『かつて、ノルマンディーで』『動物、動物たち』ニコラ・フィリベール監督インタビュー
『パリ・ルーヴル美術館の秘密』『ぼくの好きな先生』の世界的大ヒットで知られるニコラ・フィリベールは現代ドキュメンタリー作家の最高峰の一人であり、彼の視線は、常に観る者の好奇心や驚きを意識し、余すところなく満足させているように思う。長年来のプロデューサー、セルジュ・ラルーはニコラを《正しい距離》、すなわち“正しい”、“ほど良い”、“美しい”ドキュメンタリー作家と呼ぶ。
『かつて、ノルマンディーで』は『ぼくの好きな先生』の記録的な大ヒットの後、4年の沈黙を破って発表した最新作。30年前に撮影されたルネ・アリオ監督の映画で、初めてニコラは助監督として大きな仕事を受け持った。実際の事件とミシェル・フーコーのテキストを元に、主要な登場人物すべてを地元の農民たちが演じた意欲作であった。今、ニコラは再び舞台であったノルマンディーを訪れ、映画に出演した人々を訪ねる。そこには懐かしい思い出や日々の暮らしがあった。昨年のカンヌ映画祭で「最も光り輝く隕石」とル・モンド紙に絶賛された大注目作。
日本初公開の『動物、動物たち』は四半世紀半ものあいだ閉鎖になっていた自然史博物館の動物学ギャラリーがようやく改修の運びになり、その空間構成の仕事がルネ・アリオ監督に持ち込まれたことがきっかけで映画化された。『パリ・ルーヴル美術館の秘密』での探検の経験を経て、動物界の多様性を讃える讃歌を奏でることが任務だったというニコラは、生命の起源以来の地質時代あるいは何十億年もの悠久の時に対し、我らの歴史はあまりにも短いということを、物好きで空想好きなシネアストの侵入者の視線から見つめている。
—ドキュメンタリーを監督するにあたって入念な準備をするのでしょうか?
あまり、撮影の前に被写体と入念な準備をすることはしない。『かつて、ノルマンディーで』の場合、事前に出演者に会いに行ったが、カメラを回すときにしたい核心的な質問は自発性をキープするために、あえてしなかったんだ。繰り返すとクオリティが劣ってしまうのは当然だし、私は映画を撮るときにテーマや対象について、知らなければ知らないほど良いものができると思っている。1つ例をあけると『音のない世界で』という作品では聴覚障害の人々を扱っているが、障害について専門家の話は聞かなかった。それは、純粋無垢かつ繊細な視点を持ち、理解しよう、学ぼうという気持ちで臨みたかったからなんだ。
—監督自身の経験に基づくという意味でこれまでの作品と作風が変わっていると思いましたが、これまでとアプローチや撮りかたを変えた部分はありましたか?
実は撮影の仕方にほとんど違いはないんだ。違う印象を持ったのだとすれば、幾枝もの多様性を持ち、色んな紆余曲折をしているというところだ。アーカイブや抜粋や風景や手記の読み上げなどを駆使したいと思った。フーコーの作品があり、19世紀の犯罪があり、いくつも重なっている作品にしたいと思った。形式的に今までは1つの場所に枠組みがあった。今回はその枠組みを取っ払って開放的にした。そこが今まで無かったことで新しいことかもしれない。
—核に監督の父親の存在があったと思いますが、それは最初の構想からあったのでしょうか、それとも途中から出てきたのでしょうか?
もちろん父親の存在も大切で父のシーンを入れたいという思いは初めからあったが、それだけの理由ではない。一度は頓挫しかけたノルマンディーでのアドベンチャーに帰ることが大切だったんだ。シネアストとしてのキャリアのルーツに立ち返りたいという想いが自然に芽生えてきた。あの時、集団の体験でいろんなジャンルの人々が集結した。パリや農村の人、つまり映画業界人のミクロコスモスがあるようなイメージではなくて、映画作りは誰でも演じることが可能だということを伝えたかった。映画作りという体験は人生に痕跡を残し、時にその人の道を変えるかもしれない。特にアニックは自分自身を考えるきっかけとなった。映画というものはアイディアを豊かにするものだということを映画で語りたかった。共同の体験であるし、粘り強くならなければならないし、記憶を構築する作業でもある。色々な側面から描きたいと思ったんだ。
—過去の監督自身を振り返る一本の映画『私、ピエール・リヴィエールは母と妹と弟を殺害した』が、あまり多くの人に認知されていないかもしれないということに対して恐怖感は無かったのですか?
この映画『私、ピエール・リヴィエールは母と妹と弟を殺害した』を中心に1つの映画を作ることは1つの挑戦だったといえる。シネフィルでもスペシャリストでもない人たち(この映画を見ていない、あるいは本も読んでいない、ルネ・アリオ監督のことを全く知らない人たち)みんなに理解してもらえることが私にとっての挑戦だったと思う。でも私が考えるには、多分この映画を見ていない人のほうが、もっとミステリアスで興味をそそられるのではないかと思う。この映画に出てくる人たちが皆「素晴らしい体験だ」と語るわけだからね。見ていない観客の頭の中で想像がより膨らむこともあると思うよ。
実はあの映画は、中心にあるようでいて口実でしかないとも言える。それは扉のような存在で、映画のこと、人生、記憶、時間、距離、共同経験、死、書く、話す、政治、欲望などの扉を開く作品だといえるんだ。
—ルネ・アリオ監督の作品に『Retour à Marseille』という作品がありますが、『Retour à Normandie』(かつて、ノルマンディーで)とタイトルが似ているのは偶然でしょうか?それともオマージュのような意味があるのでしょうか?
タイトルに関してルネ・アリオ監督へのオマージュの意味は無いよ。映画が出来上がり公開してから気付いたから、もう遅かったんだ(笑)。でも実際、ノルマンディーに帰還しているわけで、ブルターニュに帰っていたら『ブルターニュへの帰還』にしていたと思う。先ほども言ったように、シネフィルではなく一般の人に向けた作品だから、やっぱりタイトルはアクセスしやすくて理解しやすいものでなければいけないと思っているよ。
—『動物、動物たち』では剥製の目をじっくり取り上げ、『かつて、ノルマンディーで』では豚の生死を取り上げていますが、監督は生と死に魅せられている部分があるのでしょうか?
「死」そのものに魅せられていることはない。特に暗いイメージの死にはね。剥製は一見すると死のようなものを漂わせるかもしれないが、どちらかというとアイロニカルでポエティックな視線に惹かれているんだ。『かつて、ノルマンディーで』では日常に潜む厳しさや暴力性を描きたかった。豚を育てる彼らの日常にはきつい現実がある。私達は肉がどこから来ているか忘れがちだ。スーパーで売っている物はすでにパック包装された肉の切れ目なわけだから。そういう現実があるよね。子ども達は口にしているものがまるで分からない、牛乳はパックしか知らず、乳牛から来ていることを知らない。ああいうシーンを見せることで厳しい面を持っている職業だということを知らせたかったんだ。
執筆者
Miwako NIBE