中国映画界の重鎮、シェ・チン監督、『ヒマラヤ王子』の俊英監督、フー・シュエフォア監督インタビュー
1930年代の上海には、100を超える映画会社が存在し、年間100から200本もの映画が製作されたという。「中国映画発祥の地」とも、「東洋のハリウッド」とも呼ばれていた中国の上海。
1972年の日中国交正常化から来年は早くも35周年。新宿のテアトルタイムズスクエアで、12月16日から12/22まで『中国☆上海映画祭』が開催されている。本映画祭では、中国の黒澤明と呼ばれ、中国映画史上でも屈指の傑作とも呼ばれる『芙蓉鎮』や、スタンリー・クワンの新作『長恨歌』など、中国を代表する映画会社「上海電影集団公司」が製作した作品を中心に上映されている。
そこで今回は、映画祭オープニングイベントのために来日した中国映画界の重鎮、シェ・チン監督と、『ヒマラヤ王子』の俊英監督、フー・シュエフォア監督に他媒体と合同インタビューという形でお話を伺うことになった。
シェ監督は御年83歳! しかし、会議室中に響き渡る大きな声でパワフルに話し続ける監督の姿からは、年齢のことなどみじんも感じさせない。
一方のフー監督は、上海戯劇学院の教授という肩書きを持つだけあって、落ち着いた雰囲気。巨匠が隣に座るため、「少し話がしづらいな。小さいころからシェ監督の映画が好きで、影響も受けてきたわけだし」などと苦笑しつつも、堂々とした受け答えぶりだった。
が…。ふたりとも話を始めたら、もう止まらない! 45分のインタビュー時間で、こちらが投げかけた質問はたったの3問。これは、集まった半分以上の取材陣が質問も出来ずに時間切れになってしまったということ。こういう状況というのもなかなか珍しいが、それだけこの2人の熱い思いが伝わったのも事実だ。読みやすくするために語彙を変えたり、削った部分も多少あるが、そういった部分も踏まえつつ、このインタビューを楽しんでいただけたらと思う。
最初はフー監督に、映画祭上映作品である『ヒマラヤ王子』に関する質問を。『ヒマラヤ王子』は、広大なチベットの自然を舞台に、古代ヒマラヤ王室に生まれた王子の恋模様をシェークスピア復讐劇として描き出した「シェークスピア・ミーツ・チベット」的巨編である。
ーー この映画でチベットの俳優を使い、チベットを舞台にした狙いは何でしょう?
フー・シュエフォア:アメリカから中国に戻って初めての映画作品が今回の『ヒマラヤ王子』なんです。
昔から『ハムレット』に興味がありましたし、すごくやりたかったんです。「生きるべきか死ぬべきか」という有名な台詞をやってみたかった。それがきっかけですね。
チベット民族は素晴らしい民族です。中国にはいろんな民族がいますが、彼らは人類の原点を保ったままで生きている民族だと思います。物に対する欲求はあまり高くないが、精神世界に対する欲求は非常に高い。今の世界は物よりも精神を求めた方がいいということがあります。
今回の作品の中では、『ハムレット』における復讐するという部分は弱くしました。それよりかは、愛情、家族愛、人類愛といった部分を強くしました。シェイクスピアの文化を保ちながら、チベットの文化をいれたというわけです。また、私自身の映画に対する考えもいれました。
『ヒマラヤ王子』の主演は素人だったプー・パージャを抜擢。映画デビュー作とは思えない演技を見せる。
ーー プー・バージャさんを主演に起用するきっかけは何だったのでしょうか? また彼の学費など、勉強の面でも世話をしていたそうですが、どのようにして、そういうことになったのでしょうか?
フー:今回の映画では、最初からチベット俳優を使いたいと思っていました。チベット族俳優を使った映画は56年に「奴隷」という映画がありましたが、それ以来初のことです。
チベット族の俳優を探すとき、北京から上海、上海から成都まで、チベット族のいろんな俳優さんを面接したが、すごく難しかった。チベット族の俳優にこだわらずに、他の民族でもいいんじゃないか、と言われたんですが、自分自身がチベット族の俳優を使って映画を撮りたかったので、そこだけは譲れませんでした。
プー・パージャさんと会ったのは本当に偶然なんですが、成都の九寨溝にいた時でした。次の日が上海に戻るはずだったんですが、11時になって、九寨溝の文化局の局長に薦められて、カラオケ屋みたいな歌を歌う場所に連れてきてもらったんです。そこでもう一回適切な人材がいないか探してみました。
そのとき、プー・パージャさんと若いかっこいいチベット族の人がいたんですが、そのふたりが素質がありそうだなと思ったんです。一度、芝居のテストをやってもらったんですが、プー・パージャさんが一生懸命で真面目にやっているのが良かったんですね。
次にカメラの前で芝居をしてもらったんですが、やっぱり素質、才能が溢れていて。2005年の7月12日の自分の日記の中で、チベット族の若い人を発見した! と書いたのを覚えています。プー・パージャを発見したのは偶然でしたが、神のご加護があったのかもしれませんね。
10日くらいしてから、成都まで、特訓をしに来てくださいと彼に電話をしました。当時、プー・パージャさんは自分が主演になるなんて全然考えていなかったでしょう。他の俳優さんたちもいっぱいいる中でとりあえず特訓をしてもらいました。2ヵ月後、特訓の成果で誰がどの役をやるのかを決めました。2ヶ月の特訓で、パージャさんの素質を見極めた上で、今回の主役に抜擢したというわけです。
プー・バージャは1985年7月8日生まれ。父母ともに牧民で、山の中で暮らす生活を送っていた。次世代の男性スターを発掘する中国版「スター誕生」ともいえる大人気のテレビ番組『加油、好男児(頑張れ!いい男)』でグランプリを獲得し、注目を集めた。そして、その彼を後押ししていたのはフー監督だった。
フー:映画の撮影が終わって、上映までに1年の間が開いてしまいました。その間、何もやることがないので、どうしようかなと気になっていました。ところが、彼が勉強がしたいと言ったわけなんです。私は上海の学校で教授をしているので、学校に電話をしてみたら、特別にチベットクラスに入学させてもらえることになったわけです。彼自身もすごく努力をして、勉強をしていましたね。入学した2、3ヶ月後に、『加油、好男児(頑張れ!いい男)』から出演してみないかと声をかけられたんです。
そのとき、「出た方がいいでしょうか」と私に相談されたんです。だから私は、「それはひとつのチャンスだから、あまり優勝しようとかは考えずに、やれるところまでやってみたら」と激励をしました。
ちょうどその途中、プー・パージャの誕生日に試合を観に行きました。トップ3に残ったときに、もしかしたらいけるかもしれないぞ、と思いましたが、予想通り彼が全国優勝を果たしました。ちょうどその1ヵ月後が『ヒマラヤ王子』の上映日でしたね。
優勝した直後に映画を撮影して、その1ヵ月後に急いで映画を出したと思った人もいたようですが、実際は1年前に撮影していたわけなんですよね。
ーー それではシェ監督にお伺いします。今回の映画祭では、『芙蓉鎮』が再上映されますが、この作品を現代に上映する意義を教えてください。
シェ・チン:『芙蓉鎮』は文化大革命を描いた映画です。文革は中国人にとって、非常に災難な時期であり、中国人を語る際に描かなければいけない題材です。また、自分にはその義務があると思っています。だからこそ、文革を描いた映画も何本か撮りました。去年は中国映画100周年記念でした。100本の中に自分の映画が8本がノミネートされて、『芙蓉鎮』が、観客の一番好きな映画に選ばれました。幸いにも中国でみんなに認めてもらうことができました。
私は80年代から何回も日本に来ました。去年も来ましたが、それは映画関係ではなく、別の仕事でした。一番残念なのは、高倉健さんと仕事をする機会がなかったことですが、逆に栗原小巻さんと山田洋次さんと仕事をしたために、深い友情が生まれました。
一時期、日本と中国が経済面で交流をしていない時期が四年くらいあって、中国と日本の映画人の交流が途絶てしまって残念に思っていたのですが、また最近、交流が復活してきたので、すごく嬉しく思っています。
日中映画人の交流をしなければならない、とものすごい迫力で強く訴えかけるシェ監督。通訳が訳そうとすると、それを制して切々と訴えかける。時には机をドンドンッと叩き、興奮している様子がこちらにも伝わってくる。思えば、『芙蓉鎮』も怒りに満ちた映画だった。時代に対する怒り、庶民を苦しめる政治に対する怒り。やはりこの人はあの『芙蓉鎮』の監督なんだなぁ、と妙なところで納得してしまった。
シェ: ですから今回、上海映画集団代表として参加できて、非常に嬉しく思います。これからも、どんどんどんどん交流を深めていきたいと思います。日本に来れば、昔の友だちにも会えますからね。ただ、残念なのは、たくさんの友人たちがすでに亡くなられているということですが。
何年か前に、天皇陛下が中国を訪問しました。その時、陛下は中国の作品も観てくださったので、それはすごく光栄なことでした。私も陛下にお会いする機会があって、そのとき、「なぜ日本の映画が中国で上映されていないのですか? すごく残念です。両方とも東アジアの民族なので、経済以外での交流をもっと深く深くしなければいけないのではないか」と言ったわけです。
中国と日本は経済だけでなく、東アジアの同士として、文化の交流をしなくてはなりません。50年代には中国との交流もたくさんありましたが、今は少なくなってきました。芝居だと、言葉の問題とかがありますけども、映画は一番簡単に交流できる手段だと思います。これからの日中交流をますます深めていきたいですね。
1950年代に、日本には優秀な映画監督、俳優がたくさんいて、いい映画がたくさんありました。やっぱり戦後の苦難をのりこえて、監督たちもそういう時代を体験したからこそ、たくさん質のいい映画が撮れたのでしょう。私もそういう映画が撮りたいと思ってきました。日本でも『二十四の瞳』という素晴らしい映画がありました。そういう映画が観たいですね。若い人たちにたくさん観てもらえるような映画を作ってもらいたいです。
戦時中は、日本の国民もたくさんの災難にあいました。若い人たちも戦争で戦いました。それを映画の中で描いたわけです。だが、今の映画人はその体験は少ない。今の映画人に、当時の気質があるのかどうかは、少し疑問を持っております。映画で一番大切なのは文化です。文化の質が良くなければいい作品はできないのです。
執筆者
壬生智裕