今年の東京国際映画祭コンペ部門上映作品中、作品の持つパワフルな魅力で他を圧していた『シティ・オブ・ゴッド』。リオデジャネイロの一角に位置するスラム街“シティ・オブ・ゴッド”を舞台に、犯罪と暴力が繰り返される60年代から30年間にわたるドラマが、それぞれの時代色を浮かび上がらせなつつ、普遍的なものとして描かれている。
 本作が長編監督3作目となるフェルナンド・メイレレス監督は、日本について間もない10月30日の夜、シネフロントでの上映後のティーチ・インに出席した。パウロ・リンスの原作同様、スラム街をその内側からの視点で描くことに拘ったと作品背景について語ったメイレス監督は、長旅の疲れも見せることなく、観客から寄せられた質問に一つ一つ丁寧に答えてくれた。

$navy ☆『シティ・オブ・ゴッド』は、2003年ロードショー公開!$





Q.スラム街での撮影で、危険はありませんでしたか?
——実際にシティ・オブ・ゴッドのスラムの中で撮影をしたので、危険が無くは無かったです。しかし、場所柄ゆえにしっかりとした順序を踏んで、コミュニティ・センターを通し、ドラッグの元締め等に連絡をとってもらい、承認をとってから撮影に臨んだので、それほどの危険な経験は無かったです。

Q.力で力を抑制することの無意味さ等、実に普遍的な作品だったと思います。それで最後にリトル・ゼが殺されるところで、「ソ連の衝撃だ」という台詞がありましたし、時代背景も60年代から80年代と言う冷戦時代と重なるわけですが、監督の中でそのあたりに関する製作意図があったのでしょうか?
——冷戦時代やソビエトを意図的にということはなかったですが、こうしたことは普遍的に何処でも行われていることだと思います。この物語自体映画で描かれた2ヶ月後には、あの子供達も殺されてしまうんですよ。今もそうですが、ドラッグ・ディーラーのトップは2・3年君臨すると殺され新しい者に変わるということの繰り返しなのです。

Q.本作もそうですが、現在ブラジル映画界には新しい波のようなものが起きているのでしょうか?
——私自身世界各地の映画祭に参加させてもらってよく聞かれることは、現在ラテン・アメリカの波が起きているのではないかということです。具体的な理由は私にもよくは判りませんが、記者の方々がブラジル、アルゼンチン、チリ、メキシコなどの“グッド・ウェーヴ”と書いてくださったりしてます。もしかしたら、我々自身がようやく我々の国、我々の環境での映画作りに気が付いたような気はしすね。今までは、海外の映画の真似をするだけで、自分達の映画の撮り方が確立されていなかったのかもと。それが、“グッド・ウェーヴ”の要因かと。映画祭ということでは、90年代前半はアジアン・ウェイヴといわれてきましたが、ようやく我々の時代が少しづつはじまったのではないかと。







Q.二人の小さな子供が撃たれる場面がありましたが、その演技指導はどのようなものだったのでしょうか?
——皆、アマチュアの子供達でしたから、演技の勉強など勿論したことはありません。ですから彼らに台本を渡すのではなくて、私自身が各シークエンスをどう撮りたいかというヴィジョンがありましたので、子供達を一つの部屋に集めまして、このシーンではこう撮りたいと口頭で説明し、後は即興で子供達に任せたのです。そして子供達が演っているのを見ながら、少しづつ私からのアドバイスを加える作業を重ねていきました。ご指摘の場面もそうですが、観てる側も涙が出てくるくらい感動するシーンになっていたと思いますが、ファティマ・ドレイドというブラジルで有名な演技指導のコーチがいて、彼女が子供達と話をしたんです。男の子には、「貴方が一番恐れていることは何?」といったことからはじめ、少年の心の奥底にあった母親の死への恐れを探り、その過程で泣くという心理状態に持っていかせたのです。そうしていくうちに、イメージトレーニングが出来ていき、「はい」と言うだけで、催眠術に掛かったように恐怖感から涙するようになる、サポート故ですね。

Q.映画を撮り終えた後、子供達に変化はありましたか?
——実際に撮影が終わってもそれで終りというわけではなく、非営利団体を設立し作品に参加した、自分の息子のように感じる60人の子供達を、週に1度集めて演技や編集など映画のことを教えています。この作品は1年半ほど前に撮影を終えてますが、その後子供達の中からミュージック・ビデオを撮ったり、テレビで演技をしたりといったことをしています。そうした中で、全員がとは言いませんが、スラム街から出てリオの街の中で暮らす者がでてきたり、自分たちの行き方にも変化が現れてきていることは見えてます。ただ、同時にこれから先、この60人をどうしていこうかという嬉しい悲鳴もありますね。

Q.本国で映画が成功した要因は?
——どちらかと言えば、郊外や貧しい村落部で支持を受け見られたようです。

Q.この作品の脚本には、サンダンスのワークショップの経験が重要な役割を担ったのでしょうか。
——実際に原作の映画化権を収得したのは、サンダンスのワークショップに参加する以前ですので、参加する2ヶ月ほど前より取り掛かっていました。リオにあるサンダンスのワークショップに行った時、4名のコンサルタントがいたのですが、3名はあまり気に入ってはくれず、1名のみが絶賛してくれました。イズレニシロ、サンダンスのワークショップ云々はあまり関係なく脚本に取り掛かり作業を進めていったのです。3部に分かれていたりと、通常のアメリカ映画とは異なるものだったことも、3名がひっかかってしまった要因かもしれませんね。

執筆者

宮田晴夫

関連記事&リンク

作品紹介
東京国際映画祭公式頁