ホームビデオを撮るように被災者に寄り添った6ヶ月の記録・映画『石巻市立湊小学校避難所』藤川佳三監督・瀬々敬久プロデューサー インタビュー
東日本大震災で死者・行方不明者3,779人という甚大な被害を受けた宮城県第二の都市、石巻市。ピーク時には5万758人が避難所生活を余儀なくされたという。
映画『石巻市立湊小学校避難所』は、避難所の1つとなった湊小学校を舞台にしたヒューマンドキュメンタリーだ。
藤川佳三監督が被災地に向かったのは、3月末に撮影された森元修一監督の『大津波のあとに』の素材を見てその現状を知ったことから。避難所になっていた石巻市立湊小学校に4/21から3日間滞在した藤川監督は、被災した人々の思いがけない笑顔のパワーとその裏に隠された辛さに触れ、この場を撮影するという意思を固めた。一旦東京に戻った後、4/29に再度現場に入った藤川監督。10/11に避難所閉鎖になるまでの約6ヶ月間、人々の生活に寄り添って撮り続けた貴重な記録だ。
それは住民の様々な表情の記録でもある。
使い古しの洋服を前に「被災者はなんでもありがとうって言わないといけないの?」憤る顔。
住民を励ますはずのコンサートで歌われた『ふるさと』に、「故郷がある人が歌う歌だ」と言い切る工藤さんの厳しい顔。
生業である理髪店の再開の目処が立たないまま、ボランティアとして理髪店を続ける店主の鈴木さんの誇りに満ちた顔。
小学生のユキナちゃんのくったくのない笑顔の奥にある消せない震災の映像。
瀕死の状態でこの避難所に担ぎ込まれた70歳の愛ちゃん。奇跡的な回復後、その人柄で教室のムードメーカーとなった底抜けに明るい笑顔と人生の記憶。
過酷な避難所生活の中で一緒に過ごすうちに思いがけない繋がりが生まれ、お互いを気遣い、家族のように過ごす人々の顔。
190時間分もの膨大な素材から生まれたこの作品は、藤川監督が日々の避難所の暮らしを一緒に送り築いた信頼関係のもと、ニュースでは聞くことの出来ない住民たちの素の声に溢れた出会いと別れのドラマとなっている。
■■■上映予定■■■
●9/8(土)〜9/21(金) 大阪・第七藝術劇場
●9/23(日) 東京都中央区晴海・晴海ギャラリー
●10/6(土)〜 名古屋シネマテーク、大分・シネマ5、
●10/25(木) 大阪・南御堂シアター イベント上映(福島民話の語り部・吉川裕子さん 語り)
●11/10(土)〜 仙台・桜井薬局セントラルホール
●11/17(土)〜 神戸アートビレッジセンター
<インタビュアー>
森田和幸(Cinema Press 編集長)・松村厚(第七藝術劇場 支配人)・デューイ松田
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■ホームビデオを撮るように
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——映画にするということを避難所の方々にはどうやって話したんでしょうか。
藤川:2度目に石巻市立湊小学校に入った時には映画にする意思を固めていたんですが、そこに避難している方々になかなか言えなかったですね。廊下で立ち話をする時なんかに長期で滞在しながら撮ります、と徐々に話していきました。
——皆さんの反応はいかがでしたか?
藤川:元々マスコミの出入りが多い避難所だったので、「あ、そうなの」って感じでしたね。“被災地の現状を知って欲しい”と思っている方が多かったので好意的に見てもらえたようです。
——被災地の現状と、観光目当てで現地を訪れる人々との意識のズレなどを描こうという意図はありましたか?
藤川:そうですね。当時マスコミはたくさん取材に入っていましたが、トピックを探しに来ているのは感じました。僕の方はそういうのと違ってその時その時の被災者の方々の気持ち、状況を長く見つめていこうと思いました。
——被災者の方の本音がさらっと出ているのに驚きました。支援コンサートで『ふるさと』を歌うことに対して「ふるさとがある人が歌える歌だ」という言葉や、使い古しの衣類の支援物資を前に「被災者は何をもらっても感謝しないといけないのか」といった言葉がありましたね。
藤川:元々本当のことを取り上げたいという気持ちがありましたが、インタビューしますといってカメラを回すのでなく、ずっと一緒に過ごしながら流れでカメラを回していましたので、自然に本音を語っていただけるようになったんだと思います。素材は全部で190時間くらいになりました。
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■避難所の生活と感情の変化・藤川監督の変化
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——避難所の皆さんの生活の変化はどういった感じでしたか?
藤川:最初は混沌とした状況で、食料もない状態です。僕が避難所に入った4月は丁度物資が届き始めた頃。避難所の組織作りが行われて、本部長、各教室の班長、決まったボランティアが話し合いながら運営していく状況でしたね。5月は物資やボランティアの受け入れでより活発な活動を始めた時期です。6月7月になると生活が落ち着いてきて、避難所を出て仮設に入る準備や今後の生活を考え始めていますね。8月はなかなか仮設住宅の抽選に当たらないということでストレスが溜まり始めた時期でした。9月に入ると仮設住宅に当たって避難所の人数も減ってきて、皆さん昼間は外に出て仕事やそれぞれの活動を始めましたね。
——小学生のユキナちゃんが、最後の方で震災から最近の変化について「感情が出てきた」ということを言いますが、大人の方々の変化はいかがでしたか?
藤川:最初は自分の気持ちを抑えて周りの方と上手くやっていこうという気持ちですね。それが、同じ境遇の中で生き延びた方々同士が…これは偶然生き延びたとおっしゃる方が多かったんですが、ずっと一緒に過ごす中で、隣の人が困っていたら助け合う。素の自分で接するようになり、家族になっていったという変化がありましたね。
——最初は作品を撮るという意気込みで現場に入ったと思うんですが、藤川監督ご自身の心境に変化はありましたか?
藤川:最初はどういう風に教室で日常を過ごしているのかを撮ろうと思っていたんですが、一緒に過ごす過程で人との付き合いが深くなり、その人達の思いが分かっていきました。全体の状況を捉えようとして始めたけど、人の気持ちをすくい取りたいという気持ちの変化がありましたね。
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■カメラの暴力性と緊密性
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——プロデューサーの瀬々さんは撮影には参加されたんですか?
瀬々:3泊4日くらいですね。
藤川:6月に東京に戻った際に、瀬々さんに状況を話して、7月に湊小学校に来てくださったんですけど。瀬々さん、最初は避難所に入れなかったですね。色々な人が出入りしていて閉ざされた場所ではなかったんですが、避難所に自分が入っていいのかという戸惑いがあったと思います。
瀬々:阪神淡路の大震災のドキュメンタリーを撮った名ドキュメンタリストの青池憲司さんが藤川とのトークで語ってらっしゃてたんですけど、青池さんも今回の被災地の撮影では避難所に「なかなか入れなかった」と。自分もあの瞬間、逡巡みたいなのはありましたね。どうしても撮影する側という癖がついてるのと、カメラって暴力的なところもあるから考えてしまいますね。藤川のカメラは距離感がホームビデオっぽいから暴力性はないよね。僕だとどうしても“撮るんだ”って意識があるからなのか、なかなか入れなかったですね。
藤川:その辺は僕も途中から変わって行ったんですよ。最初は不用意にカメラを回してしまって、“ここでカメラ回すの?”という視線を感じました。その場で指摘されたり後から言われたことが何度もありましたから、撮り方を自分で模索して行きましたね。瀬々さん曰くホームビデオみたいに、撮る人、撮られる人の関係でなく、もっと踏み込んだ人と人との関係を作って行こうと。特に愛ちゃんとか、他の方もそうですけど、カメラを回していない時でも、色々な話をしましたよ。今までどんな仕事をしてどんな家に住んでどういう人生を送ってきたか。そういう話をするようになって、皆さんとの関係が変わって行きましたね。
瀬々:一人でやっているのは大きいよね。撮影隊を組んでいくと、監督のほかにも、撮影部、録音部がいてチームになって、個人的な距離感とはどうしても違うし、僕が行ってもそうなると思います。
一人でやっているともう少し近い、緊密性の中で撮り得る。『相馬看花』の松林要樹くんもそうだけど、デジタルビデオの良さが生きていると思います。
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■避難所での体験や感じたことは映画が全てではない
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瀬々:僕は未だに藤川がこれを撮ろうと思った動機が分からないんだよね(笑)。『相馬看花』の松林くんは最初ビデオジャーナリストとして、中に入って撮ってる映像がないから撮ろうとしたけど、ある瞬間に大酒呑みのおじさんと会った瞬間に、これは絶対に映画にしないといけないと思ったって、これは分かり易い。藤川はまだ動機について本音で話していない気がする。
藤川:震災前の1月に母が亡くなってショックだったんですけど、その後被災地に行くまでは結びつけて考えたことはなかったんです。現地でたくさんの亡くなった人のことを思ったときに初めてリンクして。今まで親孝行もしてないし、社会のために何もして来なかったということを意識しましたね。後、映画の中で出てくる工藤さん。子供のために教育委員会と遣り合う姿を見たときに、僕も同い年くらいの子供がいるんですけど子供のために何もしていない自分とのギャップ。そういったものがキーになっていって避難所の撮影に結びつきました。
瀬々:いまいち分からないね(笑)。
——編集を経てもまだ心の整理がつかず、引きずっている感じですか。
藤川:心の整理はついていますが、出来上がった作品と自分の活動がどうだったか総括している最中ですね。映画に自分の感じたこと、見てきたことの全てが入っている訳じゃなくて、実際に避難所で過ごした半年には本当にたくさんの出来事がありました。そのとき感じたこと、体験は忘れられない特別なものです。
——整理できなかった部分は他の作品で表現される予定ですか。
藤川:別の形でやりたいですね。1つの記録として出していいことだと思っていますし。これはブログでも紹介しています。
——出来上がった映画は皆さんに見せたんでしょうか。反響はいかがでしたか。
藤川:完成したところで主要な出演者の皆さんと一緒に見ましたね。反響は色々あって、取り繕ったものでなく本音を取り上げてもらっているという意見が多かったですね。
——藤川監督は瀬々監督の『ヘヴンズ ストーリー』の現場に入られてますが、劇映画に係ってこられて、監督第一回目がドキュメンタリーになったのは何故ですか。
藤川:単純に劇映画に向いてないと思ったんですね。いろんな監督について、ぴあで入選もしましたが、その後特にオファーもないので自分で『サオヤの月』っていうセルフドキュメンタリーを撮って、才能がないなと(笑)。
瀬々:俺なんか、ぴあ落ちてんだ(笑)。
藤川:映画を撮るのをやめようと思ったんですけど、今回は目の前で自分の想像を越えた知らない世界でこんなことが起こっているって分かって、撮りたいと思ったんです。
瀬々:やっと腑に落ちたよ(笑)。震災以降、これだけたくさんのドキュメンタリーが作られているんだから、撮る側の動機も合わせて作品を知りたいというのはあると思うんだよね。
——『ヘヴンズ ストーリー』の現場の藤川さんと比べて変化はありましたか。
瀬々:一緒ですよ。一人でシコシコ仕込むのが好きなんです。『ヘヴンズ ストーリー』の中で長谷川朝晴さんの部屋が出てくるけど、懐柔作戦で住んでる部屋に入り込んで持ち主の方に部屋を貸してもらってる(笑)。やりようは今回と一緒。『雷魚』の制作でも、1週間現場に車中泊で寝泊りして撮影場所の許可を取るのに懐柔作戦だったから(笑)。今回は彼のやり方と映画がいい具合にマッチしたっていうことですね。
先日、韓国の映画祭で『相馬看花』と藤原敏史さんの『無人地帯』が上映されてその場に僕もいたんですが、海外の人からはポリティカル性ということが話題によく出ました。原発事故の問題が、歴史や家族の問題、人が生きること住むことに繋がっていく。僕自身も日本人なので、そういうテーマの括り方というのは凄く好きだし、自分が作ってもそうなる気がする。でも海外の視線はちょっと違うんですね。どうしてもっと政治的な問題を突き詰めないのかと。これは日本的と呼ばれるようなことの問題なのかも知れないなと、すごく感じました。その辺が自分も含めですけど、映画作りの今後の課題かもしれませんね。
——最後にこれからの上映予定を教えてください。
藤川:9/8(土)から9/21(金)まで大阪・第七藝術劇場、10/6(土)からは名古屋シネマテーク、大分のシネマ5、11/10(土)からは仙台の桜井薬局セントラルホール、11/17(土)から神戸アートビレッジセンターで上映します。10/25(土)は大阪の南御堂シアターでイベント上映もありますよ。ここでは福島県浪江町で被災された福島民話の語り部・吉川裕子さんの語りもありますのでぜひお越しください。映画館がないところもたくさんありますので、広く観て頂くために自主上映を地道にやって行きたいと思っています。
執筆者
デューイ松田
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