9.11テロの1年後、クリスチャン・ジョンストンら5人のアメリカ人フィルムメーカーが紛争真っ只中のアフガニスタンで撮影を敢行した。

映画のあらすじは予め作られていたが、映画に登場するのは、本物の銃、本物の賞金ハンター、本物の武器ディーラー、本物のインタビュー。
主演俳優が決められたセリフをしゃべったとしても、相手がどう返してくるかはわからない。ただスタッフができることは、如何なる状況でもカメラを回し続けること——

情勢の不安定なアフガニスタンで、無謀ともいえるこの撮影を可能となったのは、ハリウッドで唯一のアフガン系アメリカ人で、今作でプロデューサー兼俳優をしているワリ・ラザキ氏の存在があったからといえる。

ドキュメンタリーとフィクションをあわせた手法で撮影された『セプテンバー・テープ』。
この日本公開に合わせて来日した、クリスチャン・ジョンストン監督、ワリ・ラザキプロデューサーに映画が撮影された背景を語ってもらった。






— ジョンストン監督とラザキプロデューサーが知り合ったきっかけは。

ジョンストン監督「9・11の前にある映画で一緒に仕事をして、9・11が起きてから、9・11について何か一緒に映画を撮れないかということで一緒に映画を撮りました。」

— 何故フィクションとノンフィクションが入り混じったものにしたのですか。

監督「同じような映画で、『アルジェの戦い』という作品があります。それもストーリーがあって実際の戦時下で撮っています。現状を使いつつ、それ以外のものを語ることができればと思いました。実際に現場がどうなっているのか状況が分からなかったので、あまり詳しく予定を立てることは出来ませんでした。」

—— 監督はノンフィクションも撮っていますが、何故フィクションを含めたものを撮ったのでしょうか。

監督「私はドキュメンタリーも撮ってきましたが、ドキュメンタリーといっても全て自然のものを撮っているわけではなく、撮りたいことの為に演出していることもありますし、『セプテンバー・テープ』以上に演出されているドキュメンタリーもあります。自分達がこの作品を撮っている時、アメリカにはドキュメンタリーを観る人はあまりいませんでした。なので、フィクションを入れたことで、観客数を増やし、ドキュメンタリーを観ない人にもアフガニスタンの現状を観てもらうことが出来たと思います。2001年以降アフガニスタンをこのような形で撮ったものはなく、サンダンス映画祭では特別にパネルディスカッションの場が設けられ、自分たちの撮影の手法について話しました。」

—— 当時のアフガニスタンは危険な状態だったと思いますが、行くことに対する恐怖はありませんでしたか。

ラザキ「アフガニスタンは私の出身地なので、私が皆より一週間先に行って下準備をしました。クルーが来る前の日に、200M 程離れた所で副大統領が暗殺されました。当時は、政府関係者以外はアフガニスタンには入ることが出来ませんでした。なので、最初から大変な状況だということは分かっていました。」

—— 行く時に家族には話していなかったそうですが、家族が知った時はどうでしたか。

ラザキ「私は結婚していたので、あまり行きたくなかったのですが(笑)、監督は『君のところはまだ子供がいないからいいじゃないか』と言いました。(笑)私は現地で親戚に会う必要があったので家族に話をしました。カブールに入って一週間位たった時にコミュニケーションの手段が遮断されてしまう時がありましたが、国連の関係者の義理の兄のつてで国連の施設に入れてもらって、一日20分家族と連絡を取ることが出来ました。」

監督「映画を観せるまでは家族には言いませんでした。」

—— 話した時の反応は。

監督「父親はベトナムに行ったことがあったので、最初は、危険な場所へ命を懸けて行ったことを理解できなかったようですが、サンダンス映画祭で作品が上映された時に、私たちが行ったことの意味を理解してくれたようでした。」

—— サンダンス映画祭での反応はどうでしたか。

ラザキ「反応は凄く良かったです。上映後、タイムマガジンの記者が、多くの人が死んだと思って震えながらずっと煙草を吸っていました。映画人からは色んな反応がありました。典型的な映画ではないので、私が本当に撃たれたと思って『傷跡を見せて』と言う人もいたし、映画を観て泣き出す人や怒る人もいました。ロビーやエレベーターで、この映画について話している人をよく見かけました。有名人が出ていないにもかかわらず早めに作品が売れたので、ビジネス的にも成功したと思います。」

—— 映画が上映される時にフィクションが含まれていることは周知されてましたか。

ラザキ「映画祭はドキュメンタリー部門ではなかったので、皆フィクションだと知っていたと思いますが、アメリカではノンフィクションの部分を強調していたので、フィクションが入っていることは知らない人もいたようです。アメリカでは『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』のように売ろうという動きがありましたが、これはホラー映画ではなく、政治的な影響力やアフガニスタンについての重要な情報もあったので、変に仕掛けると作品としての信頼性が損なわれると思いました。でも、自分たちのコントロールの出来ない部分で色々なことがあり、事実だという噂もたちました。」

—— アフガニスタンの人達にはストーリがあることは伝えていなかったようですが、撮影に協力してくれた現地の人にはどのように説明したのでしょうか。

ラザキ「彼らにとっては映画作り自体が新しい概念であり、ドキュメンタリーとフィクションが混ざっていることを説明するのは困難でした。私達は、現地でキーとなる一人にやりたいことを伝え、現地の人にはその人から説明して貰いました。なので、私達は具体的に現地の人がどのような説明をされたかは知りません。私が思うに、アフガニスタンの人は、このチャンスを利用して、25年間戦争をしてきてどれだけ凄まじい状況であるのかを見せたのだと思います。私達は彼らに細かな演出はできず、彼らは言いたいことを言っていました。だからこそ、この映画はリアリティのあるものになったと思います。例えば、主人公が逮捕されるシーンでは、警察に“逮捕されるシーンを撮りたい”とは伝えましたが、いつどのように行われるかは分かりませんでした。アフガニスタン人を騙して撮ったという映画関係者もいましたが、メイキングを観てもらえれば分かりますが、実際は彼らの方が私たちをコントロールしているような状況でした。北部同盟の人達は25年間戦争をし続けており、向こう見ずな所があり、勝手なことをするので我々が危険な目に合うことも多くありました。」

—— 命懸けで製作されたこの作品ですが、この映画を撮ったことで得たものはありますか。

ラザキ「私はアフガニスタン出身ですが、生後9ヶ月で渡米していたので、この映画を通じて故郷を知ることができました。テロから間もないアフガニスタンの状況を伝えられたのも良かったと思います。あれからアフガニスタンの状況は大分良くなって、現在は母と弟はアフガニスタンで生活しています。私の妻は白人ですが、今なら妻が行っても平気だと思います。それと、この映画は世界中で上映され、映画を作ったのは2002年ですが、4年たった今でも、大きな都市に行くと、『アフガニスタンの映画の人だよね』と呼び止められることもあり、自分にとって大きな意味のある作品となりました。」

監督「9・11に触発されて撮ったビンラディンを追った作品ですが、5年経った今でもバックアップなしであそこまでビンラディンに近づいたジャーナリストはいません。そして、まさか自分がそういう立場になるとは思ってもいませんでした。今でもビンラディンのことは話されますが、アルカイダやビンラディンについて作られた映画がないことを不思議に思います。」

—— この作品は主人公の個人的な復讐を描いたものですが、映画を通じて、または個人的に考える平和とはどのようなものですか。

監督「この映画のメッセージが伝わったと思うエピソードがあります。私の知り合いの子で、銃殺シーンのあるゲームや映画が大好きな16歳の男の子がいたのですが、その子がこの映画を観て、自分が持っていたゲームやビデオ、おもちゃを全部処分したそうです。この子は映画を通じて、暴力は友達や親を失う怖いものだと気付いたのでしょう。この映画は戦争を美化せず、どういうものかを伝えることができたと思います。」

ラザキ「私達は主人公に、無知だけど情熱のあるアメリカ人を代表させました。私が演じたワリは“アメリカが攻撃されたのは、理由があったのではないか”という多くのアメリカ人が聴きたくないことを言っています。個人的には、戦争は感情や情熱以外の部分で考えなければいけないものだと思います。何故攻撃されたのかは必ず理由があるはず。私はアメリカが自由だから攻撃されたのだとは思いません。この映画が、アメリカが攻撃された理由を話すきっかけになればと思います。」

執筆者

t.suzuki

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『セプテンバー・テープ』公式サイト

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