ここに、全ての記憶をリセットして、新しい別の人間としてやり直したいという人がいる。その一方で、自らのアイデンティティを探るために自分の過去を求める人もいる。苦しみから逃れるには、記憶を消すしかないのか、記憶を求めるしかないのか。今、そばにいる誰かとの関わりの中に、救いを見出すことはできないのだろうか。
 2001年の東京国際映画祭シネマプリズム部門のオープニング作品『バタフライ』は、人と記憶・アイデンティティの関係を問う、深遠なテーマの韓国映画だった。過去を忘れさせてくれる“忘却のウィルス”を求め“バタフライツアー”に参加した女・アンナとそのガイドである少女・ユキ、そして捨て子という過去を持つツアーの運転手・Kの3人によって紡がれるロードムービーだ。
 東京国際映画祭には、監督のムン・ソンウクとふたりの主演女優、キム・ホジョンとカン・ヘジョンがゲストとして来日。そのうちアンナ役のキム・ホジョンに単独インタビューをすることができた。
 インタビューの現場に現れたキム・ホジョンは、人生に疲れたアンナとは別人のように溌剌とした華やかさをもった女性だった。長く舞台で活躍してきた彼女は、ビデオカメラを使用したこの撮影現場では、特別な経験をしたという。その経験とは?

$navy 『バタフライ』
2001年第14回東京国際映画祭シネマプリズム・オープニング作品。
2001年のロカルノ国際映画祭主演女優賞(キム・ホジョン)
日本公開未定
原題:Nabi(The Butterfly)
監督:ムン・ソンウク
出演:キム・ホジョン、カン・ヘジョン、チャン・ヒョンスン$





●お会いしてみて映画の印象よりもお若くて美しかったので、びっくりしました。実際の年齢よりも上の設定の役だったのでしょうか?
「(笑)映画の中では、暗い役だったので監督から笑うこともあまり許されなかったし、暗い面が強調されてそういうふうに見えたのではないかと思います」
●人生に疲れた女性という役柄だったので、顔色が悪いようなメイクをされていたのかと思いましたが?
「撮影ではメイクはしていませんでした」
●自然の光線や影を監督がうまく利用されていたわけですか?
「そうです」
●この映画で2001年のロカルノ国際映画祭の主演女優賞を受賞されましたね。おめでとうございます。ロカルノでは、どういう点が評価されたと思われますか?
「(笑)賞をいただいたほうなので判断できないんですけど、人の話によると、自分が見せたかったものが人の感情のいちばん奥に流れている弱さとか内面的な真実とかそういう小さなことだったので、そういうところがある程度評価されたのではないでしょうか?」
●ロカルノでの客席の反応は覚えていますか?
「よく覚えています。海外での初めての映画祭で、試写も3000人くらい入る劇場でした。多勢の人々が自分の演技を見ているのかと思うと、感動で胸が一杯になりました。ロカルノという場所もとても美しい場所で、映画祭期間中は祭のような雰囲気で、あちこちでいろいろな人から『いい映画をみた』と言ってもらえて嬉しかったです」
●昨日の東京国際映画祭での上映後のティーチインで、「この映画で特別の経験をした」とおっしゃっていましたが、具体的にどういう経験をされたのしょうか?
「この映画は一般的な映画と違いました。普通の映画のようにコンテを作ってその中で演技をしたり、あるときはドキュメンタリーのように撮ったり、あるときは演劇のようであったり、いろいろ多用な演技経験ができたことも特別な経験でした。もうひとつ、この映画の撮影が始まってから休みがなくて、連日撮り続けたのである意味で辛かったし、その中で孤独を感じたり、自分に向き合うこともできました。これだは特別な経験でした」
●深遠なものが語られている映画で、捨てたい過去を持つ人がいて、かたや失われた過去を探す人が対照的にいて、それが印象的でした。キムさんご自身は過去のものを捨てて生きるということについてはどう思われますか?
「人間である以上、いい思い出もあるし悪い思い出もあります。でも、自分の意思とは関係なく覚えたり忘れたりするものだと思います。ですが、私は俳優だから、できるだけの記憶を持って生きていきたいですね」
●では、もし、バタフライツアーのガイドだったとして、過去の記憶を忘れたいという人がいたとしたら、キムさんとしてはどういうアドバイスをしたいと思いますか?
「自分も消したい記憶があるので(笑)。みんなが自分と同じではないから何も言えないですね」




●撮影は、ビデオカメラで撮影されていたそうですが、ビデオカメラであったということで、今までの映画での演技と違う部分はでてきたのでしょうか?
「ほかの演劇や映画と違って数倍のエネルギーが必要でした。本当のことを生々しく見せたかったというのがあって、たとえば、疲れているシーンでは疲れている演技をするのではなくて、実際に自分を疲れさせて本当に疲れている表情が出るようにするとか、本当にそのままを見せたかったんです」
●では、疲れているシーンを撮るために、監督はどういう手を使ってあなたを疲れさせたんですか?
「(笑)いろいろ。いつも緊張させるんです、私を。共演者のカン・ヘジョンの場合は、ひとつのシーンを撮るのに何回も何回も繰り返して最後に疲れているところを撮っていました。私の場合は、ひとつのシーンを撮るために長い時間待つのですが、待つ場所は現場の近くではなくて現場を見せずに違う所でずっと待たせるんです。何をすればいいのかわからないまま撮影に入ったりして、そのままの反応を撮ったり。水の中のシーンは、2日も水の中に入っていたりとか」
●本番までに2日間同じことを繰り返させるわけですか?
「いえ、水の中でのシーンは、ユキとアンナが親しくなるシーンなので、ふたりが本当に親しくなる場面ができるまで水の中でいろいろなことをして過ごす時間が長かったですね。ほんの数秒のためにいろいろな可能性を確かめました」
●そういう演出の仕方は、今までには経験のないものだったのでしょうね?
「そうですね。だから、今回は自分を確かめるチャンスでした。自分の実力とか恐れているもの、足りないものがわかりました」
●本作を振りかえって役作りとか苦労した部分は?
「今も当時の苦労を思い出す度に胸が痛いんです。特別にどのシーンがとか、水がとか寒くてとかそういうのではなくて、撮影の最初から最後まで同じ人物でいなければならなかった事態が苦しかったです」




●プロフィールを拝見したのですが、どちらかというと映画やテレビよりも舞台が多かったのでしょうか?
「テレビはやってませんでした。子供のころからの夢が舞台に立つということで、舞台の世界にいつもいて、映画を見ることはあまりなかったのです。大学で演劇をやっていた先輩たち(『シュリ』のハン・ソッキュやチェ・ミンシクら)が映画に出ているという話を聞いて、彼らの演技を見るために映画館に行ったのですが、そのときにいい印象を受けたので、自分もいつか機会があれば映画に出てみようと考えるようになりました。それがきっかけになりました」
●以前、出演された『吠える犬は噛まない』(第13回東京国際映画祭・アジアフォーカス福岡映画祭2001で上映)では、主人公の男性の奥さんの役でしたね。あの役にしても、今回の役にしても女性が共感できる役をひじょうにステキに演じてらっしゃいました。女優として、今後はどういうふうに活動していきたいと思われますか?
「私が映画の世界に入ったのはほかの人よりも遅れているのですが、これから映画だけをやるというのではなくて、映画でも演劇でもいい作品があったら問わずにやるつもりです」
●こういうタイプの映画に出てみたいというような希望はありますか?
「今のところは、決まっている何かをするというより、いろいろなこと・役を通して今まで見せてこなかったものを見せたいですね。コメディでもいいし、何にでも挑戦していきたいと思います」
●今後、決まっているお仕事は?
「(ロカルノで)受賞してから、まわりからこれをやってみたらどうかとかそういう話がけっこう出てきてるんです。前よりは大きなチャンスがあると思うのですが、ゆっくりいくつもりです。今までと同じペースで、自分が興味の持てる作品が出てきたらやってみたいという感じです」
●この次映画で拝見するときは、美しさの引き立つ役で拝見したいですね。生活の苦しさとかそういう部分の目立つ役でばかり拝見していたものですから。
「いろいろな人が『美しくなかった、次回はもっと美しく』って言うんですよ(笑)」

執筆者

みくに杏子