“苦痛や不安定な感情が溜まってエネルギーに転換された”『パリ、恋人たちの2日間』ジュリー・デルピー監督インタビュー!
恋人たちの都・パリで過ごす2日間。
アメリカ人の彼・ジャックを襲うのは、カルチャーショックの嵐。
さらに、次々と明らかになるフランス人の彼女・マリオンの男性遍歴。
別れの危機は突然現われる!
『ビフォア・サンセット』でアカデミー賞脚色賞ノミネートのフランス人女優、ジュリー・デルピーがマルチな才能を余すことなく発揮!何と、監督、脚本、製作、主演、音楽、編集まで務めあげた。細やかな遊び心が隅々まで散りばめられ、辛辣な皮肉が効いたテンポのいいセリフの数々が清清しい。
フランスで『ビフォア・サンセット』を超えるスマッシュヒットを記録した会心作が遂に日本上陸!公開に先立ち、単身来日したジュリーは、フランス語と英語を巧みに使い分けながら、どんな質問にも、率直にユーモアを交えながら答えてくれた。
——テーマで目指したものは?
この作品は恋愛をテーマに、あくまでも面白おかしいコメディを撮ろうと思って始まった企画で、以前から描こうと思っていたストーリーです。『ビフォア・サンライズ』、『ビフォア・サンセット』を経て、コミカルな作品にしようと思いました。難しいテーマも含まれていますが、あくまでもコメディを描こうと思いました。アダム・ゴールドバーグのジャックはポスターではかっこよく描かれているんですが、実際はこんなにかっこよくない(笑)。コメディに加え、別れというシリアスなテーマも最初からの目的でしたが、自分を含めてたくさんの人達が経験している別れを、いかに面白く描くかということを目指しました。
——監督、主演、プロデューサーなど、一人で多くの役をこなしていますが、その原動力は何だったのでしょうか。飼い猫の名前はジャン=リュックですが、ゴダール監督の影響もあるのでしょうか?
ジャン・リュックという猫の名前は、ジャン=リュック・ゴダールに対するちょっとした目配せです。多分マリオン(ジュリー・デルピー)とジャック(アダム・ゴールドバーグ)が出会った時、二人でゴダールの映画を見に行き、その後に猫を飼い始めてジャン=リュックという名前をつけたという感じです。ゴダールは好きですが、フランスにはジャン=リュックという猫はいないと思うし、猫につける名前じゃないと思いますね。すごくばかげている。けれど、この2人はBOBOと言われる30代の流行の先端を行くような人たちであるがために、ジャン=リュックという名前をつけて遊んでいます。
この映画の中で色んな分野を担当したのですが、そのエネルギーというのは自分の中でずっと長い間映画を作りたいという気持ちがずっとあって、でもなかなか実現できなかった苦しみや経験全てがエネルギーになって出たのではないかと思います。自分の力の無さや悩み、不安定な感情が溜まってエネルギーに転換されたような気がします。長い間女優として仕事をしてきましたが、その裏では不安や苦痛があったのです。諦めたこともありますし。そういうことを総体的に苦痛と言っています。
——キャスティングが絶妙でしたが、ご両親やアダム・ゴールドバーグは脚本から考えられて起用されたのでしょうか?
両親の起用に関しては、シナリオを書いているときから彼らを想定していました。彼らは舞台で40年の経験を持っている人たちで、彼らに見合った配役を映画の中で作ろうと思っていました。最初のスタンスのときにバジェットがなかったことも一つの理由だし、自分が描いていることが彼らの喜びになるのじゃないかと思いました。アダム・ゴールドバーグの起用については、すごく力量のあるコメディアンだと常々思っていたからです。本当に悲しげなピエロ役がぴったりな人で、彼がいじめられればいじめられるほど、不幸になればなるほど見ている人には面白おかしく見えてしまう。この映画にとって重要なクオリティを持っている人で、ちょっとノイローゼ気味のニューヨークのユダヤ人というようなイメージを持っている。ウッディ・アレンにも似ているという人がいるけどウッディ・アレンよりはかっこいい! とてもかわいらしいでしょ。彼の体も。アダムは自分の体を好きな人なんです。
——面白おかしいコメディを撮ろうとしたということですが、社会を皮肉っているセリフも入っています。そういうセリフを入れた気持ちは?
シニカルな部分、政治的な部分は重要視しています。普通はラブコメディというと、コード化されたある種の形があると思うんです。例えばエッジの効いたセリフはご法度だし、政治的なコメントは省かれ、口喧嘩をしている部分は既存のラブコメにはない。けれども、敢えてそういうシーンを入れることで、ラブコメのコードを壊したいと思いました。実際に私も政治的なテーマで色々な人とやりとりをすることは必要不可欠な部分ですし、そういう意味でもあえて残しました。
——最初の方で『ラスト・タンゴ・イン・パリ』の真似をするシーンが登場しますが、どういう意味合いを持たせようと思ったのでしょうか?
『ラスト・タンゴ・イン・パリ』は『パリ、恋人たちの2日間』とは真逆の作品で、愛とかセックスとかを激しく捉えている作品だと思うんですね。それに対してこの映画は、気持ちはあるのだけど、情熱を持てない2人の話です。あえて正反対の一つの目配せに入れると面白いんじゃないかなと思ったし、全然マーロン・ブランドに似ていない(笑)アダムにああいうことをさせるとバカっぽいのじゃないかなという思いで入れました。
——映画の最初と最後にダ・ヴィンチ・コードツアーをしているアメリカ人が出てきますが、普段から見かける光景なのでしょうか?
『ダ・ヴィンチ・コード』の映画が公開された後、アメリカだけでなく世界中のたくさんの国からダ・ヴィンチコードツアーでやって来る観光客がたくさんいます。パリに住んでいる人たちにとってはイライラの原因の一つになっていて、ツーリストはダ・ヴィンチ・コードに出てくる場所を一周するんですが、教会に行って石に傷をつけたり、削り取ったりすることがあるそうなんです。この映画の中の彼らも本当だったらツアーとして色んな教会を周るんでしょうけど、図らずもパリの郊外に行ってしまい、しまいにはマクドナルドに行ってしまうというばかげたツーリスト達を描きました。
——育ったカルチャーの違い、根本的に違う男女という存在を超えて男女が平和にするには何が必要だと思いますか?
自分自身は人生というのは長い長い苦痛の継続だと思っています。だから恋愛や愛情において人間というのが果たしてハッピーになれるかどうかは分からない。私がハッピーだなと確信が持てるのは仕事の中でなんです。愛情を通して幸せを感じるというのは自分にとって難しいものだと思っています。人間というのは深い意味でのコミュニケーションを取るのはとても難しいことだと思うし、自分自身も確信が持てない。それがまるっきり信じられない場合、一生自分は一人でいるんでしょうけど、少し自分も信じている部分もある。でもそれよりもっと多くの疑問を持っています。この映画は、底の底の部分で「愛は全うできるものなのか?」という疑問を投げかけていると思います。人の強さや存在、重さは違うと思う。本当に人間同士の相互関係は成り立つのかどうかということで、実は疑問を持っている。だから本来的に男と女は水と油なんじゃないか。だから、本当に中和して混ざりあうことはないんじゃないかなと思うんです。混ざり合うというというのは体を重ねた時に思うかもしれないけど、損傷も与えていると思うんですね。だから本当に一致するのかなっていうのは自分も疑問に思っています。
執筆者
Miwako NIBE