『ナビィの恋』『ホテル・ハイビスカス』の中江裕司監督の新作は、沖縄を舞台に、ウィリアム・シェイクスピアの遊び心あふれる祝祭劇『真夏の夜の夢』を大胆にアレンジ。人間と沖縄の小さな島の守り神精霊たちとが織りなす、幸福に満ちた物語である。

ヒロインゆり子に、大河ドラマ「風林火山」で由布姫を演じ、映像に舞台に活躍する期待の女優、柴本幸。島の精霊(キジムン)マジルーを、『ホテル・ハイビスカス』でやんちゃぶりと笑顔をふりまいた蔵下穂波が演じるほか、『ナビィの恋』やNHK連続テレビ小説「ちゅらさん」で”沖縄のおばぁ”として全国的な人気となった平良とみをはじめ、平良進、吉田妙子、照屋政雄、玉城満など、もはや中江作品には欠かすことのできない沖縄スターが多数出演している。もちろん沖縄民謡の大御所、登川誠仁も劇中の唄三線で特別参加している。『ナビィの恋』『ホテル・ハイビスカス』に続いて3度目の顔合わせとなる高間賢治による撮影は、真夏の沖縄の豊かで鮮やかな色彩を見事に映し出している。

今回は、このおおらかで幸福に満ちた祝祭劇を作り出した中江裕司監督にお話を伺った。




−−原作者のシェイクスピアの国、イギリスは妖精の国でもあるわけですが、それを沖縄のキジムン(精霊)に結びつける発想は面白いと思いました。 

「原作を読んだときに、妖精と人間が当たり前のように共存しているのが面白かったんです。これなら沖縄の離島で撮れるんじゃないかなと。沖縄も、それが妖精なのかどうかは分からないですが、目に見えない気配のようなものと一緒に暮らしてますからね。そういうものがある場所で撮るのは自然なことだと思いました」

−−沖縄ではタイトルが『真夏の夜の夢』ではなく、『さんかく山のマジルー』に変更されたそうですが、やはり沖縄の人にとってはキジムンが身近ということなのでしょうか?

「やはり『真夏の夜の夢』では、自分たちの映画という感じがしないんでしょうね。『さんかく山のマジルー』にすると、ああ、沖縄の映画ね、と思いやすいんですよ。洋画の邦題みたいだねと言われました。字幕もついてるし、洋画みたいだねと」

−−マジルー役の蔵下穂波さんは3000人の中からオーディションで選ばれたそうですね。確か彼女は『ホテルハイビスカス』のときもオーディションで選ばれたと思うんですが、両方とも勝ち抜いてきたということに何か運命的なものを感じます。

「運命というわけではないんですが、彼女が役者としてずば抜けているということなんです。彼女は野生の血がすごく強い子で、他の子では絶対に出来ないことをやるんですよ。
 他の子とはまったくアプローチが違うんです。他の子だと、マジルーはこんな感じかなと、マジルーらしき演技をするんですけど、彼女はマジルーになるんです。マジルーになってないうちは全然ダメなんですが、彼女の中でマジルーになる瞬間があるんです。
 だからいまだに彼女の中には(『ホテル・ハイビスカス』の)美恵子がいるんですよ。美恵子のせりふも全部言えるし、もちろんマジルーのせりふも全部言える。自分の中にある美恵子を引っ張り出すことができるということなんです。今回の映画でマジルーが増えたわけで、こういうのが増えたら私はちゃんとした女優になれると言ってますね。役に合わせてアプローチしていくんじゃなくて、役をつかんでいくというのが他ではちょっとない才能ですね」

−−彼女はこれからも女優さんをやっていくんでしょうか?

「オーディションの応募用紙には、私は世界の女優になると書いてありました」

−−それは世界各国の映画に出るような女優になるという意味ですか?

「どういう意味なのかは分からないですが、マイジェット機を持つくらいの世界の女優になるらしいですよ(笑)」

−−さんかく山が印象的ですが、最初から監督のイメージにあったんですか?

「いえ、あの山はロケハンをしているときに見つけたんです。島であの山を見た時に、すごい山だなと。山に登ったんですが、そこにいるとマジルーの気分になれるんです。山のすぐそばが海なんですが、そこをフェリーが通ると、あそこにゆり子が乗ってるんだなと思えるんです。マジルーはそれを何年待ちつづけたのかなと。きっと20年間ずっと、あの山にのぼって、今日はゆり子が乗ってるかな、乗ってないかなと待ちつづけていたんでしょうね。マジルの気持ちが分かったんですよ。そう思ったときから脚本が進みました」

−−シェイクスピアの原作だと、妖精のパックは狂言まわし的な役割でしたが、この映画ではパックにあたるマジルーによりフォーカスしている印象がありました。やはりマジルーに惹かれるものがあったんですか?

「パックって他の妖精たちと違って、ものすごく魅力があるわけですよ。そう考えたときに、単に狂言まわしというだけでなくて、物語やテーマに深くかかわらせたいと思ったんですよね」

−−キジムンという妖精はタコやオナラが嫌いなわけですが、よく考えてみると以前の監督の映画にもタコやオナラがよく出てきました。そういうキジムン的なキーワードのものは意識しているんですか?

「そうですね。タコって見た目が面白いじゃないですか。ちょっと怖いし。だからキジムンは苦手なんでしょうけど、タコって不思議な感じがしますよね。そういうのが欲しいんでしょうね。
 タコの撮影って大変なんです。またタコか、と言われてしまうんですけど(笑)。頭にタコをかぶらせるシーンがありましたが、撮影が夏だったんですけど、夏の沖縄にはタコがいないわけなんです。深いところに行っちゃうんで、つかまらないんですよ」
 
−−『ナビィの恋』でもタコを食べてるシーンがありましたね。

「西田(尚美)がガブッとね。やはりタコをガブリとするのが一番、野生味を表せると思うんですよ。魚をかじるよりも、タコにかじりつく方が野生が現れてますよね」

−−劇中には、人間が忘れるとキジムンがいなくなってしまうという設定がありました。忘れちゃいけないものというのは、自然だったり、故郷だったり、人によっていろいろなものに言いかえられるとは思いますが、監督は何を忘れちゃいけないと思っていますか?

「目に見えないものですね。今はみんな目に見えるもの、物欲で生きているじゃないですか。これが欲しいとか、あれが欲しいとか。
 でも、人は目に見えるものだけで生きているわけではないですよね。目に見えないものはたくさんあるわけです。妖精だってそうだし、人の気持ちだってそう。でもそういうものはないことになっていて、目に見えるものだけで生きて。勝手に辛くなってるのが現代なんです。
 だから目に見えないものを忘れてはいけないんです。みんな失ってはいないんですよ。ただ忘れているだけで。だからそれを思い出すことによって、もっと豊かに生きられるんじゃないかなと思ってますね」

−−以前の作品にもそういうテーマは流れていましたが、この作品ではもう少しストレートに伝わってきます。そこらへんの心境の変化はあるんですか?

「危機感はありますね。日本だって、沖縄だって、そういうものを大切にしてきたはずなのにそういうことを忘れてしまった。忘れたままでいれば、そのうち滅びますよ。
 日本という国の概念が滅びれば、沖縄という土地の概念も滅びます。そういう危機感はあります。忘れられたら、いなくなったも同然じゃないですか。たとえば昔の恋人だって、自分が忘れてしまったらいなくなったも同然ですよね。それって哀しいじゃないですか。
 劇中でも『人間は悲しみを忘れないと生きて行けない』という台詞があるんですが、もちろん忘れるということは生きていくためにとても大事なことなんですけど、じゃすべて忘れていいのかということですよね」

#−−たとえば平良とみさんが島の王になって、進さんが王妃になったりと男女逆になっていたり。そういうところに、そんなのどっちでもいいじゃないかというような、おおらかな感覚を感じます。

「その方が楽しいですからね。今は何でもカテゴライズしますよね。あなたは何者ですか? あなたは男でしょ、女でしょ、といった感じで全部決めちゃいますよね。そこにいるかいないかが大切なのに、その人がいい人なのか悪い人なのか。怖い部分もあるし優しい部分もある。男の部分だけでなく女の部分だってあるだろうし、何だっていいと思ってますね」

−−そういう何でもありな感覚が、やがて最後の祭りのシーンで最高潮に達します。

「夢だとかうつつだとか、そんなのはどちらでもいいと思うんですよね。最後の山の上でマジルーが口上をしているときに、カットした台詞で「映画とはしょせん闇の中にしか存在しないもの」というのがありました。映画ってそういうところが魅力だと思うんですよ。映画が終わって照明がついたら、目の前にあるのは白いスクリーンだけ。自分はものすごく感情移入してそこの場所や国に行っていたのに、映画が終わると何もないわけじゃないですか。実感として夢みたいですよね。そういうことでいいんじゃないかなと」

−−最後のマジルーの口上にも、しょせん映画じゃないか、という感覚があります。

「登場人物をカメラ目線にするのは、僕の映画では必ずやりますね。『ホテルハイビスカス』もカメラに向かって手を振ってますし。映画が終わったら、ハイ、もう終わりですよ、夢からさめてください、という気持ちがあるんですよ」

−−中江監督の映画はどの映画もそういう感覚がありますよね。『ナビィの恋』しかり、『恋しくて』しかり。

どこかで夢と現実をごちゃ混ぜにしたいという気持ちがありますね。時間の感覚もおかしくしたいし、場所の感覚も歪ませたいんです。あらゆるものがグジャグジャというか、一緒になりたいというんですかね」

−−混ぜるという意味のチャンプルーという言葉もある通り、沖縄の魅力のひとつに何でもミックスしてしまうところがあると思います。

「なぜそんなチャンプルーみたいなものが出来るのかというと、ベースにとても強いものを持っているからなんですよ。ベースが弱ければ他のものは取りいれられません。絶対に自分たちの根っこの部分が変わらないという自信があるから、どんどん自分たちに取り入れて、自分のものにしちゃうんですよ。僕はウチナーンチュの世界制服作戦じゃないかと思っているんですけど(笑)。
 だから本土の人を婿にとるとか、嫁にとるというのは沖縄の人は平気なんですよね。そうやって一族は増えていくんです。そして生まれた子どもは必ず沖縄の顔になっていくと。それが血が濃いということなんですよね。アメリカ人だろうが、ブラジル人だろうが、変わらないですね。一緒なんですよね。そうやってウチナーンチュは増えていくんですよ」

−−では最後に、これから映画を観る方にメッセージを。

「みんな自分なりのマジルがいると思うんですよ。それは親かもしれないし、故郷かもしれない。ご先祖さまや親友、恋人かもしれないですが。ありとあらゆる場合がありますが、自分ひとりで生きていると思ってる人でも、必ず誰か見守ってくれてる人がいるし、そのことを忘れてはいけないんじゃないですかね。そうすると豊かに生きられると思います」

執筆者

壬生智裕

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