“血”という言葉を入れたのは、
少女の可愛らしさより、思春期の少女が持つ暴力性と
過酷な人生の側面を伝えたかったから

─監督のお父さんはサーミ人で、お母さんはスウェーデン人だそうですね。
そうです。言語について言えば、スウェーデン人になりたかった祖父母がサーミ語を話すことをやめてしまったので、家ではサーミ語を話すことはありません。学校の母国語の授業で、サーミ語を読むことはしましたが。でも、父方の家族のほとんどは今もトナカイ猟師なので、私も親戚がトナカイを屠畜するところなどを見て育ちました。

─この映画は事実をもとにしている部分もあるのですね。
単なる作り話ではなく、私の一族の年長者たちから発想を得た部分が大きいのです。存命している老齢の親類の中には、自分もサーミ人なのにサーミを嫌う者がいます。つまり、アイデンティティを変えた者と、留まった者との対立が、私の一族の中にまだあるのです。両者は互いに話をしません。
それと、数年前に祖父母と、彼らの兄弟姉妹や彼らと同じ寄宿学校に行った人たちをインタビューしました。その時に聞いた話も、この映画の中に混ざっています。映画で描かれていることの中には、サーミの血を引くものなら誰でも、今も実際に体験することがあります。例えば、パーティーでヨイクを唄わされることなど、私もよくあります。

─なぜタイトルを『サーミの血』にしたのですか?
私は主人公のエレ・マリャについての映画を作りたかったわけで、サーミ人についての映画にしたかったのではありません。『サーミの血』と聞くと、その血にどんな意味があって、どんな重要性があるのか、人からどう見られるのか、という疑問が沸きますよね。
私自身、普段からしょっちゅう「どれだけサーミの血を引いているのか?」と質問されて、「それ関係あるの?」と聞くと「ある」と言われます。 “血”という言葉を入れたかったのは、確かに少女の成長物語ではあるけれど、可愛らしさより思春期の少女の持つ暴力性と過酷な人生の側面を伝えたかったからです。
エレ・マリャだけでなく、思春期の少女は誰でも自分の身体を嫌う時があると思うのですが、その身体的な面も描きたかったからです。

─主人公のエレ・マリャは偏見や差別に負けず行動します。何故彼女は、こんなにも強いのでしょうか?
サーミ族は、タフであるように親から教育されます。寄宿学校に入るのも強くないとダメだし、弱いといじめられるし。トナカイ放牧業も、ケガや死亡事故が多い、最も危険で過酷な仕事の1つですから。
撮影前、主演のレーネとエレ・マリャの妹役で実妹でもあるミーアの両方から個別に、「台本に泣くシーンがあるけど、私は涙が出ないと思う」と言われました(笑)。当時、ミーアはまだ11歳でしたけど。私もトナカイ放牧で育った父から、よく「泣くな」「涙はただの目の汗だ」と言われました。

─主演のレーネ=セシリア・スパルロクさんは、東京国際映画祭で審査委員特別賞と最優秀女優賞をダブル受賞しました。彼女はノルウェーで実際にトナカイの飼育に従事されてるそうですね、キャスティングについて教えてください。
撮影の2年前からキャストを探し始めました。私自身、北部サーミ語がわからないので、南部サーミ語で作るつもりで南部サーミのネイティブを見つけたいと思っていたんです。
南部サーミ人で、できれば姉妹で、トナカイ遊牧のこともわかっていて、演技ができて、という子を見つけるのは、絶対無理だろうなと思っていました。見つけられなければ、北部サーミの子に南部サーミ語を覚えてもらうしかないだろうと。でも、幸運にも、サーミ人の共同プロデューサーが、「ノルウェーにぴったりの姉妹がいるよ」と教えてくれたんです。
「羞恥心」「人種差別の抑圧」といった知的で繊細なこの映画のテーマをどのようにして演じてもらうかが課題でした。脚本はレーネと妹のミーアに出会ってから付け足した部分も多いです。
実際に500人しか話さない言語を話し、伝統的な民芸品のことをよく知り、普段から自分よりも大きなトナカイを飼育している彼らのおかげで、当時の生活や人々の感情をリアルに描くことができたと思います。

アマンダ・シェーネル Amanda Kernell
1986年、スウェーデン人の母親とサーミ人の父親の元にスウェーデンで生まれる。2006年以降、数本の短編映画を監督。2013年、デンマーク国立映画学校の監督学科を卒業。『サーミの血』(2016)のパイロット版である短編『Stoerre Vaerie』(2015)は、サンダンス映画祭でプレミア上映され、またヨーテボリ国際映画祭2015の短編観客賞、ウプサラ国際短編映画祭2015の最優秀短編賞など、いくつかの賞を受賞している。

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