外来の精神科診療所「こらーる岡山」に集う人々を撮影した本作『精神』は、前作『選挙』が国内外で大きな話題を呼んだ想田和弘監督による“観察映画”の第2弾だ。医師・山本昌知さんをはじめ、彼をたずねる様々な精神疾患を抱えた患者たち、またその家族、スタッフたちなど「こらーる岡山」を中心に巡る世界にカメラを向けた本作は、釜山国際映画祭、香港映画祭、ベルリン映画祭など海外映画祭で最優秀ドキュメンタリー賞や数々の賞賛を浴び、国内ではゆうばり国際ファンタスティック映画祭でプレミア上映されている。

精神のあり方を語ることはすべての人間にとって当事者であるはずが、加工なしにカメラをそこに向けることはもとより、真正面から取り上げられてこなかったテーマである。しかし監督の想田和弘はカメラを手に、ずかずかと、でもなく、しかし恐る恐ると、というわけでもなく、実に自然に彼らの生きる姿を映し出した。そこには絶望もあれば、笑いもあり、愛があり、怒り、そして涙もある。ナレーション、テロップ、音楽など説明的演出を徹底して廃した演出手法のもと、精神疾患という精神の均衡がそこなわれた状態の人々を映し出すことで、そもそも精神障害者にとってはもちろん、健康な人々にとってもすべての人が当事者である“精神”自体をあぶりだすことに成功している。病気だけがそこに在るのではないのだ。そこには患者を映すことへのタブー感や、いらぬ先入観というつまらない種類の世俗的なものから遠く離れて、よりフラットに人間を、そして人間の中で常に揺れ動く“精神”をみつめるミクロからマクロへズーミングしていく視点がある。監督自身「興味のあるものに虚心坦懐にカメラを向けることを心がけた」と語っているが、しかしそれは現実に生きる人々を映し、編集し、加工する作業であるドキュメンタリーの根本と、そのエグさ、残酷さを引き受けた上で制作しているからこそなのである。想田和弘監督に制作について話をうかがった。







—— “観察映画”というコンセプトですが、作品を見ていると、撮られた映像に衝撃を感じると同時に、これを現場で直接撮っている監督自身の気持ちもすごく意識させられましたが…。
「そう感じてもらえたら、僕の狙いどおりです。観察映画「なのに」ではなく、観察映画「だから」そう感じてもらえたんじゃないでしょうか。観察映画ではテロップや音楽などの演出、説明的なものを画面から排除した作りの為、“事実を客観視することを目指している”と思われがちなのですが、僕の目指すところはすごく主観的な映画なんです。僕という主体が感じ、カメラを通して観察したものを、映画を見ることでお客さんに一緒に追体験するような気持ちで観て欲しいという意図があります。」

—— なるほど。では実際の現場での撮影時、監督はどういう心理状態だったのか気になるんですが。たとえば、ショートステイの施設に泊まる方にお話を伺う場面ですが、患者さんと会話のやりとりをしていくうちに、彼女のヘビーな状況がどんどん明らかになってゆくシーンはすごく衝撃的でした。
「彼女とはその日が初対面で、ショートステイの施設に泊まると聞いたので、彼女を撮れば医療施設におけるショートステイというシステムが描けるかな、という軽い気持ちだったんです。だから彼女が病を患っているかどうかもその時点では知らなかったので、お話を聞いていくうちに、ものすごく悲しい過去の経験があることがわかってきて、ビックリしました。「もしかして今すごいこと聞いてるのかな?」と。もう震えながら撮った、という感じで。でも僕もドキュメンタリー作家ですから、職業的興奮も混じっていました。不思議なことにどんどん意識が冴えていくんです。全体で16分以上、ワンショット6分30秒くらいある長いシーンなんですが、フォーカスやアングル、カメラの動きなど、後で映像を確認したら自分でもかなりベストな状態で撮影できているんですよ。彼女の話に、人間としてものすごく心を動かされていると同時に、映画作家としても特別な時間を過ごしていたと思います。」

—— ドキュメンタリストとしての、瞬発力ですね。撮影もすべて、あえてリサーチせずに臨んだとか。
「綿密に情報収集をして被写体をよく把握した上で撮影に臨むのがドキュメンタリーでは主流のやり方です。僕もテレビ番組などでずいぶんそのやり方で制作しました。でもこのやり方だと、自分が事前に得た知識に縛られて生の現実が見えなくなってしまうんです。
例えば統合失調症についてリサーチしてから現場に行くとすると、統合失調症の症状だけに目がいってしまう。被写体自身の人間性だとか表情、しぐさだとかよりも、ある意味病気だけをみてしまうようになってしまうんです。「彼女は統合失調症です」というレッテルを貼った上では話を聞きたくなかったし、「●●さん(躁鬱病)/病歴●●年」というテロップを編集時に入れるようなこともしたくなかった。なぜかというと、カメラを回し始めた段階ではその人が患者なのかどうかも知らないんですよ。病気の人の家族なのか、ボランティアでお手伝いをしている方なのかもわからないんです。話しを聞いていくうちにだんだんわかってくる場合もありましたが、最後まで病んでおられるかどうかわからない場合もありました。
実際、普通の人間関係でも「想田和弘(映画作家)」とか名札ぶらさげて歩いているわけじゃないですよね。お会いして色々話しているうちに、どういう人なのかがわかってくるもの。作品の中でもその順序でお客さんが僕と一緒に理解していくようにしたかったんです。」

——すごく自然に患者さんたちに溶け込んでお話を聞いているように見えましたが、カメラが存在することで、その人本来のありのままの姿を映すことの難しさもあったんじゃないですか?
「そうですね、『選挙』の時のように、僕=カメラはガラスで仕切られた傍観席にいるような、被写体と僕の交流はないものとするはずだったんですが。こらーる岡山ではそれが全然通じなかった。患者さんたちは、いくら僕が「カメラのことは無視して振る舞ってください」と言っても、そんなことはおかまいないしに僕に話しかけてこられるんですね。
当初自分のコンセプトとずれてしまうので戸惑いましたが、僕の存在も含めた状況を観察する『参与観察』を行うのも、この映画にとって間違ったアプローチではないと思い直しました。でもだからといって彼らから積極的に色々聞いて、話を引き出そうことはしませんでした。インタビューというよりも、『会話』をしようと心がけたわけです。だからとても自然なものになったんじゃないかと思いますけど。カメラを武器にほじくり出すっていう手法もあるけど、それとはまったく対極のやり方で、ぽろっと出された無意識のようなものを記録する、というものを目指しました。」

—— 合計で撮影素材が70時間、編集には10ヶ月かかっています。リサーチせずに撮影していて、撮影を終わりにしよう、という判断はどこでするのでしょうか?
「撮影を終えた時は、止めたというよりもとりあえず今ある素材を一旦編集してみようか、と思ってただけなんです。作品のテーマを事前に設定すると、どうしてもそれに引きずられて生の現実を良く観ることができなくなるので、撮影中もこの映画のテーマを“考えよう”、“見つけよう”とすることをあえて避けていた。だから、自分の興味の向くものに虚心坦懐にカメラを向けて撮るだけとって、編集段階になってようやく初めて映画のテーマについて考えはじめるんです。そして編集作業を続けるなかで、なにかひとつ映画として一本筋が通ったという瞬間が訪れました。そこでこれでもう追撮はいらないなという判断がはじめてできました。」

—— “映画”になったな、という感覚は具体的にはどういうところですか?
「編集作業の最初の段階では、まず自分にとって面白かったシーンから繋いでいくんですが、ひとつひとつが面白くても、それらを連結しただけでは映画にならない。シーンの羅列にしか見えないんですよ。そこに映画として血を通わせてゆくのが、そこからの戦いで、すごく時間がかかります。
僕にとって、ドキュメンタリー映画はジャーナリズムではない。ジャーナリズムは情報を伝えるということが主な任務かと思いますが、ドキュメンタリー映画は情報ではなく、衝撃や、心の動き、もっと抽象的なものを伝えるものです。血が通うということは要するにそれを観て心が動くようになったかどうか。映画というひとつの生き物のように感じられるようになったか、ということです。」

—— 猫が路地でなごんでる姿や風景が間に入っていますが、こらーるの外部の世界という意味合いでもそういう絵を入れているのは映画作家としての監督の演出、情緒のひとつだと感じました。
「映画には作家の世界観が表現されます。僕はまず“個人”や“集団”といった人間の世界にカメラを向けていますが、彼らを社会的文脈においてみるとどうなるのか、あるいは宇宙的な観点で捉えるとすればどういうところにいるのか、という部分にも興味があるんです。この世には人間だけが生きているのではなく、木々もあるし、猫もいて、鳥も鳴いていますよね。色んな要素で構成されている。そういう僕の世界観が映画に反映されているのだと思います。」

—— 『演劇』という仮題の新作もすでに動いているそうですね。平田オリザさんが主宰する青年団の人々を撮っているとお聞きしましたが。
「単純に僕が平田オリザさんの一ファンで、まず彼らの創作現場を“観たい”という動機からはじまってます。まだ編集を始めてないので断言できませんが、撮影はいちおう終わった気がするので、2010年完成予定です。今回は300時間以上カメラが回ってます。『演劇』が完成すれば、『選挙』『精神』と合わせて3部作になるかも。『選挙』は日本社会の中心=体制にいる人たちについての映画です。『精神』は周辺にいる人たち、あるいは、かつては中心にいたかもしれないけど、病気をきっかけに周辺に追いやられてしまった人たちについての映画。また『演劇』に出ているのは芝居をやっているアーティスト、芸術家たちですから、真ん中にも周辺にも居ないんです。その間のどこかに居る。社会の異なるポジションにいる方たちの、人とのコミュニケーションの仕方や、人生観の違いなど、3作品並べてみることで、日本の社会が俯瞰できるようなものになると思います。」

執筆者

綿野かおり

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