「フランス人の少年マックスのように、偏見のない心でこの映画を見て欲しい」。最新作「僕のスウィング」の日本公開を前に、トニー・ガトリフ監督はこう語る。「ガッジョ・ディーロ」、「ベンゴ」とロマ文化(ジプシー)を自らの命題としてきたガトリフ。本作ではフランス少年マックスとジプシー少女スウィングの小さな恋の物語を描き、民族、人種を問わず普遍的な感動を与えてくれる。また、「映画製作はまず音楽ありき」と語るだけに、今回はマヌーシュ・スウィング(ジプシー音楽とマヌーシュ・ジャズが融合した音楽)を効果的に挿入。伝説のギタリスト、ジャンゴ・ラインハルトの後継者であるチャボロ・シュミットが出演とあれば、音楽ファンの期待は高まるというもの。「脚本の段階で映画のイメージはすべて完成している。音楽はもちろん、主人公がどんな色の服を着てるのかってことも。『僕のスウィング』も頭の中で見た通りの映画になったよ」。ジプシー的な顔の陰影が印象に残る、この巨匠に単独インタビューを行った。

※「僕のスウィング」は1月18日、シネマライズでロードショー!!





ーー主演の子供たちは素人だったそうですが、自然な演技に惹き込まれました。彼らが天才なのか、監督が天才なのか?
トニー・ガトリフ監督 いや、それはやっぱり子供たちだろう(笑)。撮影前に、俳優と話しこみすぎるのは好きじゃない。今回も特別な演出はしてないんだ。役について話をしたのはほんの少し、気をつけたことといえば、彼らのありのままを引きだすようにすることだった。
 マックスがスウィングの胸のほくろを見つける場面があっただろう。あれは実際のエピソードを活かしたものだ。スウィング役のルーと食事をした時、彼女は薄着だったからほくろが透けて見えたんだよ。「なんだい?それは」、私は言って映画と全く同じことをした。その時のルーの反応が気に入って劇中でもやってみることにしたんだよ。

  ーーマヌーシュ・スウィングが本作の主役のひとつです。音楽はどの段階で浮かぶのでしょうか。
 まずは音楽ありきだ。今回もマヌーシュ・スウィングがあって、次にチャボロ・シュミットの音楽と一体化した。消え行くロマの文化を描こうとして、子供たちが浮かんだ。何かを伝承するには子どもに伝えるのが一番だったからね。

 ーーマックスを演じたオスカー・コップは実際にギターの練習をしたんですか。
 映画と同時進行だよ(笑)。最初は全然弾けなかったんだ。撮影中は24時間、シュミットをはじめ5人くらいから猛特訓を受けてたよ。撮影期間は準備も含め6ヶ月間だったけれど、終わる頃にはずいぶんうまくなっていたね。









ーーチャボロ・シュミットはどんな人でしたか。
 彼ほど自由な人はなかなか見つからないだろうね。全てから解き放たれている。カメラの前に立っても大俳優さながらリラックスした状態で演技ができた。
 唯一彼が気にしていたのはこの映画で死んだ人の話をするということ。ロマ族には亡くなった人たちの話をしてはいけない、そういう文化があるからね。

 ーー監督自身、母親がロマ族出身という生い立ちですが、同じような家庭環境で育ってきたのでしょうか。
 いや、ロマ族でもいろいろ流派があるからね。僕の母は劇中のマヌーシュとは違い、ジタンというジプシーなんだ。だから、死者の話をしてはいけないというのは(僕の家では)それほど厳格なものではなかったんだよ。

 ーースウィングはマックスの残した日記帳を道端に捨ててしまいます。その行為に軽いショックを受けたものの、今を生きるロマ族のスタンスがよく伝わってくる場面でした。
 そう、彼らは常に今日を生きているんだ。あの結末は必然だった。この物語は2つの異なる文化を扱ったものでもある。マックスが生きている世界は文字の文化で、想い出を日記に綴って残しておく。一方、スウィングが生きている世界は口承の文化なのさ。ロマ族には文字文化はないから、スウィングは字を読めないし、その日記の重みもマックスと同じようには感じられない。

 ーーロマの文化を長年描きつづけていますが、「僕のスウィング」はどういう位置付けにありますか。
 続き。そして、これからも続いていく。ロマの文化を描いていく、その流れの中で生まれた作品だ。もちろん、私自身の子供の頃の思い出もある。動物とのシーンや石を積み上げていくシーンなんかは自分の記憶に残っていたものだ。
 もしかして、いつかはロマ文化以外の話を描くかもしれない。でも、次回作ではない。次回作はすでに頭の中で映像がつながっている。ちょっと言葉にはできないんだけどね。

執筆者

寺島まりこ

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作品紹介
『僕のスウィング』先行上映記念 トニー・ガトリフ監督舞台挨拶&チャボロ・シュミットによるマヌーシュ・スウィングライブの夜!