5年の歳月をかけて撮った“毎日”。
名匠マイケル・ウィンターボトムの原点回帰
一つの家族を通して普遍的な愛と時間の尊さを描く、珠玉の感動作。

本作『いとしきエブリデイ』は、父親不在のある家族の日々を通して、当たり前と思っている“愛”と“時間”の尊さを、美しい映像と音楽で描き出した珠玉の感動作。少数のスタッフと5年の歳月をかけ、12年ぶりにマイケル・ナイマンとタッグを組んで誕生したマイケル・ウィンターボトム監督渾身の作品だ。

$red Q:『いとしきエブリデイ』はどのように始まった企画のでしょうか。 $
$blue W:$ まず、フィルム4に企画を持って行ったんだ。僕の提案したアイデアのベースにあったのは、5年間に映画を7本作るというものだった。その時の回答はNOだったけれど、5年の間に1本撮るなら、ということになった。つまり、劇映画の中で年月の経過を描くというものだ。そういう形で情熱のこもった物語を語るには、必要最小限のクルーで撮影せざるを得ない。特に子供を撮影するにはね。子供を年代別にキャスティングして撮影するだけでは、子供がある年月をかけて成長していく様子を本質的に捉えることはできないと思った。それがアイデアの出発点になったんだ。

$red Q:このストーリーに着目した最初の理由は何でしたか?刑務所にいる男とその家族に焦点を当てて物語を描いたのは。 $
$blue W:$ このアイデアの一番中心にあるのは、ある関係、もしくはある一連の関係が長い不在の時間をどう生き残れるかということ。『いとしきエブリデイ』で言えば、父親は刑務所に収監されている。いま現在、多くの家族が何らかの理由から離れて暮らすことを余儀なくされている。その理由は離婚かもしれないし、軍隊かもしれないし、刑務所かもしれない。離別というのは、特に父親と子供たちの関係において、家族の関係がどんなものであるかを考えなければならない。妻への愛、子供たちへの愛が長い不在に耐え、生き残ることができるかどうか。僕なりの展望としては、生き残るのが可能だということを描くいい機会だと考えた。





Q:子供たちとの経緯ですが、そもそもあの家族はどうやって見つけたのですか?
W: 運がよかったとしか言えないね。まずノーフォークというイギリスの田舎、イギリスの地方で撮りたいと漠然と考えていた。それで地元の学校を訪れたりして、プロデューサー、キャスティング・ディレクターとで訪ね、彼ら2人が10人くらいの子供たちに絞りこんでいった。メインとなる幼い少年をどう選ぶかで、長く離れている父親との対比をもたらす関係がかかってくる。家族の幼い子供、ショーン(ショーン・カーク)と出会ったことはとても素晴らしかった。それからショーンの兄妹に会って、彼らもとてもいいと思った。それで家に行ったら、その家も映画にぴったりだった。そして学校に行ったら、学校もとても協力的で、学校も撮影に使うことにした。なので、ショーンのキャスティングが決まったところから他の要素も徐々に決まっていった。

Q:メインの少年が決まってとんとん拍子に、という感じですね。
W: そうなんだ。別に一人だけを探していたわけでもなく、一人の魂(ソウル)を探していたんだ。状況によっては、一人の少年をひとつの家族から見つけても、他の子たちは他の家族から探さなければいけない可能性もあったし、その後に、撮影できる家を探さなければいけなかったかもしれない。でもショーンと三人の兄妹を見つけたことでよかったのは、互いに自然な関係性をすでに持っていたことだ。
母親役のシャーリー・ヘンダーソンも子供たちといい関係を築きあげてくれた。それが家族の関係性を引き出し、そのことによって、子どもたちは自分たちのパーソナリティーを持ち込みながら、物語(フィクション)に自然に反応することができたんだ。

Q:子供たちが混乱することはなかったですか?
W: (笑)撮影を開始した時、彼らはまだとてもとても幼かった。まだオムツとかしている状態だったし、カトリーナなんてショーンより幼かったから。そんな年齢だったのもあって、その当時、彼らがどれだけディテールを理解していたか知るのはむずかしい。それでも最初の段階から、彼らはとても自然で反応がよかった。でも逆に、起きていることが成立するにはシャーリー・ヘンダーソンとジョン・シムが親であるかのように反応するしかなかったんだ。

Q:ある程度、子供たちも演技をしているという意識はあったということですか?ただの遊びの一環というより。
W: 意識はあったと思う。状況も違えば、年齢も各々が違うから一口には言えないけどね。母シャーリーと父ジョンの緊張状態や逆に楽しそうにしているときなど、それぞれに敏感に反応していた。彼らは本当の兄妹だから、家族のやさしさもあるし、同時に家族だからこその乱暴さも持っていた。もし4人の違う子役を使っていたら、全く違うプロセスになっていたと思うよ。

Q:5年間の中で、いつ、どこまで撮影するという全体的な地図のようなものはあったのでしょうか?
W: 出演者、スタッフに、長い期間関わってもらわなければならないから難しい作業だった。シャーリーもジョンも仕事上で知り合いながら、長く友人としてつきあってきたから、彼ら2人はフレキシブルにずっと関わってくれることを約束してくれた。
漠然としたアイデアとしては、いくつかのブロックで作業することだった。各ブロックが1週間くらいで、それをできるだけ間隔をばらけるようにした。なので、そのパターンは決まっていないけど、毎年、彼らの家に数週間のかたまりで訪ねるということを決めていた。そこにできるだけ定期的な間隔を持たせながら、さらに季節など、違う要素も入れていくようにした。
やっていくうちに少しずつパターンのようなものが出来上がってきて、1年の間にクリスマスの時期に一度、夏の間に一度という感じになっていった。

Q:もちろん、その間も他の作品で動いていたわけですよね?
W: そうだね。でもこの5年間は、毎日「いとしきエブリデイ」の一部を作っているという実感があった。とても楽しい時間を過ごせたよ。
そのうち、他の仕事からこのプロジェクトに戻ってくるのが新鮮に感じられるようになった。子どもたちの成長を見るのも楽しみだったよ。
そして、成長し変わっていく子どもたちと、映画の設定(不在の父親と、一人で子供たちの面倒を見なければいけない母親)との関係性を探りながら、彼等の実際の変化をどのように反映させていくのか考える必要があった。それはとても素晴らしい体験だったよ。

Q:少人数のスタッフというアプローチとしては、ドキュメンタリーとドラマの感覚を織り交ぜた、あなたの他の“小さな”映画と同じような感覚と言ってもいいですか?
W: そうだね。僕の映画はほとんどがフィクション映画だけど、我々がストーリーを構成してコントロールしていくわけで、その上で役者が映画の役柄を演じていく。でもそうしながら、より新鮮な何かを映画の中で捉えたいと考えているんだ。
たとえば、その例で言えば、『イン・ディス・ワールド』は、パキスタン人の2人の難民がイギリスまで旅をする物語だけど、確かにその通りで、オブザベーション・フィルムという様々な要素が混ざった状態で、キャラクター同士が自然なかたちで関わるように観察/考察していく方法を採った。同時にフィクションのキャラクターが自然なかたちで互いに関わり合い、反応し、フィクションを前提とした構成で語り、ある親密さも表現することができる。逆にストレートなドキュメンタリーでは、それがむずかしいよね。ドキュメンタリーでは、人の寝室に入ってベッドの様子を撮影することはできないし、家の中とか、いろんな場所に捉え切れないわけだから。でもフィクションの映画ならば、登場人物たちの親密さを捉えることができる。

Q:カメラは何台?
W: 1台だけ。

Q:それで余計に子供たちにも何テイクも重ねるということですね。
W: うん、その通りだよ。ロングテイクをしながら、そのテイクの間にどんなことをするかを練って行く。それはどんなフィクション映画とも方法論としては同じで、何度も何度も試みる。もちろん毎回同じことを繰り返すわけではないけど、台詞を言うシーンでも、彼らが泣くシーンでも、彼らは十分に理解していた。前回は泣かなかったから今回は泣くべきだとか。前のテイクは笑わなかったから、今回は笑ってみようとか。前回はこう言ったけど、今回はこういう風に言ってみようとか。だから彼らは確かに演技をしていたわけだ。フィクションの映画としての自覚はあったんだ。同時に、自然にその場で反応する即興性にも対応してくれたんだ。

Q:子供たちが悲しくなって耐え切れずにセットを出て離れてしまうとか、退屈してしまうとかもなかったんですか?
W: それはないよ。だってセットは彼らの家だから、出ていく場所がないんだよ(笑)。それはいいことだったね。

Q:繰り返すようですが、あなたはドキュメンタリーとフィクショというドラマの間の狭い境界線の上を進めていくことが多いけれど、その微妙な領域の採るべきバランスについて教えてください。
W: 確かに僕の映画はよくその領域を歩いてきたと思う。もちろん、そこに興味を引かれることを説明することもできるだろうけど、最終的に、自分がそこに引き寄せられるということに尽きると思うんだ。フィクションと現実の世界の間で遊ぶ場合には、様々な効果が得られると思うけど、それは全て興味深いものだと思う。僕はたくさんのコメディを撮っているけれど、ドラマの中に身を置いていることを意識しながら、構造があることを意識させたり、登場人物に突然カメラに話しかけるようにしたり、映画の中で映画を作ることに言及させたりもしている。それはフィクションの中にいながら、その構成を認知して、外にある現実の世界がおもしろく、あるコメディというおかしみのあるという、そんな精神が見え隠れするんだと思う。『トリストラム・シャンディの生涯と意見』とかね。
ある同じシーン、同じ映画の中でも、人は2つの異なる関係を見てとることができる。それがどれだけフィクションの要素があるのか、どれだけコントロールされているのか、どれだけ考察的なのか、どれだけ創作されているのか、どれだけのものが元からあったのかという性質が見えてくる。僕は人がその両極を行き来しながら、考えてもらうことが好きなんだ。
たとえば、書物としてのフィクションでもこの手法は使われてきた。今では何百万、何十億という人たちがFacebookなどで、自分の生活のある部分をとって、準フィクション的な、ある程度書き加えられた自分の生活を作り上げている。そうする間に、人は今までになく、全てがどう構築されているかを理解し、意識していると思うんだ。FacebookやTwitterでも何でも、同時に構築された物語の外に存在する別の物語があるということなんだ。

Q:マイケル・ナイマンとまた一緒に仕事していますが、今回は彼にどのように説明したのでしょうか。何かリクエストは伝えましたか?
W: まず、僕はマイケル・ナイマンの音楽が好きだということ。初めてマイケルと仕事したのは、『ひかりのまち』(13)だったけど、彼のスコアが素晴らしかった。
ある意味、『いとしきエブリデイ』は『ひかりのまち』と対を成す作品でもある。両方とも家族の物語だ。『ひかりのまち』は、三人姉妹、両親、父に会わない弟が、一緒に住まなくても、それでも家族でいられるのかという、一週間の限定された時間軸の中で大きな家族を描いたものだ。『ひかりのまち』の大事なシーンは、家に帰ろうとしない息子が父親に電話して留守電にメッセージを残す。彼は父と直接話さず、父もそのメッセージを聞くことがなかった。だが互いに会わなくても、2人の間にお互いへの愛情があることを示している。
そして10年以上経って今回の『いとしきエブリデイ』では、小さなひとつの家族で、真逆のアプローチをしてみようと思った。
脚本のローレンス・コリアットも、両親役のシャーリー・ヘンダーソンとジョン・シムも『ひかりのまち』に参加している。そんな共通点もあって、マイケル・ナイマンに『いとしきエブリデイ』のスコアを頼みたいと思った。
このような作品をつくる場合、つまり、観察的であり、困難な人生をおくる人たちを扱ったもので、ただ時間を持て余して自分の感情についてしゃべり合うような人たちではない人々を描くとき、台詞の代わりに表現する方法のひとつとして音楽があると思うんだ。

執筆者

Yasuhiro Togawa

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