人生の力強く感情のこもった場面を描くことができた。ドラマを描くと緊張が高まっていき、次の疑問がわき起こる。「この二人は続くのだろうか」という疑問だ。サンローランとベルジェの物語では、その答えは1976年に見つけ出すことができる。それは二人が最悪の危機に直面していた頃であり、サンローランが最も完璧なコレクション——バレエ・リュス——を発表した時だった。

——キャストについてお聞かせください。

幸運なことに、ピエール・ニネとギョーム・ガリエンヌと出会えた。二人はとても上手く互いを引き立て合っている。全然違う人間だけど共通しているものがあるんだ。二人とも仕事に対する価値観が同じで、書かれた言葉を大切にしている。両者とも、高度な教育を受けた俳優だからね。こうした素晴らしい人物を演じるには、それだけの熱心さと知性が必要だ。二人とも才能に恵まれていて、素直な気持ちで演技に取り組んでいる。でも、物事を知的に分析しすぎることはない。生気にあふれ、役になり切っている。20年にわたる愛の物語を描く技術的な知識——セリフの展開を含め——と、生き生きとした感情がこもる演技のバランスが絶妙だよ。この映画は大いにこの二人の演技にかかっていると思う。

——二人とはどのように取り組みましたか?

僕はキャスト全員を好きになるんだ。出来る限り彼らを守り、和ませようとする。でも、優れた俳優は賢明だ。だから、必要とあれば自分の思っていることを彼らに伝え、それに従って演技を変えるように頼まなければならない。彼らが同意してくれるとすればの話だけどね。その上、僕自身が俳優でもあるから、キャストには親しみを感じるんだ。僕は最高のキャストとスタッフを選び、彼らに発言権を持たせて、時折、調整を加えるように努めている。でも、とても才能がある俳優は、たいていすぐにこちらの言いたいことを理解してくれるよ。時には監督の僕よりもずっとよく理解していることもあるね!

——あなたにはどんな撮影の選択権がありましたか?

その点では、固定観念はなかった。僕が監督だと言い張ったりはしない。最高の映画を作るには、どんな技術であれ使う必要があると思っているからね。ただ美しいショットを撮るだけのために美しいショットを撮るつもりもないし、好き勝手にショットを撮るつもりもない。僕はできるだけ各ショットを引き延ばすようにしている。そのためにステディカム、クレーン、ドリートラックとか、他の撮影機材が必要なら、もちろん取り入れる。撮っている対象に出来るだけ近くに留まるためにね。僕にとって、俳優やそのシーンの状況が主な焦点なんだ。常にリアルに撮るためには、機材は必要だ。僕は「アーティスト」になろうとしているわけじゃない。出来るだけ正確に物語を伝え、僕の目的にかなう映画を撮りたいんだ。

——衣装デザインについてはいかがでしたか?

衣装デザインには通常の倍の時間をかけて取り組んだ。第一に、当時の衣装をデザインしなければならなかった。そうした衣装がその当時を再現し、20年にわたるファッションのトレンドの変化を反映することになるからね。また、リサーチをして、サンローランの重要なコレクションについて賢明な決断をしなければならなかった。ピエール・ベルジェとその財団の協力を得たことで、オリジナル衣装を使用できたのはラッキーだった。財団にとって、衣装を再現することは簡単なことではなかった。当時サンローランが使用した布地で、今はもう存在しないというものもあったから、その場合は特にね。

——そのようなドレスを着用するモデルはどのように選んだのですか?

そうした独自の衣装に合う体型のモデルを選んだよ。こうした衣装はイヴ・サンローラン財団が保存しているもので、実際に人が着用するのではなく時々ショーで見せるものなんだ。だから、本当にスレンダーな女性を見つけなければならなかった。当時のモデルは現在の女性と体型が違う。当時のモデルはせいぜいSまたはSSサイズだったんだよ!本当に大変だった。適切なモデルが見つかり、ドレスにライトを当てると、それはもう素晴らしかったよ。モデルが2時間連続でドレスを着た後にそれを脱ぐのは、摩擦とか汗の影響もあって、ものすごく骨が折れた。この場を借りて、この映画で見事な手腕を発揮してくれた衣装デザイナーのマドレーヌ・フォンテーヌに称賛を送りたい。

——プロダクションデザインは目を見張るほど素晴らしいですね

財団の協力のおかげで、当時とほぼ同じように映し出すことができた。僕たちはできるだけロケで撮影するようにして、サンローランが実際に暮らし、仕事をしていた場所——1974年に彼が仕事をしたスタジオ、改築され手入れの行き届いたモロッコのマジョレル庭園と呼ばれる邸宅、サンローランが年に二度ショーを行ったインターコンチネンタルホテル(現在のウェスティンホテル)にも出かけて行った。そうした場所や実際にそこで暮らして仕事をしていた人たちからインスパイヤーされたよ。映画からそれが伝わってくると思う。

——音楽に対してはどんな計画をお持ちでしたか?

フランスの若きジャズの天才、イブラヒム・マーロフに作曲を依頼したんだ。彼はそれまで映画のサウンドトラックをあまり手掛けてはいなかったけれどね。彼と知り合えて素晴らしかった。彼は脚本を読んだインスピレーションから作曲したピアノ曲をいくつか送ってくれたんだ。彼と契約を結ぶかまだ決断していなかったけれど、彼の音楽を聞いて決めたよ。この物語の効果を高めるのは最高のサウンドトラックだとすぐに分かったんだ。彼の音楽はロマンチックで繊細で、時に切なく、非常に独創的だった。これが他のサウンドトラックだとか、単なるバックグランドミュージックだとかいう風には感じなかった。この音楽には心があると思った。アーティストが様々な感情を表現しているのを感じ取れたんだ。

——時代物のサウンドトラックも使用していますね。

その通りだ。オリジナル音楽を、映画の舞台となっている時代に人気があった様々なジャンルの音楽とミックスしたんだ。ジャズ、モータウン、ロック、ディスコなど、ナイトクラブやパーティでよく当時の人が聞いていた種類の音楽とね。特に76年のショーでサンローランと親交のあったマリア・カラスの歌声も流している。音楽の流れないファッションショーなんて現在では奇妙に思われるだろうが、ショーに音楽を取り入れたのはサンローランが初めてだ。一方、ピエール・ベルジェはセットデザインを手掛け、ショーを運営した。オペラ『ワリー』は力強く感動的な傑作で、あの有名なバレエ・リュス・コレクションを描くのに素晴らしい効果を発揮している。僕の意見では、この音楽はサンローランの天才的かつ創造的な才能を見事に表現しているね。

執筆者

Yasuhiro Togawa

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