ロベルト・シューマン、ヨハネス・ブラームス—二人の天才に愛された女神、クララ・シューマンを巡る究極の愛を描いたヘルマ・サンダース=ブラームス監督にインタビュー。

19世紀ヨーロッパ、二人の作曲家のミューズとして、音楽家自身として、波乱に満ちた愛の日々を生きた女性がいた。その名はクララ・シューマン。

「子供の憧憬」「トロイメライ」など後世に残る名曲を排出した天才作曲家ロベルト・シューマンの妻クララは、ピアニストとしてヨーロッパツアーを回りながら、妻として7人の子供の母として、多忙な日々を送っていた。そんなとき、彼女の前に若き新進作曲家ヨハネス・ブラームスが現われる。クララに永遠の敬愛と賛美を捧げる陽気なヨハネスは、日常生活の苦労の絶身の後継者としてヨハネスを世に送り出そうとするが——。

クララ・シューマン役には『善き人のためのソナタ』で世界から絶賛されたマルティナ・ケデック。狂気と才気の間で苦悩するロベルト・シューマン役には『エディット・ピアフ〜愛の讃歌〜』の名優パスカル・グレゴリー。天真爛漫かつクララをひたむきに慕うヨハネス・ブラームス役には『焼け石に水』のマリック・ジディ。

二人の天才に愛されたミューズ、クララ・シューマンの真実の愛の物語『クララ・シュ
—マン 愛の協奏曲』。
“ブラームス家の末裔”でありドイツを代表する名匠ヘルマ・サンダース=ブラームス監督にお話を伺った。




——本作で、何故男性ではなく女性であるクララ・シューマンを主人公に据えたのでしょうか?

「クララは女性でありながら、抑圧されたり流動的な立場ではなくて、積極的であり公の場に立って成果を誇示できる存在です。
彼女が一番やりたいと思って情熱を注いでいる行為からこの映画は始まります。それは、ピアノを演奏する事です。
そのシーンの前に、移動に使う鉄道が登場するシーンがありますが、あれは非常に大事で、あの時代はヨーロッパ全土に鉄道が広まっていく時代なのです。
この映画に登場する、ロベルトとヨハネスという偉大な二人の音楽家は、人間社会に機械が入り込んでくる近代の幕開けの時に活躍した人々なのです。
クララと共に鉄道に随行してくたびれ顔なのが夫のシューマンであり、クララは翌日元気にピアノを演奏して観衆の注目を浴びるのです。
シューマンはできれば公衆の面前に出たくないタイプの人間で、感激している聴衆が嫌で逃げ出してしまいたいと思っています。そこへ、若い音楽家であるヨハネスが自分で作曲した楽譜を突きつけてくるのです。
楽譜にはシューマンは目もくれないのですが、クララは関心を持ち始めます。もしかしたら、その時クララは、シューマンをしのぐ様な素晴らしい人がいるのではないかと思っていたのかもしれませんね。
次の犠牲者を探していた、つまり、ここでは犠牲者は女性ではなく男性なのです(笑)
よく、“この映画には虐げられた女性はどこに登場するのか”と聞かれるのですが、そんなものは存在せず、女性が圧倒的な力を誇示する、そういう映画なのです。
一方、男性はというと偏頭痛持ちで、人前に出て行くのが怖いのです。
指揮をする事になって、ようやく妻・クララよりも高い能力を示せるのです。しかし、オーケストラの前に実際に立つと怖くなってしまう。
つまり、この映画では男性が女性であり、女性が男性なのです。そのような中で三角関係が起こっているという事が、魅力的だと感じます。」

——同じ女性として、監督ご自身はクララの事をどう捉えていますか?

「クララ・シューマンというのは、芸術家ではありましたが演奏をする人でした。
公の場で演奏をして喝采を浴びるというのが彼女の一番心地いい事であって、小さな部屋に入ってひとつひとつの楽譜に書き込んでいくような創作活動は彼女には合っていません。
作曲というのは苦しみを伴う創作活動でありますが、クララはその領域には入っていませんでした。確かにクララ自身も作曲は行ってはいますが、非常にきれいなものであり、ヨハネスやロベルトのものと比べられるものではありません。
何が違うのかというと、彼らが作曲の中に込めた熱情というものが、クララにおいては無いのです。
私の中のクララの評価と、私のブラームス家に代々伝えられているクララ像は一致するものであり、彼女はできるだけ面倒な辛い事はせずに、派手に喝采を浴びるという事が彼女には合っているのです。
ブラームス家に代々伝わるクララ像が正しかったという事が証明されたのは、2008年の初めにロベルトとクララのひ孫にあたる人と会うという企画をドイツのTV局が実行した時の事です。色々な話を聞いているうちに、シューマン家にも代々クララの人となりというものが言い伝えられており、それがブラームス家のそれを同じものだったのです。
ですから、私が本作で描いたクララというのはかなり正しいと思います。
また、クララは劇中でも子供たちの事をかわいがってはいますが、絶対に必要としている訳ではありません。
男の子たちは随分病弱で入退院を繰り返していたようですが、クララはお見舞いには行っていません。フェミニストの人たちは、“本当はクララは作曲をやりたかったんだ”と主張していますが、もしそうならロベルトが亡くなった後に作曲を再開していたはずですが、そうはしませんでした。
ロベルトが入院してからも、クララはほとんど見舞う事もなく、その代わりに治療費を集める為に沢山のコンサートをして各地を回った訳です。
ロベルトが有名になる為に、クララは全力を尽くしてきましたが、彼の死後はヨハネスが有名になる為に同じだけの熱意を注いでいったのです。
だからといって、クララがやった事は大した事ではないと言う訳ではなく、ただ、彼女は決して犠牲者ではありませんでした。
自分の思う方向に向かって全力を尽くせる女性だったのです。
クララがいた事によってロベルトとヨハネスの存在が私たちにまで伝わっていますが、もし彼女がいなかったら、二人の事をあまりよく知らないかもしれませんね。
問題は、そのような人物が映画の題材なのかという事ですよね。
映画に登場する二人の男性は、まるで女性のようであり愛すべき存在です。
恐らく、クララのシーンでは泣く事はなくても、ロベルトが亡くなるところで泣く人はいるかもしれませんね。」

——劇中では、映画の為に事実を多少脚色した部分もあるのではないかと思いますが、その場合何を基準に脚色しましたか?

「私にとって、この映画の中で一番大切なのは音楽です。
クララが本当に指揮をしたのかという事をよく聞かれるのですが、事実です。過去の記録資料を見てみると、ロベルトのオーケストラではあるけれども、彼が指揮をできる状態ではない時に、クララが代役をつとめたという記述があります。
史実を見ますと、観客がクララを見えないような構造で指揮をしたとあるのですが、実際にそのように演技テストをしてみたところ、そのシーンで流れる「ライン」という曲の幅の広さや質の高さが、史実と同じように再現するには合わなかったのです。
それ以外は史実に忠実に描いていると思います。この作品は映画であってドキュメンタリーではありませんが、映画として可能な限り忠実を追求しています。」

——演奏シーン以外で、監督が一番神経を使ったシーンはどこですか?

「一つ、脚本にはなくて撮影をしている時に生まれたシーンがあります。クララは朝、ピアノを演奏するシーンなのですが、その部屋にヨハネスが訪れる事は当初決まっていませんでした。足にちょっかいを出すなんて、脚本にはなかったんですよ(笑)
私が映画を作る上で毎回決めている事は、一つだけ即興のシーンを入れるという事です。
脚本を書いている最初の頃、列車でロベルトとクララが移動中に突然ヨハネスが現れてクララの足元に跪き、“あなたの奴隷になりたい”と言うシーンがありました。
ヨハネス役のマリック・ジディ自身は、母がイギリスの色の白い人で、父がアルジェの人なのです。彼のくっきりとした目元は父親譲りで、彼と色々な話をしている時に“僕は小さい頃、ターバンを頭にグルッと巻いて育ったんだよ”と教えてくれました。
彼はターバンの形を作るのが非常に上手で、劇中ではターバンを巻いてピアノを弾くクララの足元に跪いて“奴隷になりたい”と言う事になったのです。」

——ヨハネス・ブラームスはエキセントトリックな人物として描かれていますが、監督自身にもそのエキセントトリックな血は流れていると実感しますか?

「確かにそれはブラームス家の血だと思います。私の大叔父も逆立ちして歩けたぐらですからね(笑)
マリック自身も実際に逆立ち歩きを劇中でやらなければならなかったので、ブレイクダンスの先生を呼んで一生懸命手が擦りむけるまでトレーニングをしました。更にその手でピアノの練習もしなければならないのでかわいそうでした。
私の叔父はまだ存命ですが、エキセントトリックな人間であり、ある意味孤独で自由な人間でもあります。
そういう人がいなければ、私は今この世界にいなかったかもしれません。叔父が11歳で私が4歳だった頃、一晩中オペラを歌い続けたりしましたね(笑)
逆立ちで歩くというのは、あの当時はまだ帆船で世界中を航行していた事と関係しています。船に乗るという事は、アクロバティックな動きが必要とされますからね。
ヨハネスが港で遊んでいた時、そのような動きを小さい頃から見ていたのかもしれませんね。」

執筆者

池田祐里枝

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