2000年5月のカンヌ国際映画祭、ひとりのクルド人監督が脚光を浴びた。新人監督に与えられるカメラドールと国際批評家連盟賞のダブル受賞を果たしたのが、このイランから来たバフマン・ゴバディ監督、その長編処女作が『酔っぱらった馬の時間』である。
 イラクとの国境に近いクルド人の村で助け合って暮らす一家の物語。母が5人目の子を出産した際の産後の肥立ちが悪くて他界しているところに、密輸の運び屋をしていた父親が地雷に当たって死亡。5人の子供たちが残される。難病の長男マディの治療費と一家を支えるために次男アヨブは、12歳にして家長として働くことになり、長女ロジーンは自分が嫁入りすることでマディに手術を受けさせる道が開くことを知る。村の大人たちは、厳しい冬の寒さのなか、ラバに寒さ対策の酒を飲ませた上で密輸品を積み、地雷を避けながら山越えをしている。まだ少年のアヨブは、大人たちに混じってラバとともに雪の斜面を登って行く。そんな兄弟の姿が、次女アーマネの視点で綴られていく。
 逆境のなかでも瞳の輝きを失わないクルドの兄弟の姿は、民族の壁を超えて多くの人々の感動を誘い、カンヌ以下、シカゴ国際映画祭での審査員特別賞など多くの賞を受賞した。
 クルド語をメイン言語とし、自らの郷里を自らの民族を撮ったゴバディ監督は、本作で何を目指したのだろうか。来たる東京国際映画祭でも長編2作目「わが故郷の歌(仮題、英題:Marooned in Iraq)」のコンペティション参加が決定しているゴバディ監督の生の声をお届しよう。

『酔っぱらった馬の時間』主な受賞歴
カンヌ国際映画祭カメラドール新人監督賞・国際批評家連盟賞
シカゴ国際映画祭審査員特別賞
サンパウロ国際映画祭最優秀作品賞
スペイン・ヒホン映画祭審査員特別賞
イラン・イスファハーン映画祭ゴールデン・バタフライ賞
ノルウェー・トロムセー映画祭ドン・キホーテ賞

$red 10月5日よりユーロスペースにて公開$






——まず最初に、この映画はクルド語で撮られた珍しい映画ですが、クルド語で撮ったことの意義から教えてください
「イランのクルディスタン州の人々はクルド語を話し、クルド語の歌を聴いているけれど、実際のところ、学校にはクルド語の本がなく、勉強しているのはクルド語ではない。クルド語の本は存在するのですけど、教科書は違います。私は、この映画を作るとき、4000万人のクルド人が自分の言葉で楽むことを望みました。他の民族の住む町ではペルシャ語の字幕をつけて出せばいいし、海外での上映はどっちみち字幕になるからそれでいいと思ったのです。それに、映画で起用した人たちは現地のクルドの人たちであって、彼らはペルシャ語が話せません。彼らには無理にペルシャ語のセリフを言わせると、すごく不自然になります。映画は見て信じるものですから、クルド語で撮ることが彼らにはいちばん合うと考えました」
——学校のシーンがありましたけれど、そうすると、あの学校で使っていた言葉は?
「教科書はペルシャ語ですが、先生は1日中クルド語で説明しています」
——なるほど。そうでないと彼らは理解できませんね。
「生徒はクルド語で質問して、先生もクルド語で説明します」
——実際、これはイラン国内での上映はどんな形で行われたのですか?
「クルディスタン州のいちばん大きな町・サナンダジュには映画館が2館あります。そのうちの1館で上映しました。とても多くの人が見に見てくれました。田舎から車やトラクターに乗って来てくれました。私が生まれた小さな町・バネーとか他の土地にはプロジェクターを持って行き、いろいろな場所で皆に無料で見せました。クルディスタン州には映画館があまりないのです。いくつかの村には電気も引かれていなかったので、2台の自動車にビデオやテレビを積んで行って、モスクの中で上映しました。人々の反応はすごかったです。テヘランでは、映画祭で賞をもらっている映画は芸術的映画としか見てくれないので、配給会社は1館でしか上映してくれなかったんですけど、それでも、すごくヒットしました。もし、これが他の商業的映画のようにたくさんの映画館にかかっていたら、もっとヒットしたのではないかと思います」
——テヘランでの上映では、字幕が入ったのですか?
「はい、そうです」






——ここに登場する子供たちはとても可愛くて、一生懸命生きている姿がとても感動的でした。彼らは普通のクルドの人のなかから選んだのですか?
「そうです。映画の中に出てくる子供たちは、同じ地域で選んだ子供たちです。トラックの後ろに座っている子供たちの表情が、ひとりひとりとてもきれいですよね。皆、ああいうきれいな顔をしているんです」
——トラックに乗った子供たちも皆、クルド人なのですか?
「皆、実際にクルディスタンの人たちです。私は現実を撮ろうと思っていたのですから。彼らはバネーという町で仕事をして、また自分の村にああいう感じでトラックに乗り込んで戻るんです。本当に現実にそういう子供たちがいるんですよ」
——あの子たちを選ぶのは、たいへんでしたか?
「いいえ。楽に選べましたし、彼らも楽に受け入れてくれました。水道や電気もないくらいの土地に暮らしているのですから、もちろんカメラを見たこともなく、すごく驚いて演技できないかもしれないと思ったんですが、カメラの前ですごく楽に演じてくれました。IQがすごく高くて、頭が良かったんです。彼らは、都会の子供たちに比べると、すごく大人びた考え方を持っています。人生に対する希望や考えがすごくはっきりしていて、驚くぐらい彼らは大人だったのです。苦労のなかで育つ子供たちは、しっかりと育つのではないかと思います」
——トラックの荷台で歌を歌っている子供たちがいましたね。あの歌は、聴いていてとても辛くなる歌詞ですが、あの歌自体は実際にあるものを監督の指示で歌ったものなのでしょうか?
「彼らに『何が歌えるのか?』と聞いたところ、2、3曲歌ってくれたので、その中から選びました。実際に人々の間で歌われているもので、あの地域で歌われているものの詞はみな暗いのですが、ただ、リズムはすごく明るくて、踊ったりもするのです。それは、クルディスタンの苦しい生活のなかで、日々の厳しさを実感したくない気持ちがあって、すべてのところから幸せを感じ取れるものをすくいとり、それで満足しているということなのですね。踊りや歌のリズムがハッピーでも詞が暗いというのは、まさにクルディスタンの状況を映しているのだと言えます」





——監督御自身もクルドの方ということですが、彼らのような子供時代を過ごされたのですか?
「私はバネーという町に住んでいました。映画の中に出てくる商店街は、バネーの商店街なんですけど、アヨブと同様にあの商店街でアルバイトをして、クッキーを売ったりしていました。アヨブが体験したこと全てを体験したわけではないのですが、子供時代には戦争を味わっていますし、戦争の区域が広がったときは家族で荷物を持って、映画の中に出てくる村に避難したこともあります。アヨブとは違う形でも、厳しい状況を味わい、家族を助けて暮らしました。
 クルド人から痛みを取ると、クルド人には何も残らないかもしれません。昔から痛みや苦しみとともに生きてきているので、“クルド=痛み・苦しみ”なのです。居住地域は昔から国境地域で、どこの国であっても何処かの国を襲おうとすると、まずクルド地域に侵入するのです。ですから、クルド人はどこに住んでいても襲われる恐れがあります。ペルシャ帝国のころは領土が広かったから、クルド人は皆イラン(=ペルシャ)に住んでいました。オスマン帝国(現・トルコ)などの襲撃は、クルド人の土地を通ってイランの大都市に到りますから、クルド人はイランのガードマン・守りと呼ばれていたのです。
 領土が小さくなって今のイランの国ができたのだけど、結果として国境地帯にクルド人が住むことになりました。で、どこかの国を襲おうとすると、また、そこにクルド人がいるということになっているのです。イランの中のクルディスタン(=クルド人居住地域)もいくつかの小さな州になっていて、クルド人は分かれて住んでいます。トルコには、いちばん多くクルド人が住んでいて1800万ぐらい、イランは1200万くらいで、イラクでは600万くらい、シリアは200万くらい住んでいると言われます。でも、これはだいたいの話で、実際はわかりません。あちこち移動しているから、実際、どこの国に何人か正確にはわかりません」
——遊牧民ということがありますか?(編注:クルド人には遊牧民もいると言われる)
「戦争だから逃げているんです」
——ああ! そう言えば、出演されていた『ブラックボード 背負う人』(サミラ・マフマルバフ監督作品)にそういうクルド人の描写がありましたね!
「そうです。遊牧民ということとは違います」







——物語の中心にいる兄弟なんですけれど、お互いにとても思いやりあっていて、辛い状況のなかでもとても幸せな関係を築いていると思います。こういう関係は、苦しい生活を強いられているクルド人の特性なのでしょうか?
「クルド人だけではなく、イラン人は兄弟の結びつきがとても深くて、兄弟のために死ねると皆思っています。兄弟のためだけではなく、その子供のためにも、自分のものを全て失ってでも何でもします。それは、イラン人の特性・考え方・習慣なのですが、クルド人もイラン人以上に絆が深くて、思いやりがあるんです。大都会のテヘランでも、旅行中の外国人が道に迷ったとすると、何十人も集まってきて道を教えたり、また『ホテルに泊まらないでうちに来なさい』としつこいくらいに言ってくれますよ。でも、クルド人は、その何十倍も外国人やイランの他の地域から来ている人に優しいんです。見知らぬクルド人でも、とてもよくもてなしてくれます。もしかしたら自分が来るのを1週間くらい前から知っていたのかではないか、と思うくらいに全てを出してもてなしてくれます。何もない村の人も、自分の子供を売ってまでしてもお客さんに鶏を食べさせたいというようなことを思っているんです」
——この子供たちは、本当に兄弟ですか? 兄弟を演じているだけなのですか? とても自然だったので、見ていてどっちだろうか迷いました。
「アーマネとマディは本当に兄弟で、家族はほとんどが本当の家族ですが、アヨブは隣の家の子です。アヨブと同じ歳の子がマディの家にもいたのだけど、顔にちょっと傷があって絵的には使えなかったんです。もうひとりの妹は、別の家から連れてきました。マディの本当の妹はカメラが絶対にいやだというので、代わりに他から連れて来たのです。でも、皆、同じ地域で同じ体験をしてきているし、後でよく知り合ってみたら、アヨブたちの本当の生活のほうがマディの家よりも厳しかったのです。バネーからマディたちのいる国境の村への間には、アヨブのような子供たちは2〜3000人もいるかもしれません」
——では、特に特殊なわけではなく、本当によくいる子供たちなのですね。
「たくさんいます。映画では、商店街の子供たちが30人くらいで、その後トラックに乗っている子供たちは10数人いて、だんだん絞っていってマディの兄弟の話になっていきます。なぜそういう撮り方をしたかというと、皆同じなのだけれど、ただ、カメラはこの3人(アヨブ・アーマネ・マディ)をフォーカスして撮っているのだ、と、そういうことを言いたかったからなのです」
——苦労の中で育ちながらも希望を持てなくて絶望してしまっている人も世の中にはいると思いますが、彼らはひじょうに前向きで、その姿は衝撃的でした。それは、監督が狙って演技させた部分なのでしょうか? それが本来の彼らの姿なのでしょか?
「もしも演技であれば、演技は監督がさせるものなのだけど、でも、本当に彼らから感じとれたものは目の中の光ではないかと思います。いくら演出がうまくても、そういう目は作れないものです。彼らのなかには、そういう美しい目をしている子がたくさんいました。すごく男らしく強く、人生をわかっている、すごく希望をたくさん持っている、そういう光を感じました。ポスター(カンヌで使用されたもの。日本版とは違う)を見ていても、アヨブが西部劇に出てくる大スターのような顔をして映っているのですけど、そういう子はいるんですね。
 さっきも言ったのだけど、クルディスタンには苦しみがすごく多くて、痛みもすごく多いのだけど、皆、そのなかでも希望をみつけて生きていこうとしています。絶望してしまったら死ぬ、死んだらもう終わりだと皆知っているので、少しでも明るいものを探してエネルギーにして生きているんです。子供たちは、国境に生まれて国境の厳しい生き方を感じているんです。だから、子供のときから大人みたいな仕事をしたり、母親みたいに自分の兄弟の面倒をみたり、全てを突然体験してしまうのです。突然大きくなる子供たちなんです。
 映画では、アヨブに夢中になって撮れなかったんだけど、撮りたかったのは、アーマネの母親らしい姿です。アーマネの家には実際に赤ん坊がいて、お母さんが亡くなっていないんです。それで、アーマネは毎日赤ん坊を抱いて、家々を渡り歩いて母乳をもらって飲ませていたんですよ。そういうアーマネを撮りたかったんだけど、いろいろなことでいっぱいいっぱいで出来ませんでした」







——いま、アーマネとアヨブ、マディはどうしているのでしょうか?
「アヨブは、映画が終わった後、家族とイラク側に行って羊飼いをしていました。次の映画を作ったとき、私はアヨブを探し出して現場に連れてきて下働きをさせながら映画のことやカメラのことを教えてました。彼は、今、国境近くの町のテレビ局でADをやっています。
 マディは、少し弱くなりましたが、いまごろは、多分、山を眺めているんじゃないかと思いますね。彼は、暇になると山をずっと眺めていたから。
 アーマネは、いま15歳くらいになっていて、また家族の面倒をみていると思うけれど、もうそろそろ嫁に行くころでしょう。最近、アーマネに会いに行ったのだけど、彼女は洗濯をしていたんですよ。すごく冷たい水で、汚れた服の山をそばにして洗っていたんです。彼女の手を見たら、まるでおばあさんのような手をしていて、私は思わず手にキスをして『この小さい手で……たくさんの服を……』と言ったのですが、『そこを見てください』と言われて、見たら、紐にたくさんの洗濯物がかかって干されているんです。聞けば、村中の洗濯物を集めてきてお金をもらって洗っている、そういう仕事をしていたんですね。撮影中にも彼らにはいろいろ買ってあげたんだけど、すぐに売ってお金にして、そのお金を仕事に役立てたりするんですよね。子供たちを日本に呼んでみたらどうかな?」
——会ってみたいですね。
「アーマネは“おしん”でしょう。日本人がアーマネのことを理解できるのは、おばあさんの世代にそういう子供がいたからかもしれませんね。すごく純粋な子です。アヨブのことはどう思いますか?」
——すごく賢そうですね。
「マディは?」
——マディは、私は心配ですね。
「マディを心配だというのは初めて聞きました。みんな、マディは可愛くて、すごくエネルギッシュでブルース・リーが好きで、可愛い可愛いって言うんですけれど。彼は、人生を愛しているっていう感じがします。女性がすごく好きなんです。『死ぬ前には結婚したい』と言ってたんです。マディに『今度書いている脚本は、400人の女性の話だよ。撮るときに君を連れていこう』と言ったら、手を合わせて『嬉しい!』ってね(笑)」
——手術しても1年持たないと映画の中で言っていたではないですか。だから、心配したんです。
「でも、あと1年で死ぬかも知れないという状態をずっと続けているんですよ。マディのドキュメンタリーを作りたいくらいですね。あと、アーマネの話とか」
——アヨブが、いま、テレビ局でADをしているという話でしたが、監督も放送局の仕事から始めてカンヌで賞をお獲りになって、今年もカンヌで上映されるようになりましたよね。いつかアヨブもゴバディ監督のようになって、マディのドキュメンタリーをいっしょに撮るのはいかがですか?
「プロデューサーとして、アヨブを手伝ってひとつの映画を撮らせたいですね。アヨブが、自分で映画に出ていた場所にもう1度行くのです。ドキュメンタリーです。彼を、そういう形で手伝いたいですね」
——今後の御予定は?
「プロダクション・オフィスを作ったので、若い人たちを手助けして映画を作らせたいと考えています。まず自分の弟と友達が撮影に入るので、そのふたりを手伝って、で、自分の3本目の映画を10月から11月くらいに撮り始めようかなと思っています」
——そのプロダクションは、特にクルドの若い人たちのために?
「80パーセントは、クルドの若者やクルドの人たちのためにエネルギーを使おうかなと考えていますが、イランには他にもいくつかの民族が住んでいますので、民族の話を作る監督のために使うつもりです。80パーセントはクルド、と言っているのは、自分がクルドだからというわけではないのだけれど、クルドに目を向けて欲しいと思います。今まで、そういう機会があまりになかったからです」

執筆者

みくに杏子

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