「子供が連れ去られてしまいますが同時にこの映画は癒しと希望の物語なのです」(ドリス・ビルキングストン)。1930年代、オーストラリア政府が行っていた隔離・同化対策をご存知だろうか。先住民であるアボリジニーの子を親元から引き離し、白人社会に適応できるよう収容所に入れる政策である。2月1日に公開となる「裸足の1500マイル」はこうした背景下、収容所を脱走し、90日間歩き続け、母親のもとへ帰った少女の物語。驚くべきことに本作は実話で原作者ドリス・ビルキングストンさんの母と叔母の話である。40代でこの話を聞くや、衝撃を受けて書かずにいられなくなったというが、出版と同時に映画化のオファーも殺到したとか。1月中旬、来日を果たした彼女に執筆の苦労、映画秘話をお聞きした。

※「裸足の1500マイル」はシネスイッチ銀座ほかで2月1日ロードショー!!

 








ーー本作の執筆のきっかけは?
 この話はパースの大学でジャーナリズムを専攻したとき、叔母のディジーから聞きました。46歳の時のことです。私は3才半の時に隔離され収容施設に入ったため、アボリジニの文化的背景を全く知らずに育ちました。それ以前まで私はアボリジニの文化を全く知らなかったのです。40代になって人間としても幾分かは成長し、祖母にもなり、自分の人生で新しいショーが始まったように感じました。そうして、私は学生に戻って、自分の民族の文化を学び直そうと思いついたのです。
 「裸足の1500マイル」はその過程で聞いた話だったこともあり、この話は私に非常に大きな衝撃を与えました。けれど、実際に本にするまでには9年近い月日がかかりました。叔母は読み書きができず、日時も曖昧で漠然としたものだったからです。隔離政策の情報が自由に手に入るようになってやっと執筆を開始できたのです。
 漠然としたものをリサーチし、文章にしていく旅は文字通り、私にもカタルシスを与えてくれました。それは自分の出自を辿る旅でもあったのです。

 ーー映画化の誘いは各国からあったそうですが。
 アイルランドやアメリカやいろんな場所から話がきました。映画化権がどういうものなのか、当時はよくわからなかったのですが・・・。でも、この話をもっと多くの人に知ってもらうためには映画はいいチャンスだと考えました。

 ーーフィリップ・ノイス監督に注文は出しましたか?
 監督は非常に繊細な方で、違う文化との付き合いにおいて気を配ってくれる人でした。彼は観客の反応を優先して面白おかしく話を作り上げるようなことは一切しませんでしたね。撮影中、フィルムのラッシュを見せてくれるなど私に対して慎重な姿勢をとってくれたようです。ただ、脚本ーープロデューサーでもあったクリスティン・オルセンの脚本ーーの段階ではアボリジニらしくない振る舞いがあったため、幾つか修正をお願いしましたね。

 −−それはどんなエピソードだったんですか?
 収容所に入っている女の子が白人の男の子に話し掛ける場面があるのですが、当初の脚本ではかなり親しげで、ベタベタしたものでした。一緒にタバコを吸って隣に座る、とかそういう感じですね。でも、実際には女の子には必ずお付きの女性がいて、男の子に親しく話し掛けたりできない雰囲気だったんです。
 映画のエンディングは当初、2通りありました。監督は私に「どちらがいいか」と聞いてくれ、実際に使われたのは私が選んだものでした。

 −−映画を観てどう感じましたか?
 私が見たものは編集が完全に終わっていないものだったのですが、気が付いたら泣いていました。本の中の人物が大きなスクリーンで動いている、当たり前のことなんですが心の準備もできないままスクリーンに釘つけになり、涙が溢れるのを止めることができませんでした。

 ーーこれから映画を観る観客にメッセージを。
 子供を連れ去られた母親たちがどのように感じたのか、そういう部分も汲み取りながら観るとまた違ったものになると思います。劇中の母親たちには何もできなかった。政府が我が子を連れていったのをなす術もなく眺めていたのです。いまだに傷を負っている人たちはたくさんいます。
 メルボルンでのスクリーニングの時にはたくさんのアボリジニーがいました。70代、80代のアボリジニーの観客には当時一番最悪の収容所と呼ばれたニューサウスエルスにいた人たちもいました。彼らはそのことについてこれまでほとんど語ることはありませんでした。けれど映画を観終わった後に当時の仲間と同窓会を開いたり、かつての仲間と話し合ったりしたそうです。この映画は子供が連れ去られてしまう話ですが、同時に癒しと希望の物語なのだと感じています。

 

執筆者

寺島まりこ

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