『雪に願うこと』で東京国際映画祭グランプリなど数々の賞を受賞した根岸吉太郎監督の最新作は、芥川賞作家・長嶋有原作の『サイドカーに犬』。一見しただけだと「?」というあまりに漠然とした疑問だけが湧き上がるタイトルだけれど、このタイトルが表現する作品のテーマは実に深く、見事に的を得た素晴らしいものである。映画を観るとわかるのだが、観た後にこのタイトルを見ただけで映画の手触りが蘇ってくるのだ。つまりそれは同時に、このタイトルが表す、曖昧で「?」なのに、言葉の表現域を超えているが故に湧き上がる感情を、この映画が”映画”という場所での表現に成功したことの大きな証である。

”大人と子供”、”親と子供”などといった名前をとっぱらった、一人の人間とまた一人の人間としての理想の関係性を描く映画『サイドカーに犬』を、根岸吉太郎監督が語る。






“女の人を描くということにここのところちょっと興味を持っているんで、もう少しやってみたいですよね”

——これまで割と男目線の作品が多かったと思うんですが、この作品はヨーコさんといい薫といい、女性の視線から撮られていますよね?この作品を撮ろうと思われた理由ってなんですか?
「女の人は撮りたいなと思っていたんですよ。・・・まぁ僕はロマンポルノからの出身なんでね、ロマンポルノの時代から映す対象としては女の人を撮ったり裸にしたりよくしているんですけど、いつも男側から描いていたなと思ってたんで。だいぶ前から女の人を撮りたいなって思ってたんですね。そういう時期にこういう原作と出会ったっていうのが一つと、なおかつこの原作がこういう映画を見てみたいなと思えるような原作でしたから。・・・女の人を描くということにここのところちょっと興味を持っているんで、もう少しやってみたいですよね」

——どうしてそう思われるようになったんですか?
「どうしてなんですかね。『透光の樹』と『雪に願うこと』とこれ『サイドカーに犬』と大体同時進行でずっと考えていたんですけど、『透光の樹』というのも割りと女の人を描いてはいるんだけど、完全に女の人側というんじゃないんで。・・・どうしてっていうのはよくわかんないですね(笑)。よくわかんないけどやっぱり、わからないものだから撮りたいというのと、それと今までの人生でいろんな女の人を見てきて、わかったつもりになっているところ、それが両方交錯して撮りたいなという気持ちになるんですよ。なんか面白いじゃないですか?男の人が考えているより、女の人が考えていることの方が最近。そんな気がするから、たぶん女の人を撮りたくなったのかもしれないですね」

“僕が撮ってた映画の延長線上にあるような素材なんですよ”

——時代設定が80年代ですが、撮る時に時代考証などで苦労されたことってありましたか?
「モノがないってことですよね。20年前のものは探すのが結構大変でした。コーラの缶ひとつにとってもないですからね。あれは大コレクターがいるんですよ(笑)、コーラ関係の。コーラグッズコレクターがいるんですよね。その人にお願いしました。みんなそれぞれのプロじゃないと。パックマンのテーブル状のゲーム機とかナムコいってもないですからね。だからみんなひとつひとつ、車ももちろんそうですけど、モノが大変ですよね。それと余計な物、今のものを逆にどかすのが大変なんですよね。バスの外ですれちがう車が今のものが出てくるだろうって手ぐすねひいて見てますからね(笑)。時間かかって大変でした。でもよく集めてくれて、そういうものひとつひとつが彩りになって懐かしさみたいなものを高めてるから」

——監督の80年代前半で思い出すことってありますか?
「たぶん、『ウホッホ探検隊』とか『永遠の1/2』とか撮ってた時が僕のフィルモグラフィにおいてはこの映画の年代だったと思うんだけど、今度の『サイドカーに犬』っていうのはその時代に僕が撮ってた映画の延長線上にあるような素材なんですよ。子役を使うっていうのも『ウホッホ探検隊』のときは男の兄弟だったんですけど、それ以来なので。なんかそういうめぐり合わせは感じますね。けど特に“自分のなかにとって”とか“自分の80年代は”っていう風にはあんまり強く考えなかったですね。ただ原作者が育った時代とか、薫っていうこの映画のキャラクターが大事な時間を過ごした時代として80年代があって、その80年代が彼らにどういう意味をもつのかなって考えて撮りましたね。まぁ時代考証的にはあまり厳格にやっちゃうといろんな風に破綻していくので(笑)。少しずつ幅をもって、なんか80年代前半的なものみたいなくくり方なので、あまり追求されると困っちゃうんだよ(笑)」

“やっぱり母親の影響は消えるものじゃないと思うんだよね”

——女性と子供が初めて出てきたということで、これまでも『雪に願うこと』も家族の話でしたが、これは子供が出てくるのでより家庭っていう色が強いなと感じましたが、そこに意識をおかれていたりはしたんですか?
「やっぱり薫の映画なので、薫がどう思ってるかっていうことが一番大事で、家族がどうあるべきかとか、この家族はどうなんだって判定を下すものではないと思うんですね。薫がこの家族をどう見ていたかっていうことを監督として見極めたいなって思いましたね。ひとつは女の子なので母親の影響は無視できないなと。ほとんど母親は頭と最後にしか出てこないですけども、母親から受けた影響は僕も頭の隅で一方に置きながら、その影響を受けている彼女が、いなくなったから忘れちゃってっていうんじゃなくて、その影がずっとある中でヨーコさんとの関係がだんだん深まっていくっていう風にしていきたいなってずっと考えてました」

——割と母親が遠い存在だったんじゃないかなって思っていたんですけど。出て行く前の日も子供と向き合うわけじゃなくて台所を掃除しているじゃないですか。
「でもそういう母親がいる大変さってあるじゃない?(笑)いなくなっても、やっぱりそれは消えるものじゃないと思うんだよね。それって現在の薫になってもずっと影響していることだと思うんですよ。だからこそそれと全く正反対の人が突然現れたひと夏が意味をもつって思うんです。そういう意味で家族っていうのは考えてましたね」

——僕が一番感じたのが、理想の教育の形が映し出されているな、と。
「ははは」

——教育って呼ぶのも間違いなんじゃないかというくらいの理想の形が出てたなと感じたんですが、そういうものを撮ろうという意識はあったんでしょうか(笑)?
「ないです(笑)」

——(笑)。年功序列だとかっていう人間関係の名前があったとしたら、これは新たな「サイドカーに犬」っていう人間関係だと(笑)
「(笑)。人は人を見るときにどうしても肩書きだとか、これまでのイメージとかいろんなものがまずあって、それから逃れられないのね、人っていうのは。そういうものを、やりとりしていく中でなるべく早く捨てられるというのは結構コミュニケーションの中で大きなことだと思うんだけど。ヨーコさんの中に割りとそういう資質があるというか。言ってみれば薫に対して子供だっていうことを割りと早めに捨てて、薫っていう一人の人間として付き合って、そのことを薫が感じて。そういうことが結構大事だったんじゃないかなって思いますよね。だから大人の人だとか、お父さんのガールフレンドだとか、麦チョコ買ってくれる人だとか(笑)、そういうことが早い段階でお互いになくなって、それがヨーコさんが薫に対して子供扱いしなかったっていうことだよね」

#“昔から映画の女優さんが持ってる深い魅力を竹内さんは持っているんじゃないかなと思って”

——竹内結子さんの魅力が爆発していたと思うんですが、監督が竹内さんを主演に起用した理由はなんでしょうか?そして実際に映画を作られて彼女に対して何か新しい発見はありましたか?
「うーん、前から竹内さんってのは不思議な人だなって思ってました。映画に出演するとしっとりした役が多いでしょう。」

「テレビドラマなんかで見てると生身で生き生きしたところがあるのに、なんで映画ではいつもしっとりして、あの世から来るのかなと思って。彼女の中には昔から映画の女優さんが持ってる深い魅力っていうものがあると思うんですよ。やっぱり今非常に自分たちに身近で、自分たちと共通していることを見つけてその女優さんに共感できるっていうのは多いけど、昔の映画の俳優さんってなんか自分たちよりちょっと遠いところにいて、でもなんかそのことが魅力だっていうスタイルがあったと思うんです。そういうものを竹内さんは持っているんじゃないかと思って。で持ってるんだけど、そのちょっと遠いところにいるっていうのを、逆の意味でみんな強調して使っちゃってたなぁって思うからね。そういうのと違う、映画女優・竹内結子っていうものを是非一緒にやってみたいなと思ってたんで今回声かけたんですよ」

——実際一緒に撮られてみてどんな感じでした?
「うん、やっぱりね、本人も同じようなこと感じてたと思うんだよね。今まで自分がそういうある種の方向のものが多かったっていうのを。それで休んでる間に自分が何か新しいことをやってみたいなっていう風に思っていた結果が、この『サイドカーに犬』っていう地点で僕と竹内さんと一致したと思うんだよね。そういう意味では本人が新しい自分をつくるっていうことに非常に積極的だったからやりやすかったし、お互いに緊張して一致点というのかな、ヨーコさんっていうのはこういう人なんだってことをお互いに一生懸命作っていて、それに誤差があったとは思わないから楽しかったですよね。
それに許容量あるなと思いましたね。例えばヨーコさん、この映画の中で頭突きしますよね。竹内さんに最初にお願いしていたときにはそんなことシナリオで書いてなかったんです。竹内さんに決めてから頭突きとか書いて(笑)、それこそ今まで竹内さんに持っていたイメージとだいぶ離れてることなんで、竹内さんがやろうと思ったことともしかしたら違ったりして違和感があるって言われるかなと思ったけど、全然そういうこともなく。割と豪快に頭突きしているし(笑)。他にもいくつかのことで、あぁそこまで乗り越えるんだなって思ったことがあって。躊躇なくヨーコさんをやっていくって言うのかな。照れだとか手探りだとか言うんじゃなくて、バーン!とぶつけていくっていうスタイルで彼女はやっていたと思うから、そういうことはすごいなと思ったし。あと運動神経がいいですよね、非常に。それは僕も勝手なイメージを持っていたんだと思うけど(笑)、結構自転車だとかキャッチボールだとかやっていても非常に運動神経がいいんでびっくりしましたよ」

——薫役の松本花奈さんの演技も素晴らしかったと思うんですが、子役の方の演出で何か気をつけられたことってありますか?
「いや、あんまり余計なことは言ってないです。ただ相手の話をよく聞くようにしてもらいましたね。観察する役なので、自分から行動するというよりも相手の話を聞いたり見てたりっていうことが大きな意味を持つというか。そういうときどれだけ真剣な表情でどれくらい真剣に人の話を聞いているかが彼女の一番の役割なので。ただそういうことをなかなか子役に限らず俳優さんがやるというのは大変なことなんだけど、彼女は非常に集中力もあって、聡明だったのでやっぱり竹内さんも良くなったと思いますね。竹内さんの演技を引き出したと思うし。竹内さんもまた花奈ちゃんの演技を引き出したんだなと思います」

——最後の方にお父さんに向ってワンワンワン!って吠えるシーンが実に印象的でした。
「父親と娘っていうのは、この映画全体ではほとんど二人が親密にやりとりするシーンはないんですけど、あそこだけ会話があるわけですよね。ただそのときの会話の手段が言葉というより、彼女は頭突きで会話するんですよね。だから頭突きとお腹っていうのかな(笑)。古田(新太)さん演じる父親のお腹と、薫の頭で何度もぶつかりあって会話している。そういう風に言葉じゃないことで会話した続きが、言葉まではいかないけどワンワンっていうもう少し言語に近いところで、ほんとは言いたいこといっぱいあるんだけどっていう気持ちが込められていたって思いますね。その中身は、ずるいけどみんなが非常にいろいろ考えられますよね」

——監督の映画では以前にお仕事された俳優さんを再度起用することが割りと多いかと思うんです。今回で言えば、伊勢谷友介さん、山本浩司さん、椎名桔平さんだったり。
「融通がきくしね(笑)。まぁそういうのもあるし、続けて映画を見てくれる方にも、例えば『雪に願うこと』を見てくれた人たちにとっては彼らっていうのが別の形で展開しているのが楽しんでもらえるだろうし。でもそんなにいつも続けてるわけじゃないけど、やっぱり若い俳優さんは僕も続けて見ていきたいなって気持ちもありますね。桔平なんかは前回はゲスト出演みたいな感じだったからね(笑)。本人からはいいかげんにちゃんとした役で使えって言われるけど(笑)。でも今回の椎名桔平はなかなかやわらかくて非常に、それこそ新境地だと思いますね。すごいよかった。こんなやわらかくていいかげんな役をできるんだっていう役者としての幅を感じましたね」

——主題歌を歌うYUIさんと結構話し合いをされたということを聞いたんですが、どんな話し合いをされたんですか?
「映画の中身にこだわるな、なるべく全体から受けた印象みたいなものを、映画から離れてもいいからヴィヴィッドに書いて欲しいってことを言いましたね。それに対して彼女は、嫌いな映画じゃなかったみたいで。頼まれ仕事っていうノリじゃなくて(笑)、この仕事はできるなって。このヨーコさんと薫の関係に共感するところがあって、曲を作れるって言ってましたね。確かにそういう曲になっていると思いますね。僕がそういったにも関わらずだいぶ映画寄りになってるけど(笑)。でもすごく印象に残って、映画館出た後も頭に残るようなものになっているのでさすがだと思いましたね」

——なんかYUIさんとヨーコっていうキャラクターに共通点を感じました。
「そうだね」

——YUIさんの声にしても目にしても強さのなかに隠れて弱さが見えるというか。
「うん、それは僕も感じますね。自転車で川原に座って“足触ってみな”ってヨーコが薫に言うシーンとかで、ちょっと奥でギター弾いててもおかしくないかもしれない(笑)」

“随分ストレートな女だなって思うけど(笑)”

——この『サイドカーに犬』っていうタイトル自体、ものすごく文学的というか深みのある表現だなと思うんですが、映画の中でも例えば会社を突然休んだ理由が“どの靴を履いていけばいいかわからなかった”とか、“母親が家出する前に家中を綺麗に掃除していった”とか、“人は正直であろうとすると無口になる”などの深い言葉が、適度な間隔をおいておかれていたように感じたんです。大きな柱は薫とヨーコの関係性というものだったと思うんですが、そういった文学的、深みのある表現が支柱のように置かれていましたけど、それは意識的にやったことなんでしょうか?
「うん、それはありましたね。ヨーコさんが読んでる本が太宰治の『ヴィヨンの妻』じゃないですか。原作にあるものなんですけど。随分ストレートな女だなって思うけど(笑)、やっぱあの世代で、ああいう奔放で大雑把な生き方をしているようで、一方で太宰を読んでいるっていうね。文学遺産みたいなことにつながる何かはあるんじゃないかなっていう風に思ってました」

——原作では芥川龍之介も読んでいますもんね。でも、それらの表現ってほとんどが原作にないものじゃないですか?あれは脚本の方たちと話し合って生み出していったものなんですか?
「そうですね。シナリオライターが基本的には考えて。こういうキャラクターだなっていうところから。まぁ文学的なのかどうかはわからないけど(笑)、非常に心の内面的なことを表現しているよね」

——間隔も意識されたんですか?非常にバランスよく配置されているなと感じたんですが。
「うん。それはね、つながったらすごく嫌なもんですよ(笑)」

——はい(笑)
「気取るなよ、みたいになっちゃうからね(笑)。なるべくギリギリのところでおいているんで、ちょっと多いくらいかなとも思うけど。短い映画なので、まぁきわどいところですよね(笑)」

——じゃあそういった表現の後に、コーラを飲んだヨーコと薫のゲップを入れたというのもそういうバランスのとり方なんですか?
「そうですね。あのゲップももうちょっと派手だったらよかったなって今は思いますね。でもみんな竹内結子がやったらひくかもしれないけど(笑)」

——(笑)。でもすごい抑揚が効いていて絶妙なバランスだと思いましたよ。
「うん(笑)」

執筆者

林田健二

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