日本のサブカルチャーに多大な影響を与えた伝説の漫画雑誌「ガロ」。1970年代、同誌において次世代の作家として注目を集めた漫画家がいた。阿佐ヶ谷に居を構えた彼の名は、安部慎一。

 「ガロ」で活躍したつげ義春や永島慎二が開拓した 、自らの私生活そのものを題材にした“私漫画”の黎明期を引き継いだ安部は、恋人であり、のちに妻となる女性・美代子をモデルに多くの短編を描いていった。映画『美代子阿佐ヶ谷気分』は、安部の代表作である同名の短編をはじめ、「阿佐ヶ谷心中」「天国」「猫」「悲しみの世界」など、多くの短編を映像として描き出し、天才と呼ばれた私漫画家の実像に迫っていく。

 安部慎一の恋人であり、妻となる運命の女性・美代子を演じるのは、劇団・毛皮族の看板女優であり、映画・ドラマにも活躍の場を広げる町田マリー。共演には、本多章一、松浦祐也、あんじら若手俳優陣に加え、「ガロ」にも造詣の深い俳優・佐野史郎。さらに、安部が影響を受けたと語るイラストレーターで漫画家の林静一を筆頭に「ガロ」ゆかりの人々が大勢出演しているのも注目だ。

 監督は、大学在学中に制作した「でかいメガネ」が2000年にイメージフォーラムフェスティバルグランプリを受賞し、映画の美術スタッフやCM、ミュージックビデオ、ビデオ作品の演出などをつとめてきた坪田義史。本作が初の劇場監督作品となる。また、主題歌をロックバンド・SPARTA LOCALSが担当し、ドラマティックに作品を彩っている。

 安部慎一を演じるのは、いまや若手実力派俳優として日本映画には欠かせない存在となった水橋研二。今回は『美代子阿佐ヶ谷気分』に対する思いを語っていただいた。




−−最近は水橋さんをお茶の間で見かける機会が多かったように思います。たとえば『相棒』や『これでいいのだ!!赤塚不二夫伝説』といったテレビドラマなどもそうですし、CMもいくつかありました。

「去年はそういう仕事が多かったので、映画は少し間が開いているかもしれませんね。ただ、この映画自体も撮影したのはだいぶ前なんですよ」

−−というのも、以前の事務所(麻生久美子などが所属する「ブレス」)から移籍されていたので、落ち着くまで映画は控えめにされていたのかな、と思ったからなんですが。

「そういうわけではないです。去年は事務所を独立して、たまたまテレビが続いただけなんですよね」

−−映画の話に入る前に、少しそのあたりのお話を聞いていいですか? そもそも何で事務所を変えようと思われたんですか?

「事務所が変わったというか、独立してマネージャーとふたりでやっているという感じなんです。みんな狩野さん(「ブレス」の社長)が世話をしてくれたんですよ。今のマネージャーも狩野さんに紹介してもらいましたし」

−−なるほど。そうだったんですね。

「確かに変わらなくてもいいじゃない、とは言われたんですよ。事務所は自分を守ってくれますし、とてもありがたい存在ですから。
 でもどこかで甘えていた部分もあったんですよね。事務所を辞めようと思ったのは2008年の5月くらいです。だからといって、他の事務所に行く気はなかったですね。
 狩野さんに相談したときには、『ひとりでやるのは大変だよ』とは言われてしまいましたけどね(笑)。でもそれ以降も困ったときには狩野さんに連絡しています。今でも甘えてばかりなんですが(笑)」

−−なるほど、そのお話を聞いて安心しました。ところでこの映画には独特な雰囲気がありますね。

「本当に独特ですね。台本を読んだときには、こういう映画になるなんて全然予想がつかなかったですからね。坪田監督はすごいなと改めて思いました」

−−色使いが独特ですよね。この映画の原作者である安部愼一さんはご存知だったんですか?

「正直、このお話をいただく前までは存じ上げなかったんですよ。『ガロ』という雑誌は知っていましたけど、手にとって読んだことはなかったですね。今回、初めて見たんですが、すごい作品を書く方だなと思いました。漫画というよりも、ひとつの絵画のような印象を受けました」

−−僕も初めて見たときは、すごい作品だなと思いました。

「それが第一印象になりますよね。何とも言えない感覚ですよね」

−−『くりいむレモン』や『月光の囁き』の例を出すまでもなく、水橋さんの出演された作品のひとつの流れとして、倒錯した恋愛模様を描いた作品があると思います。この作品を観たときに、そういった作品を思い浮かべてしまったんですが。

「なぜかそういうお話をいただくことが多いんです。もちろんやってて楽しいですけどね」

−−そういう倒錯した作品がきっかけで水橋さんのファンになった方も多いようなので、そういう方たちは今回の作品は大喜びかもしれませんね。

「いかんなぁ……。やっちゃいましたね(笑)」

−−愚問だと思いますが、水橋さんは普通の方ですよね。

「いたって普通なんですけどね(笑)。僕は個性がない役者なので、役から受けたものを表現するしかないんですよ。毎回変わらないと、という思いはありますね」

−−実際、出演されている映画によって印象が変わるカメレオン的な感じですよね。

「そう言ってもらえることが一番うれしいですね。永遠にそういう感じでいたいですね。自分の表現方法はそうするしかないんですよ。自分というものが分かってないので、自分の個性を出すということが分からないんです。人の力をもらう強さ、みたいなものは感じますね」


−−坪田監督とはどういうやりとりをされたんですか?

「坪田監督は同い年なんですけど、ずいぶん助けられましたね。監督に芝居を見てもらっていると、すぐ隣にいるような気がするんですよ。実際は奥のモニターのところにいるわけなんですが。それくらいエネルギーがある方なんです。それに引っ張られましたね。
 監督とは、どう見せるかよりも、人物の気持ちについて、精神的なことについてじっくり話し合いました。やはり安部さんがすごい方なので、僕ひとりでは対処できなかったですね」

−−安部さんが実在の人物という意味でのやりやすさはありましたか?

「やりにくさしかなかったですね。昨年放送されたドラマで赤塚不二夫先生もやらせてもらったんですけど、亡くなられて間もない時期でしたからね。もちろん安部さんもご健在ですし。漫画の主人公を演じるのとはまた違う。だからこのお話をいただいたときも、お受けするかどうか悩みました。ちょっと時間をくださいと。ふたつ返事でハイとは言えなかったんですよ」

−−それがやろう、という気持ちに変わった瞬間というのは何がきっかけがあったんですか?

「台本が面白かったですし、やってみたいという気持ちは確かにあったんです。そのときは前の事務所にいたときだったんですけど、当時のマネージャーが、『やらないで後悔するよりは、やって後悔した方が水橋くんの今後にもいいと思うからやってみたら?』と言ってくれたんですよ。そのひとことが大きかったですね。ひとりでは決めかねてましたから」

−−安部さんもご覧になるでしょうしね。もうご覧になったんですか?

「SPARTA LOCALS(スパルタローカルズ)のふたり(安部コウセイと安部光広。安部氏のご子息で、本作では音楽を担当している)は見てくれて、喜んでくれてましたね。コウセイくんは、父ちゃんは喜んでいたよ、と教えてくれたので、ご覧になったんでしょうね。でも喜んでないとは言わないよな、と思ったりもするんですが(笑)」
 
−−それくらいやりにくかったということなんですね。

「赤塚先生のときも、娘さんが見に来られて緊張しましたね。実在の人を演じるというのは、毎回違った汗が出てきます。自分ではオッケーなんて出せないですね。どこか開き直らなきゃとは思うんですけど、監督がオッケーと言ってくれて、始めて安心するといった感じですね」

−−映画を観ている分には、水橋さんはしっかりとその世界に入り込んでいたように感じたので、意外ですね。

「だいたいが悩んだりしない方なんですけど、この作品は入る前に非常に悩んだので、今は“やって良かった”じゃなくて、“やれて良かった”という気持ちが強いですね」

 
 

執筆者

壬生智裕

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