活況を呈する韓国映画界のなかにあって、媚びることなく作家性に満ちた作品を発表し、国際的にも評価が高い奇才キム・ギドク監督。本作『春夏秋冬そして春』は、昨年のロカルノ国際映画祭で青年批評家賞ほか複数受賞し、全米・ヨーロッパ諸国でもヒットを記録した秀作だ。
 山奥の湖に浮かぶ小さな寺。その東洋的美のあふれる情景のなかで、ひとりの僧の幼年期、思春期、青年期、壮年期を四季の移ろいに重ね合わせて描いていく。幼年期、無垢な幼子特有の残酷さが業をもたらし、思春期、少女との出会いにいかんともし難い欲望を知り、やがて憎悪を知り、無の境地を求め始める。キム・ギドク作品としてはソフトな部類に入るこの映画から、癒しを感じる人もいるだろう。痛みを感じる人もいるだろう。果たして監督自身は何を考えて本作に取り組んだのだろうか?
 日本公開を前に来日したキム・ギドク監督は「これは、これまで生きてきた人生について、これから生きていく人生について考えてもらう映画」と語った。それはどういうことなのだろうか? 共同インタビューでうかがってみた。

$navy 2003年ロカルノ国際映画祭・青年批評家賞、ドンキホーテ賞、国際芸術映画館連盟賞、NETPAC賞
サンセバスチャン映画祭・観客賞
第4回東京フィルメックス・オープニング特別招待作品
2003年青龍賞・最優秀作品賞
2004年大鐘賞・最優秀作品賞
アカデミー賞外国語映画賞韓国代表作品
第16回ヨーロッパ映画賞インターナショナル作品賞ノミネート
ゴールデンサテライト賞外国語映画賞ノミネート$

$red ●『春夏秋冬そして春』は、Bunkamuraル・シネマにて絶賛上映中!!$



——この作品は、四季の中で撮影されていますが、撮り進めるうちにアイデアが変わっていったということはありましたか?
「まず、この映画をどういうふうにして撮ったか説明します。シナリオと呼べるものはほとんどなく、本当に簡単な筋書きだけがあって、現場にはそれを持って行って撮影しました。現場で本当に必要だったのは、水の上に浮かぶ寺。これを実現させるために、設営の許可を得る過程とセットを作る時間を含めて1年ほどかかりました。セットのできた後で現場に行って、その場で考えたことをひとつずつ映していく作業をしました。各季節ごとに5日くらい合計23回くらいの撮影で終えました。そういうふうにその場その場で考えて撮影していたので、最初とどこがどう違ったということはないのですね」
——仏教色の強い作品に見えますが、韓国と言えば儒教とキリスト教ですね。仏教的なものを取り上げた理由は?
「私自身は、仏教よりキリスト教のほうです。私は、キリスト教は宗教として受け入れていて、仏教は宗教というよりも生活の習慣・風習であったり文化であったり、そういうものとして受け入れています。仏教の映画として撮ろうとはまったく考えていなくて、時間に対する映画として撮ろうと考えました。ひとりの人間の生から死に至る変化、その終わり方、そういったことを巡りゆく4つの季節を通して描こうと思いました。つまり時間に関する映画なのです」
——冬のパートをご自身で演じるということは、どの段階で決めたのですか?
「この冬のパートをやってほしい俳優はもともと自分の頭の中にあったのですが、スケジュールがなかなか合わなくて出来そうもなく、いざとなったら私がやるしかないかなと考えました。冬という季節が来て湖に氷が張って雪が降る、そのことが重要で逃せないことです。実際に冬が来て氷が張った段階でこれはもう仕方がないというわけで私がやりました。この冬の場面は、役者が演技を見せる必要はまったくありません。石を自分に結びつけて山に登る場面では、実際に山へ登ればいいわけだし、彫刻をする場面では彫刻をすればいいわけだし、ドラマというよりはドキュメンタリーのような感じで考えていたので、演技力を問われるものではありません。冬に限らず、主人公は人間ではなくて季節。冬の場面では、寒さや氷、雪、そういう風景が主人公で、演技的なことでは悩むことはありませんでした」



——メインのキャラクターを若い僧にした理由をお聞かせください。『悪い男』の女子大生もそうでしたが、堕ちていくさまを描くのが躊躇われるような人物をを敢えて主人公にするのには理由があるのでしょうか?
「先ほど、この映画は仏教映画ではないという話をしましたが、僧侶についても同様で、僧侶が出てくるからといって僧侶を描こうと思ったわけではまったくありません。韓国で現実にどういう人が僧侶になるかと言えば、いろいろあるだろうけど、汚れきった世の中から自由になりたい、そういうものを洗い落としてきれいになりたいという理由で僧侶になる人もいるようです。僧侶だけではなく、すべての人間がいろいろな汚れに出遭って葛藤し、苦しんで、汚れを落としてきれいになりたいと思うでしょう。これはそういう人々の映画です。僧侶というキャラクターを通して一般の人たちを描こうとしました。
 山の中(の湖の中)に寺があって僧侶がいてという道具立てになっていますが、決して山の中の映画ではない。逆にこれは都市の映画だと、ある意味で言えるのではないでしょうか。都市ではいろいろな誘惑もあるし、悪も存在するけど、そういうなかで不幸になったり葛藤し、争い、清くなりたいと思っている人々の心情を映画いた映画です。舞台は山ですけど、そういう都市の映画とも言えるんじゃないかと思っています。
 この映画では、目に見えるものだけではなく、目に見えない部分、映画では実際には描いていない部分も見てほしい。目に見える部分は、ひたすら美しい、きれいな映画かもしれません。でも、その裏側の目に見えない部分にはまた別のものがあります。目に見えない部分を想像してもらいたいですね。
 たとえば、いま、ここにいる日本の皆さんがこの映画を見て美しいと感じるとしたら、それは、たとえば東京という大都市の生活が忙しくて辛くければ辛いほど、この映画の風景を美しいと思うわけだし、それは、都市というものが裏側の見えない所にあるからだと思うんですね。もし、もともと山の中に住んでいる人がこれを見ても、美しいという感動は生まれないのではないでしょうか」


——冬のシークエンスでアリランを重ねたのは、韓国の恨(ハン)、人生のイメージを表現するためだったのでしょうか?
「アリランは韓国ではいちばん辛いときに歌う歌、自分が不幸だと思っているときに歌う歌です。歌というよりも、むしろ辛さのために出るうめき声だと思います。この映画のなかでアリランが出てくる場面は、石を体に結び付けて山の上に登っていく場面ですが、それは人生の辛さの表現でもあります。この場面にアリランがとても合った。この歌には、韓国の人たちが持つ苦痛や悲しみがこめられているし、同時に、苦痛と悲しみを抱きながらも今まで生き永らえてきた民族の忍耐心でもあるし、誇りでもあるし、そういうものがこの歌に込められています。
 アメリカやヨーロッパで公開されたときにも、アリランの場面で多くの方が泣いてくれました。日本でも多くの方が泣いてくださるかもしれません。歌詞の意味がわからなくてもアリランが心の叫びであるので、大勢の方の心を動かすことになるのかもしれません」
——水の上のお寺には、どういう意味があるのでしょうか? 何かを象徴しているのでしょうか?
「調べてみたのですけど、現実に水の上に浮かんでいる寺というのは、世界中どこにもないようです。あの映画のなかにだけ存在するようですね。島の中の寺はあるかもしれませんけれども。あの寺は私が作り出したイメージで、何を表しているのかというと、自分自身でしょう。監督である自分自身、映画を見ている観客自身の心ではないかと思いました。寺と外の世界を行き来する船と行き来する時間は、人生の時間という概念です。
 水の上に浮かんでいるから、風や波に従って自由に動き、東西南北は変わっていくわけですが、それは、自由になりたいという心を象徴しています。と同時に、いくら方向が自由に変わっても湖の中にいる限り湖の外に出て行くことはできないわけで、自由になりたい一方で、どこまでも自分の思い通りになるわけではない、自由になれないという、そういう矛盾した心を象徴しているのではないかと思います」
#——老僧は自分の命を絶ちますが、自殺をして成仏するということはキリスト教にはありえないことですが、キリスト教徒である監督ご自身はその点はどうお考えでしょう?
「私はあれが自殺だとは考えていないのです。“閉”という紙で目・鼻・耳・口を自ら塞いで五感をシャットアウトする。ふつう人間は五感で感じることが楽しくて生きているわけで、それを自らやめて、息を止めて死んでいくわけです。その少し前の場面で、青年僧がやはり紙を貼り付けて死のうとしますけれども、あれは自殺しようとしたのだと思います。青年僧は、生きていくのが嫌になって死んでやるという自殺だったのですが、老僧の場合は、自らの意思で欲望や欲求・息をすることさえもやめてしまう。これは、自殺ではないと思いました。現実の韓国では、成仏というのは現実にはない話です。成仏は自殺ではないでしょう。自殺に対して私は反対です。愚かな行為ですし、自分の痛み、生き難さというのは他人と共有していくことで解消すべきなのに、自ら命を絶ってしまう。病院に行きたくても行けない人がたくさんいるのに、自分の命を絶つというのは愚かなことですから自殺には賛成しません」
——監督は、よく映画のなかで伝えたいメッセージをシンボルを用いて表現なさっていますね。
「人は善悪を学び、善いことをしなさいとなるわけですけど、私は、そう単純に区分できるものではなくて、善いことと悪いことの中間にあるものがある、それを描くことが映画だと思っています。
 韓国でも日本でも事情は同じかもしれませんが、いま、善い映画というのがなかなか世に現れない、なかなか見られなくなっているような気がします。多くの人が楽しんで見る映画はスターがでている映画や、大予算でショーマンシップに満ちた映画が幅を利かせているし、この傾向は韓日だけではなく全世界かもしれません。そこでは、観客はひじょうに単純なことしか要求されないし、単純な映画しか見られない状況にあります。
 私の映画は、それらとは逆にすごく複雑で、見る人間に考えることを要求するし、見る人間が不快になって腹を立ててしまう映画かもしれません。韓国でも、私の映画を見に行こうという人はひじょうに少ない。けど、それでも、私は物事というのは単純に善悪で区分することはできないし、善いと思ったことが悪いことかもしれないし、悪いと思ったことが善いことかもしれない、そういう間の部分を描きます。両方がいつのまにか入れ替わってしまうことを描くのは映画だと思っています。
 なぜ、いま、私が日本にプロモーションに来ているのかと言うと、私の映画が単純な娯楽ではない、と私自身も思っているからです。これは私が、あるいは私たちがこれまで生きてきた人生について、そして、これから先をどう生きていくか考える、そういう映画です。韓国では、公開後に大鐘賞と青龍賞というふたつの映画賞で作品賞を獲り、それなら、と見に行く人が増えました。そういうことで見に行った人たちは、いい映画を見たと言ってくれていると思います。だから、私は日本でも出来るだけ多くの人に見てもらい、人生について考えてもらえたらと思っています」

執筆者

稲見 公仁子

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作品紹介『春夏秋冬そして春』