この春、国際交流基金フォーラムで開催されたインド映画祭2003で、新旧あわせて6作品が上映された。
 このところ、日本での一般劇場公開の噂を聞かないインド映画だが、このイベントでは大作『ラガーン〜クリケット風雲録』が上映され、インドならではの娯楽映画の健在ぶりを実感させてくれた。
『ラガーン』は、監督であるアーシュトーシュ・ゴーワーリーカルの脚本に惚れこんだ北インドの三大人気スターのひとり、アミール・カーンが自ら製作・主演をこなした、2001年の最大のヒット作。この年は、シャー・ルク・カーン製作・主演の超話題作「アショカ(日本未公開)」もあったのだが、それを抑えて、2002年のアカデミー外国語映画賞ノミネート作品に選ばれている。
 ストーリーは、1890年代の大英帝国支配下のインドの貧しい村を舞台に、納税免除をかけて英国軍と村人がクリケットの試合をする、というもの。クリケットのクの字も知らない村人たちが、リベラルなイギリス人女性のコーチを受けながら、宗教やカーストを乗り越えて団結し納税免除を目指す。インドは、現在ではクリケットのワールドカップの覇者で、つまりクリケットはインドの国民的スポーツなのだが、日本ではなじみの薄いスポーツ。だが、野球に似たところもあり、この映画自体、野球好きの日本人を魅了する要素に溢れていると言えるだろう。
 本作の映画祭での上映に際し、主人公の母親を演じた女優のスハーシニー・ムレーさんが来日。スハーシニーさんは、芸術映画でデビューし、その後、ドキュメンタリー作家に転身したという異色の経歴の持ち主である。来日中は、フリータイムを利用して広島を訪ねたという。そのスハーシニーさんに貴重なお時間を頂いて、『ラガーン』のことなどお話をうかがった。

$red 『ラガーン〜クリケット風雲録』は、ソニー・ピクチャーズエンタテイメントよりDVD『ラガーン』として発売中$




——まず、『ラガーン』が大ヒットを記録し、アカデミー外国語映画賞にノミネートされるまでになったのは、どういう点が受け入れられてのことだと思われますか?
「スタッフと出演者全体のまとまりがよかったこと。それと、シンプルに見える内容ですが、実は複雑で、愛があり、人間の悲喜こもごももあったということがヒットに繋がったと思います。それから、見た後に人を気持ちよくする何かがあったからではないでしょうか。
 インドで大ヒットした理由はとても簡単です。インドの国民的なスポーツは何かというと、それはクリケットなのです。この映画のクリケットの試合では、夢にも有り得ないような素晴らしいプレーが続出します。もうひとつ、この物語を突き詰めて考えていきますと、強烈な力を持った相手に対して戦うために力を合わせていく一人ひとりの人間の戦いであり、そういったことは世界中の皆さんにとって魅力的な物語ではないかと思います。
 そして、この脚本自体がひじょうにいい出来であるということが、考えられるひとつではないかと思います。本当に素晴らしい出来の脚本で、監督自身構想の時点で具体的にどういった映像を出していきたいのか、そういったことをはっきりと自分の頭の仲に描いていたと思いますし、流れの決め方について見事な手腕を発揮していると思います。映画自体の時の流れ方を見ていきますと、いろいろな部分で時も物語も流れていっています。そういうところでの見事さと合わせまして、観客が夢中になれる、楽しめるということが大成功の秘密かと思います」
——3時間40分の長い映画なのに、あっという間に終わってしまった感じがしました。他のボリウッドの映画と違ってしっかりした脚本が最初からあったということでしたが、いったいどのくらいの厚さのシナリオだったのでしょうか?
「脚本を自分で読んだときには、そんなに多い映画だとは感じませんでした。もともとの脚本を編集して445分になるまでに縮めていますし……最終的に100ページくらいはあったと思います」
——皆さんが、暗記されるのですか?
「全員がそういうわけではありません。特にイギリスの俳優がひどいもので、中には最初から最後まで棒読みでオウムのように繰り返すばかりで何を言っているのかまったく理解していない人もいました。彼らが何故そうだったかというと、ヒンディ語のセリフは、まずヒンディの文字で書いてあって、その下にアルファベットで発音が書いてあって、そのあとにようやく英語訳が書いてあったので、理解するにがたいへんだったのでしょう。イギリス人俳優が苦しんだのは言葉の壁があってのことですから、彼らについて言えばインド人のためによく働いたということになりますね」
——イギリスの俳優の方々は——トークショーでのお話では、クリケットの名手揃いで試合のシーンではわざとエラーしなければならなかったりという苦労もおありとのことでしたね。



——今、振り返ってみて撮影中の思い出を何かお聞かせいただけますか? さきほどのトークショーでは、農業をするシーンでスハーシニーさんが着ていた服に焚き火の炎が燃え移ってしまったエピソードを話されていましたが、そのほかには?
「6ヶ月間の撮影期間で、1月にはすごく冷えてマイナス6度くらいだけれど、6月はひじょうに熱くて摂氏55度くらいになる砂漠の中で撮影したことです。イギリス人の俳優は私たち以上にたいへんでした。彼らは、ドレスや厚いガウンを着ていますので、撮影が終わるごとにいちいち引っ込んで、スカートを上げて扇いだりしていたのですよ。
 私は、この作品がここまで成功するとは、撮影を始めたころには思いませんでした。すごく壮大な映画なんですけど、撮影スタッフがする細かい提案について監督が一切ダメだということを言わなくて、何にでも耳を貸したのでうまくいったんじゃないかと思います。
 ゴーワーリーカル監督は、もともと俳優だったという経歴があって接しやすかったですね。たとえば、俳優がこういうふうに付け加えたらいいのではないかと言うと、もともとどういう演技かということをちゃんと説明してくれますし、もしそうでなければ、俳優の主張が理解できればそれを採用するというふうに柔軟に対応してくれました。すべてにおいて何でも聞いたというわけではなくて、自分のしたいことには筋を通していました」
——ダンスのシーンはいかがでしょう? インド映画特有のものですが。
「(私のような)年長の者は細かく何を踊るというわけではないんですけど。
 インドには演劇の伝統があってこのようになると思うのですけど、日本でも歌舞伎などで歌や踊りがありますね。私としては、歌とダンスはストーリーに関係があり、(この映画では)突然その(ミュージカル)シーンが始まったという感じはしません。付け加えると、現在、あなたがたが見るようなインド映画には、歌やダンスがストーリーと関係があるというものは少ないと思います」



——さて、スハーシニーさんは、10代で女優デビューされましたが、20代の前半で女優のキャリアに一旦とめてカナダに留学されましたね。それはどうしてなのですか?
「もちろん女優としてのキャリアを選んでずっと映画に出続けるという選択肢もありました。インドの映画の中ではヒーローとヒロインが踊るというのが当然のように決まっていますから、やるのならそういう女優にならなければならない。けれど、真剣に自分のことを考えたとき、もっと勉強しなくてはいけないと思ったので、若いうちにカナダに行きました」
——その後、ドキュメンタリーを撮られるようになるわけですが、社会問題には10代のころから関心を持っていらしたのですか?
「インドにいたときは、自分たちの中で差別されているという認識は少なかったのですけど、実際にそういう違いがあるということには気付いていました。それから、カナダに行って、今度は人種差別の問題に遭遇しました。カナダに行けば何かがなくなるというわけではなくて、そこには(別の)差別がありました。そうやって、インドに存在する問題をカナダで気付きました。インドにいたことには問題意識はなかったのですが、ちょうど自分が勉強しに行ったころは、ベトナム戦争の反戦運動がひじょうに盛んなころで、自分もそのように問題意識というものが備わってきたということがあったかもしれません」
——昨日は広島に行かれたとか? 広島はいかがでしたか?
「広島に行く前には、核そのものに対して反対という考えで、平和のための抑止力として持つということそのものに反対をしていたのですけど、実際に広島に行ってみてまずショックを受けました。広島の人々が具体的に何を受けたかということを見てショックでした。インドは核実験を行っていますが、たとえ実験であろうが人間がしてはならないことだと思いました。インドは平和的目的に使っているといいますけど、武器として使われるものでなかったとしても、スリーマイル島の悲劇とか原発事故……その後で起こったことは人間がどうやっても元に戻せないものでしょう」
——どうもありがとうございました。次は、ぜひドキュメンタリーフィルムの監督としてのスハーシニーさんにお会いしたいと思います。
「二年前に、私はドミュメンタリーフィルムで『トーキング・ピース』という映画を撮りました。それは、インド・パキスタンの問題について撮ったものです」

執筆者

みくに杏子