2009年6月に閉幕したショートショートフィルムフェスティバル&アジア2009に卒業制作『Half Kenneth/ハーフケニス』を出品し、ジャパン部門優秀賞を受賞した米在住新進気鋭の若手映画監督。

高校卒業後映画監督になるべく渡米し、ジョージ・ルーカスやロバート・ゼメキスといった巨匠を輩出した南カルフォルニア大学(USC)映画製作学科に4000人の応募者の中から50名の合格者に選ばれる。
同大学を卒業後、権威あるアメリカ映画協会付属大学院(AFI)に平均年齢29歳の中、監督学科の合格者28名に日本人留学生として弱冠23歳で選ばれるという異例の経歴の持ち主にして、さらには同校にて卒業制作を2本製作できる監督2名のうちの一人に選ばれる。卒業制作は、『ラッキーロータス』と『ハーフケニス』の短編映画2作品を監督。

受賞作のストーリー設定は第二次世界大戦中の1943年。ハーフの日系アメリカ人のケンとジョーは、カルフォルニア州の強制収容所で日本人の父親を亡くした。ハーフであるが故に、外の世界にも収容所にもなじめない孤独な二人は、収容所を脱走し、白人の母が住む実家に旅に出る。

今夏、米テキサス州及びカリフォルニア州にて行われる映画祭にも本作の出品が既に決定しており、今後は学校などを含めた色々な所で上映していきたいと意気込んだ様子。
目指すは“世界平和”という壮大な目標を据えながらも、点と点が線に繋がるような小さな出会いを大切にしていきたい、と語る落合監督。 言葉の節々にも感謝の気持ちを忘れない、そんな心象が窺えた。
各方面から期待や賞賛の声が上がる、前途洋々な若手監督に1時間半にわたりお話を伺った。

































—ショートショートフィルムフェスティバル&アジア2009(以下SSFF)ジャパン部門優秀賞受賞おめでとうございます。受賞作『Half Kenneth/ハーフケニス』はAmerican Film Institute(アメリカ映画協会付属大学院: 以下AFI)の卒業制作の一つということですが、着想はどこから得られたのですか?

「有難うございます。他の監督の作品が凄いっていうのは色々聞いていて、まさか賞を頂けるとは思わなかったので、もう身に余る光栄で・・。
元々はプロデューサーの兼原の方から日系アメリカ人強制収容所を題材にしてやらないかと持ちかけられて、当初は日系アメリカ人の宮武東洋(みやたけとうよう)さんという、アメリカのマンザナ収容所という日系人収容所にカメラを忍び込ませて盗撮みたいな形で撮影して記録を残したすごく有名なカメラマンがいて、彼についてやろうとしてたんです。でも最終的には、僕がどうしてもハーフの話をやりたいってことになって、紆余曲折を経て『Half Kenneth/ハーフケニス』が出来上がったというわけです」

—“ハーフ”という設定にこだわった理由は何ですか?

「元々日系アメリカ人の方々には、日本人かアメリカ人かという葛藤がものすごく大きいんですよ。特にその強制収容所で、アメリカ人なのに入れられたという気持ちが強い方は沢山いらっしゃるので、そういう葛藤を中心とした映画はものすごくいっぱいあるんですね。映像としてその大きな葛藤を実際に目で見れるのは、やっぱり日本人と白人のハーフの子供がものすごく表に出ると思ったんです。
でもその葛藤を全面的に押し出さずに目で見れる、という意味でハーフなんですよ。あと、強制収容所には実際に日本人と白人の方がいて、白人の方は基本的に強制収容所に行くかどうかを選べるんです。選んだ方もいますし、2〜3人といった少ない中で選ばなかった人もいるんですよ。そんな中ハーフの孤児が孤児院にいたっていう話もあって、そういう話をちょっとずつまとめて。
また僕の知り合いでハーフの子がいて、両親は離婚したのですが母親はその子のことを好きになれなかったんです。ていうのは、アジア人の血は白人よりも濃いから自分の子供が全く自分に似てない、どちらかというとアジア系の顔になってしまうじゃないですか。そういう理由があって好きになってくれなかったっていう話を聞いてすごくショックだったんですね。それでそういった要素も混ぜてみようと思ったんです」

—子役の二人はどういった経緯でキャスティングされたのですか?

「『硫黄島からの手紙』のキャスティングアソシエートの方にお手伝い頂きながら、向こうで映像作家の勉強をしている大学生を沢山集めて製作チームを作って、その中のキャスティングチームの方々で日本人向けのマーケットに広告を貼って頂いたんですね。それで、ちょうどその子達のお母さんがたまたまお豆腐を買いに来てたときに見つけたっていう、本当に偶然で(笑)。
最終的に100人以上は見たんですけど、やっぱり彼らが群を抜いていて、彼らしかいないなって。彼ら自身映画が初めてで、色々気を遣うところはあったんですけど、一番大変なのは子役の中でも演技経験がある子供達なんですよ。そういう子供たちって結構演技しすぎちゃって大変で、逆に全く知らない素人の方が結構すんなり演じてくれるというか・・。撮影に関しては、彼らがすんなり受け入れられるように初めから順序に沿って撮影するよう意識しました。
本当に子役に恵まれて、僕自身弟が欲しいと思っていたので一緒に映画にいったり遊んだりして、僕と彼らの信頼関係を築いていったことで、最後には本当の弟のような存在になりましたね。今でも使ってるんですけど、弟のHunter君が撮影最終日に手作りのお財布をくれて。オンラインで調べてくれたガムテープの特別なお財布なんですけど、もう涙涙の・・・」

—運命的な出会いですね。

「今回のSSFFでも実は運命的な出会いがあって、別所哲也さんの本を読ませて頂いて知ったんですが、元々別所さんが本映画祭を立ち上げた理由っていうのは、日系アメリカ人でアカデミー賞短編部門を受賞された、『ビザと美徳』のクリス・タシマさんという監督がいて、その作品とジョージ・ルーカスの短編映画を上映したいと思われたのがきっかけらしいんですよ。
そこで製作されたDVDを僕はショートショートと知らずに偶然借りて観て、そこでクリス・タシマさんを知ったことがきっかけで、彼の監督作品“Day of Independence”で、1日だけプロダクション・アシスタントとして一緒にお仕事させて頂く機会があって。
そこから今回の『ハーフケニス』でクリスさんに出演いただくことに繋がったという。またその『ハーフケニス』の日本プレミアをこのショートショートで出来るっていうのも、僕にとって意義のある、色んな意味で運命的な形になったかなと思いますね。
本当に幸運というか、一つ一つの出会いが大きくなったという意味では、運命を感じざる負えないというか。クリスさんは日系アメリカ人の監督/俳優さんなんですけど、彼の存在感はすごく強いものがあって、『ハーフケニス』のレベルを一個上げて頂いたように思います」

—AFIでの映画制作について教えてください。

「AFIは2年生の大学院で、監督・製作・脚本・撮影監督・美術監督・編集の6つの学科に分かれています。最初の1年でその6部門から1人ずつのチームを作って、3本の映画を作るんですけど、その3本を製作していく中で誰と仕事がしたいか、どういう人が才能があるかを知っていくんです。まず2年目の初めに選考審査があってひどい時は監督半分くらい切られたりするんですけど、今年は4人しか切られず監督が全部で26人になり、そのうち卒業制作の2本目を監督できる人が2人選ばれるんですけど、たまたま僕が1本監督した後そのうちの1人に選ばれて、『ハーフケニス』をやることになりました」

—卒業制作の製作資金はどのように調達するのですか?

「学校側から資金は頂けるんですが、それ以上は自分達で集めなければいけません。基本的にお金を工面するのは監督とプロデューサーで、全く知らない企業を回って自分でビジネス提案をしにいくんですけど、自己アピールやプロモーションの仕方、自分の売り方というのも学んで、しかもそれを学んだ上にお金を頂いて・・。お金を頂くってことは興味を持ってもらうってことじゃないですか。
それは観客が一人増えるってことで、その観客がまた1人観客を呼んでっていう意味ではものすごく大変ですけど、実りのある作業ですごく勉強になりましたね。僕の場合『ラッキーロータス』と『ハーフケニス』の2本製作して、2本とも資金を集めなきゃいけなかったんですけど、その中で本当に嬉しかったのは友達からのサポートですね。
幼稚園から始まって小学校・中学校時代の僕の知人・友人に142通くらい手紙を書いたんです。結構情熱を込めて手紙を書いたら、「アメリカで頑張ってるから、じゃあ1万円」っていう感じで、そういう1万円がものすごく大きくなっていって。1万円っていうお金だけじゃなくて、その気持ちというか励ましが有難いなぁと。今回こういう形で賞を取れて、お返しできるというか」

—撮影時のエピソードを教えてください。

「子役のお兄さん役の子が撮影した頃変声期だったんですよ。撮影が終わって台詞を何個か吹き替えなきゃいけないところがあったんですけど、声が僕みたいになってて(笑)2人ともコーラス団に所属してるんですけど、元々ソプラノだったのが今はテナーとかになってて、今2人の声聞いたらビックリしますよ」

—今回戦争が背景となっていますが、この短編映画を通して何を伝えたかったですか?

「押し付けがましくメッセージを映画で出すのは好きじゃないんですけど、物語の中でそういった背景があると、映画を通して僕と同じ世代または僕より若い世代の人達に、歴史に関して少しでも興味をもってもらえたらという想いをこめて作りました。
僕自身最初は強制収容所の歴史云々に関して知らなかったので、生存者の方々にインタビューをしたり色んな大学の図書館でリサーチをしました。その際僕と日系アメリカ人の方達との共通点を見つけたんです。高校卒業して映画監督を目指してアメリカに行ったんですけど、日系アメリカ人の方達も夢と希望を持ってアメリカで頑張っていきたいと思って移住されたじゃないですか。
120年前に移民をして以来人種差別とかに負けないように頑張ってきたのに、戦争が始まりスパイかもしれないという理由で手荷物だけで強制収容所に送られたんですよ。
終わって帰ってきたら、『ハーフケニス』のエンディングのように家には全てが無くなってて、ゼロから始めて。戦後60年以上経っていますが、世界中の移民の中でも日系アメリカ人はものすごく成功した例のうちの一つと言われているんです。
僕ら日本人の特に若い世代っていうのは、知らず知らずのうちに彼らが築き上げた歴史っていうのを受け継いでいますよね。
僕らが外国に行ったときに日本人の良いイメージを持っているっていうのは、僕らの上の世代の日本人の方々や日系アメリカ人の方々がずっと築き上げてきた、強い意志だとか忍耐力だとか勤勉さだったりで、良い意味でも悪い意味でもそういう彼らが築き上げてきたイメージや歴史というのを僕は映画を通して次の世代に伝えていきたいと思いました」

—反戦を強く謳っているわけではないですが、子役を起用することによって日系アメリカ人の歴史をあの短い中に自然な形で理解できる作品になっていると思います。

「僕にとっては“成長”っていう話でもあるんですよ。(作中の)柱の傷にしても、彼らが帰ってくるまでの2年の間で彼ら自身は成長してて、ある意味でお母さんが二度と知ることの無い成長であって、思春期の子供達が戦争という極限状態において成長しなければいけない瞬間というか。
母親を探して、自分のルーツを探していく旅の中で成長しなきゃいけない状況。そして自分に残されたのは弟ひとりであって、その弟に対する責任感の芽生え。今まではお父さんがいなくなったからお母さんに会いに行けばどうにかしてくれる、弟をかばうっていうよりは自分も甘えたいっていう状況の中で、今度は甘えられる立場に気づいての責任感というか」

—もう一つの卒業制作『ラッキーロータス』はベトナム系アメリカ人を取り上げ、“異国の地で奮闘する移民“といった観点で『ハーフケニス』とテーマが似ていると思いますが、そういった境遇やテーマに何か訴えるものが
あるのでしょうか?

「僕自身同じ状況にいて、7年前に渡米したときはアジア人だとか、日本人、日本語の作品から離れていこうと思ってたんですよ。
なるべく日本人監督ではなくて、監督としてアメリカでやっていきたいなと思って。ただ2〜3年くらい前から、こういった物話を伝えていきたいなというのがあって。世界平和というのはテーマ的には大きいんですが、世界平和って基本的に家族平和から始まるわけじゃないですか。
そういう小さいレベルで、個人個人同士の繋がりを強めていって、最終的には大きくなってくというのが僕の中で根底的なテーマとしてありまして、映画の最初にはなかった人と人との繋がりが映画の最後には繋がりあって終わってるっていうのが色んな意味で成長というテーマなんだなと思って。元々スピルバーグの映画が好きで、彼の映画は日常生活の中で普通の人が非日常的な状
況に陥ったときにどうなるかっていうのがあって、ジョーズや他の大きな作品でもそうなんですけど、基本的には普通の人達なんです。『インディージョーンズ』とかを除くと(笑)。
その中で根底にあるのは、家族の大切さや繋がりといった共感できるテーマで、だから色んな人に親しまれてると思うんですよ。当たり前だと思っていたことが実は当たり前じゃなくて、母親の有難みであり、父親の有難みであり、兄貴がしてくれたことっていうのを僕自身アメリカに行って初めて気づいてから少しずつ繋がりが強くなって。映画を作り初めた当初の頃アクション系が多くて、アメリカに行ったら少しずつ変わってきたっていうのも僕の中での心の変化なんでしょうね」

—“成長”というテーマが普遍的なものとして作中で繋がってますよね。監督自身の成長、ということでもあるわけですよね。

「そうですね。僕自身映画って言うのは、その柱につけた傷みたく少しずつ伸びていってるものだと思うので、『ラッキーロータス』や『ハーフケニス』があって、次の作品ではちょっとでも成長できたらいいなと思いますね」

—12歳から映画制作をされていたそうですが、映画監督を志すきっかけは何でしたか?

「8歳の頃に友達と3人で初めて映画を観に行ったんですよ。夏の有名な映画で、親友と3人で一番前の列で初めて観た映画が『ジュラシックパーク』だったんです。
その時の恐竜を見たときの興奮が忘れられなくて、目の前で開いた口が塞がらない状態で観てました。エンディングでヘリコプターが夕日に向かって飛んでいく時に、“Directed by Steven Spielberg”っていう名前が出てきて、そこから少しずつ興味を持ち始めて。
たまたま中学校の文化祭で僕のクラスは映画をやることになって、で元々ちょっと仕切り屋っぽいところがあったと思うんですよね(笑)それでそのまま監督と脚本をやって、それが長編映画の初監督・脚本ですね。3人の強盗が中学校に立てこもって、人質とか色々要求してっていう感じの75分の作品だったんですけど(笑)」

—そこから継続的に映画を観続け、また製作も続けてこられたのですか?

「機会があれば友達とカメラを回して、といった感じだったので。今は呼吸じゃないですけど、アイデアを吸ったら映画が出てくるみたいな。しかも呼吸って意識しませんよね。意識もしないし、疲れもしないというか、本当にやってて自然なことというか。まぁ他に取柄がないですし、特に他に出来ることが無くて(笑)結構ひ弱なので、力仕事も出来ないですし(笑)」

—AFIをご卒業されたとのことですが、今現在はどういった活動をされているのですか。また次回作についてもお聞かせください。

「自分で製作した短編1本と、2本ミュージックビデオの撮影を控えていて、長編も今2本執筆中です。小さいプロジェクトを撮りながら監督としての腕を磨きつつ、最終的には長編の監督になっていきたいです。映画に拘らず、ウェブやモバイルコンテンツとかもあるのでそういったもので少しずつ映像を撮っていけたらと。
僕自身こだわりが無くて、映像の監督という意味ではやっぱり物語を伝えるということが僕にとって一番やりたいことなので。長編のうち一つは『ハーフケニス』でもう一つは『Summer 47』っていうんですけど、アメリカにいる白人、黒人、日本人、イタリア人の留学生と大学生が日本を3ヶ月かけて縦断するっていう話で、1都1道2府43県あわせて47で『Summer 47』。
愛あり友情ありおバカあり、という感じで(笑)。僕自身アメリカに行って初めて気づいた日本の良さをやっぱり向こうにいるとすごく意識して、アメリカに行った後初めて日本各地に国内旅行するようになったんですよ」

—『ハーフケニス』の脚本は共同脚本で書かれていますが、今執筆中の長編2本も共同脚本ですか?

「そうですね。『ハーフケニス』の長編版はまだ誰と書くかは決まってないですけど。自分ひとりで書いて監督しちゃうと、どうしても脚本のところで手を抜いちゃうことがあるんですよ。自分で分かってるからいいやって。
共同脚本の方がいると第3者の目で見てもらえるので、自分だけじゃなくて皆に分からせる意味で効果的ですし、脚本というレベルで作品がすごく充実すると思うんですよ」

—どういった映画作りを今後目指していらっしゃいますか?

「映画の歴史を学んで色んな映画監督の作品を観るのはやはり勉強になるので、時間さえあれば映画を観るようにはしてるんです。
でも吸収していくのは映画からだけじゃなくて、毎日こうしてお話をしていく中でも色々吸収できるものもあって、僕は基本的に映画っていうのはコミュニケーションの手段の一つだと思うんですよ。例えば、色んな言語でみんな「アイシテル」って言いますよね。
でも日本語で「愛してる」と言っても、相手が日本語を知らなければコミュニケーションにはなりません。どうすれば自分の気持ちが相手に伝わるか、というコミュニケーションの文法のようなものを勉強していく中で、アートの定義ってすごく沢山あるんですけど、僕にとってアートっていうのは自分の伝えたい気持ちを何かの形にして表して、誰かに見てもらうことなんです。自分に何か伝えたいことがある時、僕にとっては映画を通して相手に伝えていくのが一番自然というか。
1週間誰とも喋ってはいけない、という状況になったらものすごく辛いですよね。僕にとってそれは映画で、1年間も監督してないとさすがに辛いです・・。
不特定多数の人々とコミュニケーションができる、という意味では僕は映画が一番しっくりきますし、一番早く世界平和に繋がる、というか(笑)。
愛と平和は、誰にでも言われることですけど、愛っていうのは誰かをやさしく包んであげることで、平和っていうのはそれを邪魔しない、というか全員が全員できるようにしてあげる、という意味で、そういったことを映画にも反映させていきたいんですけど、やっぱり自分が出るじゃないですか。人それぞれ表現方法は違いますからね」

執筆者

Inoue Midori

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