この数年、世界中が注目して止まないイラン映画界から第15回東京国際映画祭“アジアの風”で上映されることになったのは、ナセル・レファイ監督の長編劇映画デビュー作『入学試験』だ。
 年に1度の全国共通の大学入学試験。その、女子受験生用の試験会場を舞台に、試験開始までの80分間をリアルタイムで描いた異色作。イスラム圏の中でもイランは女性の大学進学率の高い国なのだが、試験を待つ彼女たちの境遇は様々でその多彩さには驚くばかりだ。反対する夫を振りきって会場にやって来た女性、オシメもとれない赤ん坊を抱いて試験を受けに来る女性、愛娘が大学で不良と接触するのではないかと気を揉む母親……かと思えば、若い警備兵をからかう少女たちもいる。さまざまなエピソードによって、レファイ監督はイラン社会の縮図を描こうとしている。
 11月1日に行われたティーチインは、監督の「映画監督にとって、自分の映画を世界中のいろいろな方に見てもらうのは夢です。日本とイランは同じアジアの国。日本の観客の皆さんと自分の映画を見たいと思っていた」という挨拶から始まった。




——受験に臨む女性たちは、大学で学問をしたいという要素と、あるいは将来何かの仕事に就くために資格が必要で進学するという要素と、どちらが強いのでしょうか?
「イランの女性は大学を出て仕事を求めても、共稼ぎすることはあまり考えていません。仕事のためではなく、自分の教養を高めていきたいと思っています。また、大学を卒業すれば自立できるという考えもあり、社会的立場が強まると考えます。それは、イランの女性だけではなく、全世界の女性が考えることでしょう。つまり、社会的に男性と同じ立場に立つことは考えているのですけど、仕事に就いて稼ぐことはあまり考えていないと思います」
——直接この映画とは関係がありませんが、最近、イランの有名な映画監督のアッバス・キアロスタミ監督がアメリカの映画祭に参加できないということがあったと思います。(編注:10月初旬、アメリカ当局がビザを発給せずニューヨーク映画祭に不参加。「わが故郷の歌」のバフマン・ゴバディ監督も同様の理由でシカゴ国際映画祭に参加できず、金賞受賞を辞退)。特定の国の出身ということで自由に交流できないことが今後強まることもあると思うのですが、同じイランの映画人としてこのような風潮をどう思われますか?
「私の考えでは、映画人よりも映画が大切です。ですから、映画を作っている人がそこに行けなかったことは問題ではなく、映画がよければ自分の道が広がって世界に行くことができると思います」




——今回、群像劇ということでひじょうにたくさんの女性が出ています。皆さん、ひじょうに表情豊かで活力がある演技をしているのですが、この映画に出られた女性は、オーディションで選ばれたものでしょうか? イラン映画は素人を使うことが多いようですが。
「たくさんの女性が出てきますから、すべてプロというわけにはいきませんでした。この映画に出ている女性は、すべて素人です。皆、すごく映画を愛している女性で、その情熱はすごいものでした。この映画が出来上がったのは、彼女たちの情熱のお蔭です」
——かなり大掛かりな撮影だったようですが、すべて大学の構内で撮影されたのですか? 大学のまわりに出店(屋台)が出ていて楽観的なムードに見えましたが、日本の受験会場は深刻なムードになります。イランの場合は、受験に対して楽観的な姿勢があるのでしょうか? また、ウーマンリブというのは、日本を含めて欧米では60〜70年代に活発になりましたが、イランではいつごろから女性の自立という意識が高まってきたのでしょうか?
「この映画は、まずテーマがあってそれからすべての演出・役者を決めないといけなかったんです。自分は助監督をたくさん経験してきましたが、一緒に仕事をしてきた監督はほとんどが素人を使って映画を撮っていたので、その経験を含めて彼女らから演技をとろうとしました。出来あがったものは自然に見えますが、ひとりひとりに何回も演技をつけてOKが出るまで何度も演じさせました。
 私は、ここに彼女たちの問題をたくさん盛り込みました。皆、自分の問題を抱えていて、それらは深みのある話です。女性は、いろいろな問題を抱えていても、たとえば買い物をしなければならなかったり、そういう普通の生活をしています。たくさんの人が集まってくると、かならずそこで経済活動をするために屋台の店がたくさん出てくるのですが、この映画のなかにはそういう感じを入れています。
 女性であっても男性であっても壁にぶつかると動き出すというのは、歴史の中で言われていることであり、これは過去現在未来のすべてにかかる人間の動き、総合的なことです。人間は規制にぶつかると必ず動き出す、人間が動き出すと規制ができる。このことは、一生人間の生活の中で見られるのではないかなと思います」




——ここに出てくる女性は、裕福な家庭の女性ですか?
「この試験に集まった人々は、イランの社会そのものです。すべてお金持ちではないですし、お金持ちもいれば、貧しい人もいますし、強い人が入れば弱い人もいます。これをこのままイランの社会だと見ていただいていいのですが、せめて都市部ではこうだという感じで見てもらいたいです。
 大学に入るのに年齢制限はありません。いくつになっても、勉強して試験を受ければ大学に入れるのです。皆さんは“この年齢の女性が”と見たのだと思いますが、これはそのまま現実です」
——国立大学では、だいたい何人くらい合格させるのでしょうか? この映画で女性たちが受験するのは何学科でしょうか? 年齢層はどのくらいでしょうか?
「この映画の為に少し数字も勉強しました。だいたい毎年200万人の学生が入学試験を受けます。そのなかの3分の一が大学に入ります。まず、総合的な試験を受けてから、自分の科目を選んで2つ目の試験を受けます。高校を卒業すれば、死ぬまで大学に入ることはできます。何年浪人しても、社会に出てから大学に入るにしても試験を受けます」
——ドキュメンタリーとして撮っているのか、それとも、劇映画として撮っているのでしょうか? イラン映画は貧しさを売り物にしている映画が多かったのですけど、この映画はイランの中でも貧しさというよりも逞しさというか明るさというかそういう面を伝える感じでドキュメンタリーとして撮っているのかなという気がします。劇映画だったら、監督が何を言いたいのか伝わってこなかったのが残念です。
「私は、イランの社会そのまま、大学受験の現状をそのまま描きたいのです。ですから、リアリズムの状況を作らなければならなかったのです。ドキュメンタリーではなく、作ったのは現実的映画です。ドラマチックなポイントを強く出していくために、この映画はクラシックシネマの作りで作られたのです。すべて頭で考えて演出して決めていきました。ドキュメンタリーではないのです。リアリティの映画です」

執筆者

みくに杏子

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