第20回東京国際映画祭・単独インタビュー:『デンジャラス・パーキング』のピーター・ハウイット監督!
『スライディング・ドア』『ジョニー・イングリッシュ』で知られるイギリスの映画監督ピーター・ハウイットが、感銘を受けたスチュアート・ブラウンの同名小説を自ら脚色・主演して映画化。酒とドラッグに溺れ、ドン底まで堕ちたカルト映画の人気監督が自分の弱さを見つめ、再生をはかる姿を、CGを駆使しながら前半はハチャメチャなコメディとして、後半はシリアスなドラマとして撮り、感動巨編に仕上げて魅せたのが『デンジャラス・パーキング』だ。歴代英国映画トップテンに2作品がランクインした唯一の英国人監督にして性格俳優としての顔も持つハウイット氏に、今回の意欲作についての実に興味深い話を聞いた。
Q=映画の構成と同様に原作小説も時系列に並んでいないそうですね。映画の方は主人公のノア・アークライトのモノローグで進行しますが、原作も一人称で書かれた物語なのでしょうか?
A=その通り。原作本も主人公ノアの一人称で書かれていて、俺がどうしたとか、こうしたといったふうに、告白形式で描写されている。なので映画でも踏襲することにしたんだ。
Q=ご自身で脚本も書かれていますが、ストーリーの内容に関しては、どれほどのアレンジを施されているのでしょう。大幅に脚色したのですか? それとも原作にかなり忠実に描いたのですか?
A=ストーリーそのものは全く変えていない。映画は切り刻み方を変えただけさ。なので、ほぼ100%原作に忠実な映画と言っても過言じゃない。描写するシーンの順番を入れ変えはしたが、キャラクターの名前も、セリフの中に登場する俳優や、芸術家の名前などの固有名詞にいたるまで原作通りなんだ。ただし小説と映画の表現方法は異なるので、シーンの構成を解体して構築し直したってワケさ。僕は壊すのも好きだし、つなぎ直すのも好きだし、どちらも得意なんだよ(笑)。人間は自分の人生の思い出を語る時、誰も時系列の順番通りには話さないよね。例えば、20年前に起きたことを話していて、ある事を急に思い出し、話題があっちこっちに飛ぶなんてことはザラにあるだろう。それが人間ってもんなんだ。だから映画を観た観客が最終的に、主人公の人生はこうだったんだなと再構築できる形に整っていさえすれば問題はない。往々にして映画はワザワザ時系列に沿って描写しようするが、そんな必要性はこれっぽちも無いと思うよ。何故なら、人間自体がそんな風にはモノを考えないんだから。
Q=時系列通りに描いていない上に、さらに複雑な映像トリックを使っていますね。例えば、クレアとノアが初めてカフェで会うシーンです。ノアに声をかけるクレアの顔の側に、血を浴びたクレアの顔がうっすらと浮かび上がります。このように過去の出来事の描写の中に未来の出来事のショットを度々インサートとなさっていますが、その意図は?
A=クレアの血まみれの顔が浮かぶという描写は、もちろん原作にはない。それは僕がシネマティックな手法として加えた部分なんだ。この映画の中では色んなフラッシュバックを多用しているが、初対面のクレアの完璧で穏やかな顔の側に挿入した血まみれの顔のショットは、将来のクレアの顔、つまり、その時点ではフラッシュフィーチャーになる。この場面で僕は、ノアとクレアがお互いにどれほど一目惚れしたのか、どれほど固く結びついていくのかを示唆したいと思った。将来的にクレアは癌に冒されたノアの血を大量に浴びながらも怯まずに、彼を救おうと必死になるほど2人は固く結ばれていくんだというね。気付かれたように、このシーンの他にも何度か同様の手法を使用している。これは観客に、この先何が起きるかを予告するサインなんだ。特に理由はないんだが、面白いビジュアルのフラッシュで物語ってみたくてね。それが観客の心に残っていなくて構わないし、あれっ何だ、また出てきたなと思ってくれてもいい。何故なら、これはノアが墓の中から語りかけている物語なんだから。死んだ彼が自分の人生を振り返っているわけで、彼にとっては全てが“過去”のことになる。だからクレアとの出会いの思い出を語っている時に、搬送される救急車でクレアに見守られていた時のことを連想したってことさ。
Q=これまでにも嘔吐するシーンや小便をするシーンは、映画の中で多々描かれてきており、見慣れてもいるのですが、この映画では吐瀉物や便器の中身をかなり長時間にわたって映し出していますね。とても勇気のいるチャレンジングな描写だと思いますが、その意図は?
A=あくまでもリアルな物語に従って描いているからさ。それがノアの物語であり彼の生活の一部だったんだ。僕はグロテスクな描写を求めてもいないし、決してそれが好きな監督でもない。実際のところ、あれだけ酒を飲んでいる人間というのは、常に酩酊状態にある。朝起きても自分が誰のところで寝ていたのか判らないとか、血尿が出るなんてことは日常茶飯事なんだ。まさにビョーキだよね。スチュアート・ブラウンという人間がノアという主人公に託して自らの体験を描いた時の状況を観客に理解してもらうには、ノアの生活から目をそらさずに描き、それをそのまま観客に観てもらうことが大事だった。最も重要なことは包み隠さずに描写すること。砂糖をまぶしたりせずにね。死の床でこの本を書いた原作者は既に癌で亡くなっている。この作品を映画化するにあたっては、彼に対してできる限り誠実でありたかった。なのでスチュアート・ブラウンの体験をきっちりと描くことが僕の務めだった。それにね、原作には、そんな血だの小便だとかの汚い話がもっともっと、何ページにも渡って山のように書かれているんだよ。
Q=資料によると“撮影間近になってキャスティングに問題が生じたため、自分が主演することになった”とありますが、当初から主演しようとは思わなかったのですか?
A=そんな気は毛頭無く、成り行きで主演する羽目になったのさ(笑)。と言うのも、主演俳優が撮影の3週間前になって降板を申し出てきたんだ。実際のところ、きわどいセリフが多い映画なんだが、それを言いたくないという理由でね。それでも、その後の2週間は新たな俳優を一生懸命探した。撮影開始を1週間延ばすことにしてね。で、出演OKの返事をくれた俳優も何人かいたんだが、彼らの役の理解の仕方に納得がいかなくてね。この役をそんなふうには演じて欲しくないなって思っていうるちに、家族やら友人やら周囲の人間がみんな「お前がヤレ、ヤレ」って言い出した。でも監督と主演の両方をやるのは本当にキツイので渋っていたんだが、結局は仕方がないと諦めた。これ以上撮影を遅らせるわけにはいかないし。出来ることなら監督業に専念したかったね。でも、結果的には良かったかなって思ってるよ(笑)。
Q=ノアの妻クレア役を演じたサフロン・バロウズさんは偶然にも、今回のコンペティションに出品されているマイク・バインダー監督の『再会の街で』にも重要な役柄で出演しており、難しい役を好演しています。彼女を貴方の映画に起用した理由を教えて下さい。
A=クレア役候補の女優とは何人かに会って話をした。その中でサフロンが、クレアというキャラクターについて最も良く理解していた。サフロンはとっても温和で聡明でピンと筋の通った女性なんだ。女優にありがちな浮ついたところは微塵もなく、とても強く、クールで人間的にも素晴らしい。実は、サフロンが演じたクレアの人物像は原作者の妻がベースになっている。スチュアート・ブラウンが書いた本は、彼の自伝に近い。主人公の名前はノアと変えているが、綴った内容の85%は彼の実体験なんだよ。つまりクレアはスチュアートの妻キャシーをモデルにして描かれている。そしてキャシーの雰囲気もサフロンに合っていた。サフロンの良いところはボヘミアン的なイメージがありながら、地に足がついてるところだ。実にしっかりしているが堅物ではない。自分が何者であるかというアイデンティティも確立している女優なので、是非とも彼女に演じてもらいたいと思ったんだ。
Q=では演じていて難しかったシーン、演出していて難しかったシーンをそれぞれ教えて下さい。
A=演技でキツかったのは、抗ガン剤治療のシーン。この治療には激痛が伴うんだ。だけど僕にはどれほどの苦痛なのかが判らない。そんな痛みを実生活で経験したことがないからね。もう1つは、僕が癌であることに妻が気付き、僕がキッチンで皿を投げるシーン。その撮影の日ほど演技ができなかった日はない。自分ながら演技をするのが本当に嫌だった。でも敢えて撮影し、ラッシュを見てみたら、案の定できが悪かった。できたらカットしたかったけど、大変重要なシーンだったのでカットできず、そのまま残すことにした。このシーンが役者としては一番ツラかったね。監督としては、どのシーンも難しいと言うか、どれも難しくないと言うか、みんな同等なんだ。
執筆者
Y.KIKKA