中国・北京の旧城内を中心にそこかしこにある細い路地、胡同(フートン)には、伝統的な建築様式で作られた庶民の古い家屋が立ち並ぶ。生活感に溢れ、古き良き都の情緒漂うスポットとして知られているが、オリンピックを控え、昔の街並みは、そこに住む人の細やかな人情とともに姿を消そうとしている。そうした流れのなかで、胡同の一角に暮らす93歳の老理髪師の毎日をドキュメンタリータッチで描き、「豊かに生きる」ことの意味を私たちに問いかけている。

主人公のチン爺さんを演じるのは実際に理髪師である93歳のチン・クイ。そのほか、ほとんどのキャストが胡同の老人ホームや長屋で見出された人達で構成された。最年長のアマチュア俳優チンさんを相手に、ハスチョロー監督には数々の苦労が待ち受けていたのだった。








——この作品を撮ろうと思ったきっかけを教えてください。

2002年のことですが、北京の胡同に80歳以上のお年寄りの理髪師がいることをテレビで偶然に知ったんです。その人は三輪自転車でお客様の家へ理髪に出向き、孤独な老人のおしゃべりの相手もしていました。素敵なおじいちゃんで白髪と上品な雰囲気が私に強い印象を残したのです。それからしばらくは何もしていなかったのですが、2005年にこの人を探そうと思い立ち、もし探すことができたら映画に残しておきたいと思って胡同を駈けずり回りました。もしこの時チン・クイさんを探しだせなかったら、この『胡同の理髪師』はあり得なかったわけです。

——この作品はドキュメンタリータッチのフィクションとして描かれています。なぜドキュメンタリーではなくフィクションの形にしたのでしょうか?フィクションにすることによってより深く内容を表現できると思ったのでしょうか?

そうですね。今おっしゃったとおりだと思います。私は毎回テーマによって一番ふさわしいスタイルを決めていくやり方をしているので、ドキュメンタリータッチの劇映画にしたこと、そしてまたカメラをフィックスで一枚一枚の写真のように撮っていくスタイルが合っていると思ったわけですが、皆さんに受け入れられているということは、ふさわしいやり方だったと思いますね。

——撮影時の苦労した点と、楽しかった点を教えてください。

最初、チンさんに主役をやってもらうということに対して多くの方が「危ないんじゃないか」、「難しいんじゃないか」と言いました。私もその危惧は大きくあって、やはり90歳を過ぎていると、一日一日が大事で、明日生きていられるかというのは分からないわけですから、スタッフ全員が手に汗を握る思いをしていた日々でした。本当にドキドキしながらチンさんの健康状態を観察していたと思います。撮影中はホテルに全員滞在しながら行ったわけですが、チンさんが泊まっていた部屋は私の向いの部屋でした。チンさんは、毎朝6時に規則正しく起きます。その音を耳を澄ませて毎日聞いていました。撮影の期間中ずっと、元気かどうか神経を尖らせてヒヤヒヤしながら撮影をしていたわけです。
撮影にはいろいろなことがあったんですが、チンさんに対しては家庭的な雰囲気で接していきました。特に食事はスタッフとは別格で、規則正しく取ってもらうことが大事だったので、娘さんやご家族に食事を作ってもらい、ホテルで普段と同じ時間に、同じ食事ができるようにしました。
普通の撮影であれば監督中心で動きますが、スタッフはそれについてくるわけではなく、チンさん中心に撮影が回っていった。チンさんが「疲れた」と言えば撮影をストップせざるをえなかったので、スタッフは楽だったと思います。一日にワンシーンぐらいしか撮れませんでした。でも監督の私は撮影が延びればいろんな費用がどんどんかかってしまうという点でヒヤヒヤでした。

 二つほどエピソードがあります。チンさんはとても頑固でこんなことがありました。麻雀のシーンで別の人が喋り終わったらチンさんのセリフがあるシーンがあった。チンさんはお年のせいで耳が悪く、うまくつなげないわけです。何テイク撮影をしても駄目で、無線のイヤホンを買ってチンさんに着けてもらったわけです。「チンさんセリフですよ」と言えるので。それをつけてセリフをスタートしてもうまくいかない。どうしてもセリフを言ってくれない。その時、娘さんがやってきて、「イヤホンを外してあげたらできると思います。父は強がりで耳が悪いことを認めたくないので、どうしてもいやなんです」。とアドバイスをもらいました。そこでチンさんのイヤホンを外してあげたらうまく撮影できました。
 もう1つですが、ラストに近いシーンで息子が入ってきて死んだように見えるシーンで実は生きていたというシーンがあります。とても長いシーンですが、テストは一発OKで本番になったら11回撮ってもNG、フィルムが一巻くらい無駄になり、12回目になんとかOKになりました。また娘さんがやってきて、「監督、実はお父さんは、お腹が痛くてゴロゴロしていてトイレに行きたかったのでうまくできなかった、でも頑固だからそれを言わない。それでうまくいかなかったんですよ。絶対弱音は見せませんからね」と言っていました。でもそのお腹の痛い雰囲気がよろよろした雰囲気に合っていたので、不幸中の幸いだったわけです。ですから、こういう風に歳をとっていないと頑固に思っているからこそ理髪師を80年続けてこられたんだと思いますね。まだまだ若いという心意気で長生きをして愛らしいお年寄りになった。そこに大きい理由があると思います。

——チンさんをはじめとする出演者は一般の方々だそうですが、一般の方々に演技をしてもらうために演出面での苦労はなかったのでしょうか?

確かにプロの役者さんではないので演技指導の上で大変な難しさがありました。とにかく何でも少しずつ教えながら進めなければならないんですね。セリフまわし、動きのリズムなど、自分達からできない人たちばかりですので、手取り足取り一から十まで事細かに教えながら進めていく状態でした。ワンカットに対して何度も撮り直す時間がかかり、ものすごいテイクを使っています。そういうことも苦労の一つですが、とにかく皆さんがお年寄りなので、身体の具合が悪いとか、よく聞こえないとか、動きが鈍いとか、そういうことは多々あって、苦労の連続の中で一つ一つ解決しながら撮影を進めていきました。例をあげると、チンさんのアップのシーンなんですが、ニュウニュウという猫がいて、テープを壊してしまう。振り返ってアップでチンさんが猫に声をかけるシーンにニ十数回かかったんです。十数回撮ったあたりで目線もよくない。猫は言うことを聞かないので何もない状況で撮影していたのですが、「ニュウニュウ」と言ってもらうために小道具係に猫を抱かせてしゃがませた。それでもできない。どうしてかなと思ったら、小道具係が黒い革ジャンを着ていて、暗い部屋で歯しか見えなかった。出っ歯で面白い顔で、歯だけ浮き上がっている感じなんですよ(笑)。チンさんも目が悪いので、歯だけが見えて小道具の彼を猫だと思ってしまった。そっちを振り向いて変な顔をしているのでうまく撮れなかったんです。猫を抱かせる人を小道具係から他の人に変え、やっとに二十数回目でOKテイクが撮れました。

——映画の背景にある現在の中国社会の問題についてどういう風に感じていますか?

本当に中国は急激なスピードで大きな変化を遂げていると思うんですね。特に西北地区に多かった農牧業を営む人達は、かつて非常に貧しいと言われていました。ところが、別の映画を西部地域で撮影した時に知ったのですが、一番貧しいと言われている地域の子供達の学費や健康保険が無料になっていました。中国のように13,14億の膨大な人口を抱える国が豊かになることは、やはり容易なことではありません。貧しい地域で様々な改善が行われていることは素晴らしいことだと思います。かつては幹線道路しか整備されていなかったのが、現在は山奥の村々までアスファルトの道路が通じるようになりました。経済の発展と同時に文化面、人間の素養面でも飛躍的な発展があったと思います。人間の文化レベルは経済と密接な関係がありますよね。食べる物や着る物が十分でないのに文化水準だけを問うことはできません。人間、腹が減っていては文化だの何だの言っていられないわけです。ところがここ数年来の大きな変化、特にオリンピックを目前にした様々な変化は良い方向に進んでいることだと思うし、嬉しいことだと感じています。中国はアジアにおいて日本と並ぶ大きな経済力を持つ国ですので、国力を着実につけていって、そして日本と中国との間で、経済面、人的往来面でもだんだんと交流が進んでいっていることはとても喜ぶべきことです。

——規則正しく毎日生きるチンさんの生き方は人間にとって理想の生き方の一つだと思いますが、監督にとっての理想の生き方とはどういうものでしょうか?

やはり私にとっては、自分の成し遂げたいと思うことをできるということが生きていることの意味になりますね。でもそれは本当に難しいことですよね。必ずしも、誰もが自分のしたいことをできるわけではありません。ほとんどの人はおそらく受動的でしかないわけです。人から何か強制され、それをやるしかないという人がほとんどではないでしょうか。しかし自分のしたいことを一生し続けることができ、何らかの成果が上がってくるのであれば、それが一番幸福なことではないでしょうか。

——それでは、監督にとって映画監督は天職だと思いますか?

たぶん神様は私に最もつらく苦労の多い仕事をくださったのだと思いますね。映画監督という職業は一番大変な職業だと思います。監督が撮影現場で楽しんでいたとしたら、良い映画を取れるわけがありません。だからつらい宿命を背負わされた哀れな人間だと思います。私ってかわいそうでしょ(笑)。

執筆者

Miwako NIBE

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