『ピンポン』が日本映画に立ち込めていたある種の湿気を吹き飛ばしてしまったように。『APPLESEED アップルシード』がCGテクノロジーの無限の可能性を掲示したように。曽利文彦は、自身が関わる映画でいつも、僕らの度肝を抜き、映画の新たな歴史をスタートさせてきた。その裏には、このインタビューでも語られているように“たくさんの人に観てもらいたい”という非常にシンプルな想いが敢然と根を張っている。言葉だけを見れば鮮度のない言葉なのかもしれない。だが、曽利監督最新作『ベクシル 2077日本鎖国』という衝撃作が裏付けるその言葉は、今までに存在していなかったかのような鮮度を保っていて、ロックすらも感じさせる。

ハイテク鎖国に突入してから10年間、外国人が誰一人として日本の地を踏んでいない2077年。不穏な動きを見せる日本に、主人公ベクシルを含む米国特殊部隊SWORDが潜入。そこで繰り広げられるド派手でスタイリッシュなアクションは『APPLESEED』でのクオリティーを遥かに超え、しかしそれに頼ることなく中心に存在する、ベクシルが目にした驚愕の日本の”風景”と”人間”というシンプルなテーマ。そしてそれらをずば抜けたセンスで盛り上げる音楽(ブンブン・サテライツ、プロディジー、アンダーワールドなどなど。もう名前を挙げただけでもすごすぎ!ミンク、ブンブン、M.I.A、エイジアン・ダブ・ファウンデーション、ポール・オークンフォールド、DJシャドウ、ブラック・ストロボ、ヴァリアス、デッド・カン・ダンスは公式サイトでも試聴可。ぜひともチェックを!!)。

そしてそして、すでに世界75ヶ国での上映も決定し、第60回ロカルノ国際映画祭では、オープニング作品として上映された(過去にオープニングとして上映された作品は『X-MEN』(!)や『MATRIX』(!!))。

もう全てが、日本映画という枠にとどまらないエンタテインメント性を裏付けている。いや、日本映画だとかハリウッドだとかなんだとか、『ベクシル』の下では無意味なんじゃないか。これは、“日本”と“世界”が地続きの大陸になった瞬間だ。








“人が人と話すということをバイパスし始めている時代に入ってきている”

——この時代に“鎖国”という設定はどんなところからきたんですか?
「鎖国っていうくらいだからもちろん国の話なんですが、実は個人の鎖国っていうことがスタートになってるんです。今、情報化社会でいろんな情報が飛び交っているわけですけど、逆に情報が突然なくなったときに起こる恐怖が裏腹にあると思うんです。人はやっぱり集団でしか生きられない生命体だから、そのために人はコミュニケーションをとらなければいけない。そういったことが前提にあるにも関わらず、今テクノロジーの発達によってそれを無自覚の内にバイパスしようとしている。例えばメールとか、携帯もそうですけど、コミュニケーションをとっているようで、実は実際に会って話す機会がすごく失われていて。人が人と話すということをバイパスし始めている時代に入ってきている。それがすごく恐いなと思うんです。それが極端な形になっていくと、個人、個人、個人ということがだんだん固まっていって、人が鎖国しているような状態が起きうるなということが発想の原点にあります」

——そういった設定の映画を描くために、曽利さんが培われてきた技術が不可欠なものとして存在していましたけど、『APPLESEED アップルシード』(04)から進化した部分、チャレンジした部分はどういったところなんですか?
「まず、『APPLESEED』はCGの得意な部分を前面に打ち出した映画なんですね。つまり、“硬くて冷たいもの”。だけど『ベクシル』は、“やわらかくて暖かいもの”というのが一番メインに来てるんですよね。それはすごくハードルが高くて、技術的にも難しいことで。やわらかさと暖かさを表現するということは、ほんとにまったく別次元に行くくらい大変なことなんです。だから『APPLESEED』をご覧になっていただいて、ベクシルを観るときの観点はどこかって言うと、そこがキーワードになると思うんですね。もしそういった”やわらかくて暖かいもの”を感じていただけるようなシーンがあれば、まさにそこが進化と呼べるものだと思うんです。もっと具体的に言うと、たとえば服の皺ひとつとってみても、柔らかさを表現する上では非常に重要なモチーフだったりします。人の感情を表現するときに、服が硬い感じででてきたのでは、気持ちがなかなか伝わらないこともあったりしますから、ベクシルの中で洋服が描かれていたりすると、きちっと皺がいってるとか袖がちゃんとあがるとか、そういう細かいところに割りと注力している部分はありますね」

“ストーリーの一部として必然としてあるアクションシーンであれば、一番幸せなアクションシーンであると思うんです”

——これは『ピンポン』(02)のときも感じたんですが、そういった曽利監督の豪華な技術が、例えば単に技術のすごさを前面に出しただけのものではなく、まず表現したいもの、それは今お話いただいたようにいたってシンプルな“人間”というものがあって、それを表現するために必要な技術として曽利さんの技術は存在しているなとすごく感じたんです。そういうことって監督が一本の映画を作るうえで重要なポイントとしてあるんでしょうか?
「そうですね。人を描くことに興味があるだけっていうのは根底にあります。たまたま技術を使える立場にあるので、どんどん利用はしているんですけども(笑)。でも、基本的には自分自身は人を描く映画を撮っているつもりなので、必要がないときはたぶん技術を使わないと思う。だからまったくCGを使わない映画でも自分自身は全然問題なくて、描いていく内にいらないと思えば使わない。“たまたま必要なので、使ってます”とか、“新しい技術の方がより面白く、より良く表現できるので導入しましょう”ってことだと思うんですね」

——例えば、ジャグに追いかけられるトンネルのシーンではスピードに切実な願い、感情が乗っかっていて、アクションシーンの興奮と人間ドラマの感情が合わさってものすごく見ごたえのあるシーンになっていましたよね。そういったところは意識されたところなんですか?
「そうですね、単にかっこいいアクションだけをつないでいくっていうのはプロモーションビデオ的というか。そういう映像の面白さはあるんでしょうけど、やっぱり映画というのはストーリーとか感情の起伏を追っていくものですから、それでいくとアクションシーンも独立して存在しているわけではなくて、お話の一部だと思うんですよね。だから映画として、そういうストーリーの一部として必然としてあるアクションシーンが面白いと思うんですよ。映画として観てもらう以上は、やっぱりそこにないといけなかったからそこにアクションシーンがあるっていうシーンになれば、一番幸せなアクションシーンだと思うんですよね」

——そうすると、曽利さんのキャリアを振り返ったときに、『ピンポン』って実写との融合だったじゃないですか。で今回は監督が今まで培ってきた技術が全編において必要なものだったわけで、それを使って”人間”というものを描くことに成功した。そう考えると、曽利さんにとって『ベクシル』って理想の形なのかなって思うんですが。
「そこは非常に難しいんですけど・・・、ほんとは実写でやりたいんですよ。理想形で言えば、実写のほうがいい。だけど、やっぱり日本の今の現状で、『ベクシル』のようなスケールのものを実写で実現するのは不可能だろうし、たぶんハリウッドでも難しいと思うんですよね。だから、まずストーリーとかこういったものをやりたいというのは先にありきで、それをやるときに実写の映画では絶対無理ですねっていうところで諦めなきゃいけないことがほとんどなわけですけども、『ベクシル』のようなCGのテクノロジーであれば諦めなければいけなかったものを映画にできる可能性がでてきたわけですよね。これはすごいなと思いますね。『ベクシル』はそういう不可能を可能にしてくれる映像技術です。だから、実写でできないからって諦める必要はないなっていう想いが、『ベクシル』の中にはこもってますね」

“アメリカ人の感覚とか、思考とか、あんまりハリウッドとかを恐れなくなりましたね”

——監督の映画を観るといつも思うのが、従来の日本映画につきものの湿気が皆無だと思ったんですね。ハリウッド的エンタテインメント性を十分に備えていたというか。そういう意味で曽利さんの中で、世界、ハリウッドへの意識というのはあるんですか?
「特に意識ということではなくて、たくさんの人に観ていただきたいと思っていて。それは世界中のとかそういう言い方になっちゃうんですけど。どこの国の人であってもいいからたくさんの人に観てもらいたい(笑)。だから日本人にしかわからない映画を作るというのはちょっと厳しいかもしれないですね。たとえば間の問題とか、編集の問題とか、音楽の使い方とかで従来の邦画とは違う路線に言ってると思うんですよね。そこは大きなところではあると思うんですけど。編集とか間とか、そういった感覚が、やっぱり我々は邦画では育ってないので(笑)」

——それは曽利さん自身のキャリアによるものなのか、それとも邦画にたいする反発心だったりするんですか?
「いや、反発とかないんですよ。ただ、最近思うのは『ALWAYS 三丁目の夕日』(’05)の山崎(貴)くんとか『日本沈没』(’06)撮ってる樋口(真嗣)くんとか、みんな同世代なんですよね。そこの世代って結構今、映画監督が多くてですね(笑)。それってすごくよくわかって、(スティーブン・)スピルバーグとか、(ジョージ・)ルーカスがでてきたタイミングに思春期の頭を迎えた人たちが(笑)、俺も映画やりたいと思った瞬間を迎えているんですよね。『レイダース』(’81、スティーブン・スピルバーグ)とか、『ブレードランナー』(’82、リドリー・スコット)とか。そういう映画をちょうど中学に入った頃にガーっと観せられた人間が、結構映画監督になってるんですよね。その人たちってやっぱりそっちの影響をすごく受けてる。だから邦画とかで育ってない(笑)。ハリウッドの新しい波であったエンタテインメントをもろにくらった世代なのかなって思います」

——そういった邦画で育ってない人たちで、特に曽利さんの場合は実際に、むこうでジェームズ・キャメロンの元でやっているわけで、そこでずっとやっていく選択肢もあったと思うんですよ。
「むこうでやってたことに関してはすごい勉強にはなったし、いろんな意味で自分の基礎の部分にあるんですよ。だから、アメリカ人の感覚とか、思考とか、あんまりハリウッドとかを恐れなくなりましたね。で、だけどやっぱりむこうでずっとやるっていう選択肢でいくと、あそこは連合軍なんですよね。世界中の人が集まってやってるから。あそこの中で出てくっていうのはなかなか大変なことだと思いますね。自分はそれよりは日本に帰って、日本の中で映画監督としてやりたかったんで。向こうにいたらCGマンとしてがんばるしか道はなかったと思うんですけど。やっぱり映画を撮りたいという想いが先に経ったんですよね」

——いや、『ベクシル』とかを観る限り、まともにむこうと張り合えるなって思いますよ(笑)。その反面、日本でこうして素晴らしい作品を残してくれるのはものすごい嬉しかったりもするんですけど、その中には邦画になにかをもたらしたいということがあったんですか?
「特にそういう意識はなかったですね。自分が面白いと思えるものを作れればそれでいいと思ってたので。“洋画”、“邦画”、“ハリウッド映画”っていう意識は全くなかった。なんか面白いものが作れればと思って、一生懸命作ってるというのが現状で、じゃあ実際にそれで満足してるのかって言ったらまだ満足してなかったりするんですけど(笑)。もっともっとやることいっぱいあるなと思います」

——今見えてるものというのはどういったものなんですか?
「日々反省ですよ(笑)。やっぱり面白いと言って頂いてようやく満足できるというのがあるので、『ピンポン』もたくさんの人に観ていただけてすごく幸せだったし、『ベクシル』もほんとにたくさんの人に観ていただきたい。もちろん面白くつくったつもりなので、面白いといっていただいて満足したいと思ってるんですよね。で、その段階をうまくクリアできたら、またさらに面白いもの作りたいなっていう要求につながっていくと思いますね」

執筆者

kenji Hayashida

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