関西で開催された40作品40監督同時多発映画フェスティバル【シネドライブ2014】(3/21-23)のクロージング・オールナイトイベントにて、関西初上映となった村上賢司監督8ミリ作品『オトヲカル』。

 これまで山形国際ドキュメンタリー映画祭2013(スカパー!IDEHA賞受賞)。や三軒茶屋映像カーニバル2013 at KENなど限られた場所で上映されてきた。初めて8ミリ作品を観たという方、作品のインパクトに圧倒された方、受け入れられなかった方、様々な感想をお持ちになったのでは。

8ミリフィルムの終焉とアナログからデジタルへの転換について、映像作家としての覚悟など、ムラケンこと村上賢司監督が大真面目に語る!!!
























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■アナログからデジタルへの転換で変わること、変わらないこと
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——ドラマとドキュメンタリーでは違いを意識して撮っていますか?

村上:ないです!ないです!ドキュメンタリーは手法なんで。映画のジャンルの中にドキュメンタリーが入っているのは間違っていると思います。映画の情報誌やサイトなんかでロマンス・SF・ホラーと同じようにドキュメンタリーなんて分けてあるけど、あれは絶対おかしいです。ドキュメンタリーの中にロマンスもあるし、エロスもあるしSFも。例えばゾンビ映画の『REC』なんかはドキュメンタリーの手法を使ったホラーだと思っているし、エロスなものならAVもそうだし、青春映画なら松江哲明くんの『童貞を。プロデュース』なんて最良の作品だと思う。

——『オトヲカル』ではいかがでしたか?

村上:う〜ん、ジャンルとして分けるのは難しいかな。ドラマ性ってことで言えば、役者として天津優貴さんにこんな感じって演出しているし…、今ひとつのメディアが終わるということをどう伝えるかを考えて作っていますね。話はズレちゃうかもしれませんが(笑)。

——断末魔のような映像がそれを伝えていたと思います。

村上:今は物凄い大事な時期だと思うんですよ。35ミリだと画面がクリアで見ているだけではメディアの転換が意識できない。だからいつの間にか変わっちゃってるって感じです。でもアナログからデジタルへの転換とは、僕や大西健児くんがやっているまさに断末魔のようなあの8ミリフィルムの映像のようなことで象徴できると思うんです。ひとつのメディアが終わるというのは凄いことだなと思います。2013年の9/30に全てのフジフイルムのサービスが終わったってことは、日本での産業としての8ミリフィルムの歴史は終わったんで、ほぼ同時期にこの作品が上映できたのは面白いなと思いますね。

——今まで自主制作でたくさんの8ミリ作品を撮ってこられましたが、今後撮られる作品はどう変わりますか?

村上:デジタルしかなくなったらデジタルで撮って行くと思うんです。商業で、村上くんに撮らせたら面白いんじゃないと言われるなら仕事としてキチンと受け入れつつ、でも同時に手法としてのドキュメンタリーを考えながら自主映画をやって行こうと思っています。

——状況を受け入れて次に進んで行かれる訳ですね。

村上:生きて行くために仕事はしなくちゃならないんで、そこにも自分が面白いと思うものを込めているし、面白がってやっていきたい。でも商業的なものばかりじゃなくて、自主的なものと行き来したいなとはずっと思っていました。それが今は出来ているような気はします。
 ずっと続けられるかは分からないですけど、俺は商業映画ができるようになったからもう自主映画はやらないんだとかは、すんごくカッコ悪いと思うし(笑)。これからも作りたいものをどんどん作って行こうとは思っています。

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■未曾有の大災害だからこそ
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——それでは少し話は変わりますが、前回の『銀鉛画報会』(’11)に収録された村上監督の『ラストカット』は、元々震災を撮ろうということで始まった企画だったんでしょうか。

村上:あれは大西健児くんから撮ってくれって話があったんです。あの時期、僕はテレビの仕事で震災ドキュメンタリーを撮っていて、それは震災をやはり悲劇として捉える内容だったんですよ。それは当然だと思うんですね。あれだけの人が亡くなったんですから。それはそうなんだけど、別の側面として今を生きている人間がどう思ったのかを正直に描かなくちゃいけないなと思ったんです。

 実際に現場に行くと立ち尽くすような光景なんですよ。でもそんな未曾有の大災害だからこそ、個人の正直な気持ちをぶつけていいと思ったのです。じゃあ何かって言ったら、女体だろうと。そこで亡くなった人たちもいるけど、生きてる俺たちもいるんだよということを描きたかったんです。
 僕らが現地に取材で行ったのは少し落ち着いた時期だったんですけど、自分だけでなくスタッフを休ませるためにホテルが必要で。沿岸は全部被害にあっているんで、山間部にあるラブホテルを利用したのです。そこで受付のおばさんとか支配人に話しを聞くと、やっぱり避難所の人たちがよく来てると。何かを確かめ合うように夫婦で来たりとか。そういうことってすごく大事なんじゃないですか。そういうところを表現したいし、伝えたいという思いがあってあの作品を作ったんです。

——当時、現地から遠く離れた安全な土地からニュースを見ていると、どうしても言葉が自粛的になってきて、こういうことを言うと不謹慎じゃないかなどと考えて喋っていたので、『ラストカット』は凄い衝撃がありました。震災の荒涼とした風景に女性の身体を重ねることで、生きることへの根源的な力に訴えかけられたような。

村上:こういうことを言うと誤解を受けそうだけど、僕にとってしまだゆきやすさん(★)の死は凄い衝撃で、そんなことと二万数千人の被害とどっちが重いということではなくて、表現とは誰に伝えるかが大事だから、僕はとにかくしまださんに伝えたかったんですよ。悲しんでるわけじゃなくて、怒りも含めて、俺はあなたのことを色々考えているということを。被災の現場に立った時に、こんなことが未曾有なことが起きてしまったということは、ポジティブなこともネガティブなことも含めて、これから何でも起こり得る面白い時代なのに、なんで?という気持ちがあって。それを伝えたいとずっと思っていたからああいう作品になりました。

★イメージリングス代表。90年代から数多くの自主映画作家を支援・発掘してきた名プロデューサー。ガンダーラ映画祭、背徳映画祭を主催。シネアストの側面も持つ。2011年に他界。

——そういうストレートな表現をあまり見ることがなかったので。

村上:山形国際ドキュメンタリー映画祭で上映すると決まっていて。山形で震災のドキュメンタリーが増えるだろうなとは思っていたから、早めに言っておきたかった。未曾有の大災害だからこそ、個人の正直な気持ちをぶつけるべきだということを。

——村上さんの思いははっきりと作品に現れていたし、今お話を聞いてより伝わって来ました。

村上:今は真面目に答えてますけどね(笑)。要するに震災のドキュメンタリーにオッパイが出てきたら面白いだろうと思って作りました。みんな恐縮してたと思うんですよ。なにかあったら個人で責任を取ればいい。何で萎縮するか分からない。個人による映画なのに。
 震災は悲劇なんだけど、それだけで捉えると視点も語りもみんな一緒になっちゃうじゃないですか。それは表現においては危険だから。僕は表現は多様であるべきと思うんです。

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■表現の多様さがもたらすもの
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——表現の多様さを受け入れる感覚は、2010年のHMVの【TAO】インタビューで高崎市の歓楽街で育った子供時代のゴッタ煮的感覚についてお話されていましたが、そういった経験が影響しているんでしょうか?

村上:あります。子供ができたせいもあるんで、平和って何かなってことを考える訳です。子供には平和な世界で生きて欲しいから、それは自分の中の答えで言うとやはり“多様性”なんです。
 色々なものがあって、それをみんなで認め合う。だから表現が一つの方向になってはいけない。
 自分の子供の頃はもっと価値観が多様だったなって思うんです。無垢なもの猥雑なもの反社会的なものが争いながらも認めあって生きていた。今はすごく排他的になって来ていて危険だなと思いますね。
 一つの例としては二者択一を常に迫られる感じがする。デジタルかアナログか?とかね。

——私が育ったのは田舎の漁師町なんですけど、子供の頃、町の中にポルノ映画の看板がバン!と置いてあって、こういうのは見ちゃダメだと思ってドキドキ通り過ぎたり。同じ場所に次の週は子供向けの映画の看板があったりと、雑多ものに囲まれていた感覚がありましたね。

村上:自分も一緒ですよ。ああいうものがあっていいとは言わないけど、認めなくちゃいけないですよ。そんなものを見ながら何となく子供が学んで行けばいい訳で、自然と「こ・れ・は・エッチなもんだぞぉ!」と理解するみたいな(笑)。そういう経験で上手く距離感がとれるようになる。社会に出て初めてびっくりするより全然いいと思うんですよね。
 8ミリから全然話飛んじゃうかもしれないけど、例えば風営法の規制。クラブやラブホテルを規制する排他的なやり方を多くの人が簡単に認めちゃってるのは危険だなと思います。

——行政側との問題ではないですが、大阪のシネ・ヌーヴォという住宅街にある映画館が日活ロマンポルノの特集上映をしたことで、2013年に映画館が入っているマンションの管理組合と裁判になっています。

村上:別にヌード写真ばかりをドンと貼ったわけじゃない。そういうものを脊髄反射的にストップしちゃダメだし、共存して行こうとか、理解しようとすることは大事ですよ。例えば今の世の中は必ず法律を守らなくちゃいけないという流れだけど、人間が作った以上は法律自体間違ってる可能性がある。
 例えば風営法に関して言うなら、多様性をなくすようなあの法律ってどうなのよと常に考えなくちゃいけないと思いますね。凄い話が変わって来ちゃった(笑)。

——いえいえ(笑)。全て関連してくるお話だと思います。
では最後に話は8ミリに戻りますが、8ミリ映像に写ってデジタル映像に映らないものってありますか?

村上:濁り。濁りでしょうね。デジタルには濁りがない。濁りが味になるし、想像力が入り込む余地があると思うんです。

 あともう一つ。偶然性でしょうね。現像してみないとどう写っているかわからない。デジタルってのは全部クリアで、しかも作り手が撮影後に介入出来る幅がいっぱいあるんですよ。これは素晴らしいことだけど、逆にどうにもならないものを引き受けるっていう思考が後退した。最終的には俳優をブルースクリーンの前に置いて高画質でしかも全方向で撮って、あとは編集で考えましょうってことになると思います。
 確かにそれは合理的で素晴らしいと思うけど、こういう風にしかなりませんでした、はい、どうぞ!というどうにもならないものを受け入れる気持ちがなくなっていくのがどうなんだろうと思う。

 もう一点。声に出して言いたいのが、デジタルがどんどん進んでいくけど、保存はどうするんですかってこと。これはずっと保留のままなんです。

——デジタルにおける保存の問題点は何ですか?

村上:デジタル映画っていうのはデジタルのままだとハードディスクのような保存メディアが潰れて読み込めなくなったら終わり。保存ということに関して言えば100年持つことは絶対に無理なのに、その辺のことが保留されたままずっと突き進んでいるんですけど、ホントにそれでいいんですですか?と言いたい。表現されたものは残さないといけないんで。

——フィルムの場合は保存状態さえ良くしておけば相当もつんですね。

村上:フィルムはキチンと管理すれば100年以上はもちます。このままでは何億円ものお金をかけた映画が残らないですよって言いたい。ずっとコピーし続ければいいけど、コピーする人がいなくなったらどうするの?それでいいのかなとずっと思っています。

——画質とはまた別の問題点が出てくる訳ですね。
先ほどの8ミリに写ってデジタルに写らないものが“濁り”というお話で思い出したのが、『銀鉛画報会』を初めて観た時に、普通に観ると映像としてはすごく見にくいんですけど、観ようと意識すると入ってくるものが凄く多くて、豊かだったのに驚きました。“想像力が入り込む余地がある”という言葉に納得しました。

村上:「何か写っているのかな?」というような能動的な姿勢をとらせることが出来るのは8ミリフィルムでしかあり得ないんです。そういうメディアがなくなってしまうのが、いいのかなって。確かに経済の論理で言うなら、なくなるのはしかたないのかもしれないけど。「それでいいのかい?」っていつも思います。
 それにしても今日こんな真面目でいいのかな(笑)。

執筆者

デューイ松田

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■山形国際ドキュメンタリー映画祭公式サイト
■HMVオンライン「TAO」インタビュー第6回ゲスト・村上賢司
■『銀鉛画報会』2012年記事
■シネドライブ2014公式サイト