この夏、最大の衝撃作『闇の子供たち』。原作は、『夜を賭けて』『血と骨』などで名高い小説家・梁石日の同名小説。タイで実際に起こっている幼児売買春、人身売買といった真実の闇に迫った阪本順治監督の早くも最高傑作と呼ばれている作品だ。

本作で描かれているのはフィクションではない。タイの子供たちがさらされている悲惨な現実をありのままに描いた真実の物語である。欲望だらけの大人たちに玩具のように扱われ、使えなくなればゴミ山行きとなる子供たち。彼らは生きる希望を見いだすことなく、心と身体に傷を負ったまま闇に葬られていく──。

ペドファイル(幼児性愛者)と呼ばれる大人たちが子供を虐待する醜い姿を包み隠すことなくスクリーンに映し出した阪本監督は、“やっておかなくてはいけないと思った”と振り返り、その一方で、“皆で子供たちを救おう”とボランティアを強要するものでもないと言う。
決して他人事とは思えないアジアの国の出来事を私たちはどう受け止めたらよいのだろうか?





今まで幼児売買春や臓器売買など、知った気になっていただけで全く理解していないことに気づきました。ヤン・ソギルのこの小説を映画化したいと思った1番の理由とは?

作り手というのは自分が知っていることを描くよりは、自分が知らなかったことや誰も触れたことのない題材などにチャレンジしたいと思うものなんです。今回はその極端な例で、日本国内の事情は新聞やニュースなどで知ることはできますけど、他国においては情報がとても数が少なく知っているつもりでいただけだったので、僕もこの原作を読んでひっくり返されましたけど、知ってしまったらもう逃げられない。“怖い”とか“自分には合わない”とか、何を言ってももう言い訳にしかならない。というのも僕はずっと自分に合わないと思うことをやってきた人間だからですね。作り手としてのハードルの高さにやっぱり挑戦したいと思ったんです。

小説に描かれていた性描写をオブラートに包み込むのではなく、映画でも隠すことなくしっかりと描いておりましたが、どのような気持ちで撮影に望んだのでしょうか?

あからさまに描写したのは、やはり虐待される子供より、裸体を含めてする側の醜さをすごく描きたいと思ったからです。覆い隠しても想像することはできる。でも、現実は想像以上なんです。想像以上のことならやっぱり逃げずにやりたい、やっておかなくてはいけないと思ったんです。そのためには大人はともかく、子役たちをどのように演出するか、どのようにケアするか、どのように説明するかということが問われるわけですよね。それは僕たちスタッフの1番の課題でもありました。そういう意味でもきちんと説明を理解できる子を選びましたね。

そして子役たちには、“大人の裸は見せないこと”“別々に撮影すること”“子供たちの体を触るのは女性スタッフに限定する(ペドファイル役の俳優に子役たちを絶対触らせない)”といった決まりごとを設けました。例え、同じ空間のシーンでも子役たちには背中を向けさせたり、目を閉じさせたり、何かあったときのために室内でのシーンはすぐに外の光が入ってくるように工夫しました。

大人の役者と子供の役者では、説明の仕方や接し方はやはり変わりますよね?

僕もできるだけ子役たちに伝わるような言い回しで説明しましたが、子供たちと同じ国の人間ということで、タイ側のスタッフにも改めて説明をしてもらったりしました。しかもタイ側スタッフの助監督の方が普段はジャーナリストをしていらっしゃる方だったので、タイでの人身売買や子供たちへの虐待について、わかりやすくタイ語で直接話しかけ、子役たちにわかってもらうという作業を繰り返しやっていただいたんです。

子どもたちのキャスティングについて。どのようなオーディションを行い、どのような基準を満たす子どもたちが選ばれたのでしょうか?

まずこちらが話したことへの理解度が高い子ですね。演技力というよりもまなざし、大人を見返すまなざしがしっかり作れる子を選びました。それと、これは映画の撮影であること、そして自分は俳優としてここにきているという自覚のある子です。選んだ子たちはほとんどが売春婦という職業も知っていました。日本の子役ではありえないことですけどね。

それだけ子供たちも売春などを身近に感じているということですね。

自分と同世代の子供たちが、自分とは全く違う境遇で生きていて虐待されていることは知っていると思います。ちょっと街に行けば物乞いしている同世代の子たちがいるわけですから、そういうのを見聞きしてきた経験があるからこそこのような役が理解できると思うんです。まだ子供でも、そういうことを感覚的に受け止めてきた彼らは俳優としても立派でしたよ。

日本人キャストの宮崎あおいさん、妻夫木聡さん、江口洋介さんたちは出演を決めるまでにけっこう悩まれたそうですが、どのような話し合いをしましたか?

皆さんには僕が書いた脚本を読んでいただいて、この映画の世界観は十分に理解していただきました。ただ、出演を躊躇したというのは決して自分のイメージが壊れるかもしれないといったことではなく、この役を担うことの重さというか、今まできっとやったことのない役だったはずなので、それを自分がどうこなすかといった部分で躊躇していたんじゃないかと思います。彼らと話し合ったのは主に役柄についてで、あおいちゃんにはタイ語をがんばってほしいとか、NGO職員の役なのでボランティアの在り方の説明だとか。妻夫木くんには、東南アジアに遊びに行く感覚でアンダーグラウンドを見ようとしない現代の若者代表としてこの役をやってほしいとお願いしました。
あとは、何も語りませんでした。語らなくてもわかる方々だったので。

ペドファイルという言葉を本作で初めて耳にする方もいると思いますが、監督は以前からこうした人たちがいることはご存知でしたか?

そういう人たちがいるのは知っていましたけど、恥ずかしながらロリコンとそんなに変わらないのでは……という風に思っていました。幼児性愛者と言えばもちろん認識していましたけど僕にとっては他人事という感じで、どちらかというと欧米人が東南アジアで子供を買っているというくらいのイメージでしたね。そこにけっこう日本人が関わっているというニュースは見た記憶がありますけど、同じ日本人としてそれを大きく捉えて考えてみたことはなかったです。この映画のオファーを受けないと知り得なかったことですよ。

ペドファイルをネットで検索してみるとけっこうその類のサイトが出てきて、自らを正当化したり、「神聖なものだ」と言っているものもありました。そのような人たちに対して監督のご意見は?

買う側の闇というのはなかなかわからないんですよね。だから今回の映画ではそこまでは掘り下げられなかったかもしれないけど、わかったこととしてはアジア人の中では日本人が買う側に圧倒的に多いという事実。それから、欧米人は“相手も俺のことが好きなんだ”という風な物言いをするんだけど、日本人たちの場合は虐待に近いんですよね。子供たちをおもちゃや道具のようにしか見ていない。同じペドファイルでも欧米人と日本人とでは違う。ではなぜ日本人がそういう行動を起こすかというと、それは大人の女性に対する恐怖心からだとかいろいろな理由があるんでしょうけど、それを性癖でおさめないで、実際に買いに行く。しかもなんの罪悪感もなく、ネットで自慢しあったりね。買う側に日本人がすごく多いという事実を知り、これは日本人の監督として、挑むべきテーマだと思ったんです。

原作とは違った南部像が描かれていましたね。監督は脚本も書かれたということですが、南部という人物には監督のどんな思いが反映されているのでしょう?

映画を観終わった後、“これはよその国の特別な人の話なんだ”と思ってほしくなかったんです。ではどうしたらよいかと言うと、決して主人公を他人事のように描いてはいけないと思ったんですよね。だからラストを先に思いついて、そこからさかのぼって原作を少し書き換えさせてもらいました。

虐待された子供は大人になって虐待する側にまわる傾向があります。虐待される辛さを1番わかっているはずなのに、なぜそのような悪循環が生じてしまうのだと思いますか?

データ的には女衒の6割ちかくは昔、虐待された過去を持つ人間なんですよね。虐待を受けた子供たちはマフィアに監禁されながら大人になっていくから、生きていくためにはマフィアの部下になるしかないんでしょうね。だからマフィアの女衒をただ犯罪者として断罪するというだけでは、ある一面からしか物事を見ていないことになり、問題の解決にはなりません。NGOの方々は当然わかっていますけど、インドネシアのスマトラ沖の地震、タイのプーケットを襲った津波でも実は子供がたくさんさらわれているんです。この間のミャンマーで起こったサイクロンでもそうです。“保護する”とか“私は親戚です”と子供たちをさらってはどこかで売買する人間がいる。災害の裏でそんなことが起こっているなんて、僕も本作に関わらなければわからなかったことです。結局すべての被害は子供たちが受けてしまうんです。

本作を観ていろいろ方がいろんな感情を抱えて劇場を後にすると思います。こうした現状を知ってしまった私たち日本人は何をすべきだと思いますか? あくまで監督いち個人のご意見でけっこうです。

何かボランティアをしてくださいと強要している映画ではないし、そういう終わり方もしていませんけど、結局自分の生活圏、そしてそれを取り巻く社会、それと海外ってやはりちゃんと繋がっているんだということを知ってもらいたいし、たぶん映画館を出たときに日本の風景が違って見えるはずです。僕自身撮影を終えて、渋谷を歩いている若者たちや大人たちを見たとき“元々あっち側だったな”と思ったんです。この映画に関わる前は全く知らずに街を歩けたというか。自分たちの見えない範疇で、特に同じ自国の人が何をしているのかということを考えていただくきっかけになればいいなと思います。中には行動を起こしてくれる人も出てくるかもしれませんが……。

タイでボランティアしている方々、日本で子供や女性を救うためのボランティアをしている方々の“矛盾との戦い”を知ってしまうと、ヘタに描けないです。“みんなで助けましょう!”なんて簡単に言えない。子供が救えたとしても、ひどい虐待によってその子はもう壊れてしまっているわけです。救ったあとにどうやって本来の子供の姿に戻してあげるかというのも課題ですけど、救っても救っても救わなくてはいけない子供たちの数が増えていく中で、もう抱え切れないわけです。そのようなボランティアを長年やっている方というのは、いちいち可哀想だなんて思っていられない。1つの感情にずっと捉われていたら行動が止まってしまうからです。だから僕は、“子供たちを救いましょう”というメッセージを安易に発することはできないんです。

本作の後に全く異なるジャンルの映画『カメレオン』をお撮りになりましたね。それは本作『闇の子供たち』のずっしりとした空気感から少し離れようと思ったからですか?

『カメレオン』を監督して結果的に心のバランスはとれましたけど、心のバランスをとるためにあのオファーを受けたわけではないですね。ただ、『闇の子供たち』は芝居にも関わらず、目の前で撮っている子供たちのリアリティさをすごく感じざるをえなかったので、“劇映画を撮るってどういうことなんだろう?”とか、“監督するってどういうことなんだろう?”とか、時々考えたりしていましたね。だから『カメレオン』の仕事を引き受けたとき、“映画監督って映画を撮るのが仕事なんだな”と、すごく当たり前のところに立ち回れたというのは確かですよ。

執筆者

Naomi Kanno

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