『旅の途中で-FARDA-』は、中山節夫監督による初の日本・イラン合作映画だ。かつて多くのイラン人が、日本に不法滞在しつつ働いていた時代がある。強制送還となり、賃金ももらえないまま帰国した人もいただろう。本作は、未払いだった賃金を届けるため、単身、イランを訪れたビジネスマン・井沢(宍戸開)の旅路を描いたものだ。
 物語後半で、井沢は初老の男オスマンのトラックに乗り込み、賃金を支払うべき相手・メティのいる東部の村ビルジャンドに向かう。このオスマンを演じたのが、今回来日したオスマン・ムハマドパラストさんだ。映画の後半のキーパーソンと言える役で、その存在感と哲学に心を動かされる人も少なくないだろう。演じたオスマンさん自身は、じつは伝統楽器ドタールの演奏者として右に出る者はいないというほどの人。言葉によらない心の交流を描いたこの映画に関連して、コミュニケーションのことなどを中心に豊かな経験に裏打ちされた人生哲学を語ってもらった。時に冗談も飛ばすオスマンさんの、素顔に触れていただければ幸いだ。
 取材には、合作の橋渡しをしたプロデューサーのアリレザ・ショザヌリさんも同席し、日本とイランの合作に寄せる希望を語ってくださった。

$red ●10月12日よりシネ・リーブル池袋にてロードショー $





——まず、プロデューサーのショザヌリさんに伺いますが、この合作が作られることになった経緯を教えてください。
ショザヌリ 98年のアジアフォーカス福岡映画祭に、私は「新生」(モジュタバ・ライー監督)という映画を持って参加しました。そこで、中山節夫監督と出会ったんですが、話をしていて中山さんはとても素敵な笑い方をするんです。笑うときに、とても素直に自分の純粋な気持ちを出す、そういう人がすごく好きで、そんなきれいな心を持つ中山さんと「映画を作りたいね」という話になりました。そのときは『旅の途中で』の話ではなかったのですけど、それがきっかけです。
——その後、この映画の企画が練られていったわけですね。
ショザヌリ 自分の頭にあったのは、日本で働いているイラン人がイランに戻った後の気持ちを描いたものだったんです。それを、ふたりの監督に頼んで、日本のパートは日本の監督に、イランのパートはイランの監督に撮ってもらうつもりでした。それで、中山さんと同じ感覚を持っているイランの監督を選んで話を進めたのですが、中山さんもイランの部分も全部撮りたいんじゃないかなと思い始めて、それで全部中山さんに任せることにしました。それから、中山さんと脚本家の横田与志さんがイランにやって来ました。一緒に北のカスピ海のほうに行き、また南の方にも行き、オスマンさんも彼らに会いました。自分たちが見たところ・聞いたところからこの脚本が生まれて、こういう映画になったのです。
——では、そのときがオスマンさんの監督との初対面だったのですね。脚本がまだできていない段階でお会いになったということですか。
ショザヌリ そうです。
——初めて中山監督に会われたときの、オスマンさんの監督についての印象はいかがでしたか?
オスマン 最初に会った時、話だけではなく監督の存在感をとても好きになった。恋をしたみたいに。今でも彼のことはとても好きだ。
——オスマンさんは本来は音楽家だとうかがっていますが、映画に出ることにしたのはどういうわけで?
オスマン まず、イラン側のプロデューサーであるショザヌリと友達だったから。今までそういう話があっても断っていたけど、プロデューサーが友達で、日本からお客さんとして監督が来たのでOKしたんだ。監督とプロデューサーがとても仲が良くて、その友人関係の中に入りたかったのだな。







——この映画では、後半でオスマンさんはトラックの運転手で宍戸開さんを乗せて一緒に旅をしますね。言葉が通じなくて、言葉によるコミュニケーションが満足にできないのだけど、ふたりの間に友情が生まれてきます。この旅を続けるふたりの関係をどのように捉えられたのでしょうか?
オスマン 宍戸くんと最初に会ったときは言葉がわからなくて「ふたりが言葉がわかっていたらいいだろうね」とそう口にしたし、映画のなかでもそういうセリフがあったんだが、実際、映画のなかと同じ事が起こったんだよ。言葉がわからなくても友情が生まれた。すごく仕事しやすかったね。私自身の考えでは、どの国に行って何語をしゃべっても人間は人間。だから、お互いに近づけば、絶対に心と心は通じるはずなんだな。こうして座って顔を合わせると、しゃべらなくても楽だし、心が通じるものなんだよ。
——実際のところ、イスラム圏についての情報があまりないので、不安な気持ちというのが他の民族にあったと思うのですけれども、この映画からはイランの方たちのとても優しい心が伝わってきます。特に私の印象に残ったのは、オスマンさんがある男にお金を騙し取られますよね。そのことに関連しての譬話のなかで、悪事を自慢するとその話を聞いて人を信じる人が減ってしまうから、他人にこの話はするな、というあの話がとても印象に残っているんですけど、あれは、有名な寓話なのですか?
オスマン あの話は聞いた話で、それを映画に入れたんだよ。現代の、情報が溢れている世界では、人間は善いものは何か、悪いものは何かを理解できるはずだろう。たとえば、日本に来て言葉は話せなくても、日本人はどのくらい優しいのか、どういう行動を起こしているのか、どういう仕事をしているのか、感じることができるね。それは、昔と違って情報がたくさんあるからなのさ。現代の人間は、良いものと悪いものの区別が簡単にできる。だから、良いものすべてを受け入れればいいんだ。
——あの話に関しては、騙す人がいるというところで、その話を聞けば警戒心を抱く人のほうが多く出てくるのが普通だと思ったので、人を信じる心を大事にするために自分が犠牲になるという姿にたいへん感動しました。
オスマン よくわかってくれて嬉しいよ。そういう手助けをする人はけっこう多いんだ。いくら悪いことをしようとしていても、優しさを差し伸べられれば絶対に心を入れ替えることができると思う。たとえば、私は、昨日(日本に)来たばかりで、この20時間くらいでこちらにいるたくさんの方たちとお互いに好意を持って仲良くなった。人間はそういうものなんだよ。
——映画の前半の日本のパートでは、ビジネスに追われて人を思いやる気持ちが薄くなっているという描写がありました。そういう日本に住んでいる者としては、オスマンさんのような人を思いやれる心の豊さとかゆとりというものがひじょうに羨ましいですよ。そういう心は、どういうところから生まれてくるのでしょうか?
オスマン 私らも、日本の発達している産業が羨ましいよ。この優しい心を持ちながらあの産業を手に入れられるといいんだがな(笑)。私らは、日本の方々が優しい心を出せるように祈ることにしよう。
——ぜひ祈ってください。
オスマン もちろん。
——オスマンさんは、映画のなかで演技をしている、つまり別の人間のふりをしているという気持ちが強かったですか? それとも、ぜんぜんそんなことは考えなくて、ふだんの通りでしたか?
オスマン 自分を演じているという気がしてたな。自分が実際にやっていることが映画のなかで皆のおかげでできたことがあったし、すごく楽に演じることができた。たとえば、学校作りの手助けとか、そういうことは全部実際に自分でやっていることだから。自分をそういうふうに映画の中に出してくれた皆にお礼を言いたい。
——プロデューサーとしては、そういうオスマンさんだということを踏まえた上で脚本のアドバイスをされたりしたのですか?
ショザヌリ そうです。








——オスマンさん自身のことをうかがいたいのですけれど、プロフィールに1924年“ごろ”お生まれになったとあるんですが、はっきり何年と出ていないのは何故ですか?
オスマン 自分の年はわかっているよ。だけど、みんながいつも「いくつですか?」と聞くから「いくつに見えるか?」と返している。だから“約”っていうのは冗談というわけさ。
——ああ、そういうことだったんですか。
オスマン 教えてあげようか。いま、73歳だよ。1926年生まれだ。ウソつきじゃない。あなたは細かいところまで気がつくな。裁判で訴えてやる(笑)。なんでそんなに細かく調べているんだ!?(編注:1926年生まれだったら、76歳のはずなんですが、これも冗談なのでしょうか……)
——ひょっとしたら、災害か何か、とにかく何かの理由で記録がなくなってしまったのかと思いまして……。
オスマン 見せられるよ、IDカード。
——そこまでは結構です。
オスマン 訴えてやる(笑)。
——いえ、あの……もうずっと何年もドタールを演奏してらっしゃいますね。
オスマン 60年くらいかな。
——ドタールは、どういうきっかけで演奏を始めたんですか?
オスマン 皆、音楽を聴くと、きれいな音は心に染みる。自分が住んでいた地域では、ドタールは皆がふつうに聴いていた。結婚式には太鼓の入ったうるさい音楽になるのだけど、ドタールはふつうに演奏される楽器だったから、いちばん最初にきれいな音のものに触れたというのがドタールだったのさ。
——本当に2弦しかないのに、すごい存在感のある音ですね。
オスマン 以前、同じことをイランのラジオ放送でも言ってたよ。ある日、ラジオから私の演奏したドタールの音が流れてきた。キャスターが音楽を止めて「これはオーケストラではない。たった2弦しかないドタールだ」と。このひとつの楽器で、ちゃんとマイクを立てて、エコーとかを入れると本当にオーケストラがやっているような、すごい音になるんだよ。
——本当に言葉を超えた魂のようなものが伝わってきて、これはオスマンさんのようなすごい方が演奏されているからだと思います。
オスマン 「天から降ってくる音のようだ」と言われるよ。私は、演奏しているときに泣き出したくなったり、気持ちが高ぶってくるのを感じる。本当に感情から出している音だと思う。だからだろうな。
——曲も何曲も作ってらっしゃるのですよね?
オスマン 1分毎に何をやっているのかわからないくらい、いろいろなことを演奏しているんだよ。即興だから、次の日には何を演奏したか覚えていない。同じものは絶対弾けない。それは、もちろん、そのときの話している内容とか状況のなかで気持ちが変わるから。
 自分で作った曲で、覚えているのは「nabai(ナバイ=歌)」だな。映画の中で最後のシーンで歌う曲だが、それも、出だしは毎回違う。
——その演奏活動で得たお金を小学校の建設のために役立てらっしゃるとのことですけど?
オスマン 私の演奏を好きな人が回りに集まってきて、それがチャリティ団体だったんだ。自分が住んでいるホラサン州は、学校がすごく少なくて子供たちが学校に行けないという話が出てきたのさ。それ以降、演奏を聴きに集まってくる人たちからお金を集めて、学校を作る手助けを始めたということだ。こっちの団体は学校の建物は作るけど、椅子とかを運ぶのは文部省の仕事さ。
——先ほど映画で学校作りの手助けをしてもらったというお話がありましたが、それはそういうことなのですね。






——さて、プロデューサーのショザヌリさんは、今回合作ということで、出来あがったものに対してはどのような感想をおもちでしょうか?
ショザヌリ この映画と観客の関係は、(宍戸開が演じるビジネスマンの)井沢とオスマンの関係なんです。井沢とオスマンは、言葉はわからなくても心は一緒になる。一緒に時間を過ごすうちに心が通じてくるということは、この映画と観客とが物語が終わってからも通じ合っているというところに通じます。ですから、映画をひとつ作って終わりましたという映画ではないのです。見終わった後もずっと言葉の通じない人同士の心が通わせ続けていくという映画です。このように一緒にひとつの心で歌う仕事がこれからも増えていくことを期待しています。
——ショザヌリさんは、本作に続く日本との合作『風の絨毯』(2003年公開予定)もプロデュースされていますが、日本とイランのプロジェクトの今後の希望、見通しはいかがですか?
ショザヌリ とても大きな希望を持っています。今まで何度も日本に旅して、日本人と仕事を一緒に仕事をして、日本人とイラン人は心を通わせ合い友情を築くことたやすくできると実感しています。ふたつの国が一緒に仕事をすれば全てうまくいくと思いますし、もちろん映画で合作ということになれば、またふたつの国の心が一緒になって、ひとつのいい作品が生み出せると信じています。共通点もありますが、お互いに学べることがたくさんあるのです。お互いに心を開いて学べるものをどんどん受け入れられるのです。イランは今、テクニカルな面でも遅れていませんし、日本の題材も、イランの題材にもともに取り組み、いいものにできる可能性が高い。自分自身は、とても大きな希望を持っています。
——観客の立場からすると、それぞれ違った文化で生きてきて最初は恐がっているような部分があっても、映画を見ていくことで「自分たちと同じなんだ」と感じたり、忘れていた優しさを見つけたり、オスマンさんのようなすてきな方がいらして楽しいお話をしてくださったり、すごく素敵な交流が生まれると実感します。これからも頑張っていいものを作っていって欲しいと思います。
ショザヌリ イラン人も同じように、特に昔の日本映画を見ると、日本人とイラン人は同じではないかとけっこう皆言うんですよ。ですから、お互いに同じことを感じるのだと思います。

執筆者

みくに杏子

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