第20回東京国際映画祭のアジアの風部門で上映された『壁を抜ける少年』は、災害に見舞われた後の世界に生きる17歳の少年・ティエが、ある日ふと魔法の石を手に入れた事で壁を抜ける超能力を持つという近未来SF。
ティエは、博物館で働く耳に補聴器を付けた少女・ノノに恋をし、壁を通り抜けて行った別世界では盲目の少女・ヤーホンと出会う。
ティエはそこで、自分や、自分の住む世界がヤーホンによってビデオゲームの中で創られた存在である事を知る—。

ホンホン監督は、文学、舞台、芸術などの世界でも才能を知られるアーティストであり、今回4本目となる『壁を抜ける少年』は監督初のファンタジー的要素のある作品であある。
幻想的な世界観もさることながら、台湾を舞台に撮影された近未来的風景や、少年の心情を表現したデジタル処理による画面づくりなどが印象的だ。
様々な表現方法を駆使し、愛の形を表現したホンホン監督に、作品について語って頂いた。





——以前の作品と比べると、作風や題材の捉え方が変わりましたが、どのような心境の変化があったのでしょうか?

「以前の三作品を撮り終えて、私は自分の表現したい事はもう映画という手段を持って表現し終えたと思いました。三作品とも比較的満足していましたし、もう映画はいいと思っていたのですが、今回また何故新たに作品を作ったのかと言うと、台湾映画の為に何かしたいという思いがあったからです。今、台湾映画の観客は非常に少なくなっています。台湾映画にはひとつの固定されたイメージがあって、重苦しい感じの特徴であると捉えられ、どんどん減ってしまった若者の観客を再び映画館に戻したかったのです。そのために、小さい頃から好きだったファンタジーを撮ってみたいと思ったので、以前とは全く違う作風になったという訳です。」

——少年が壁を抜ける、というユニークな着想はどこから生まれたのでしょうか?

「これは元々、フランスの作家であるマルセル・エイメによる「壁抜け男」というかつて映画化もされた有名な小説が元になっています。主人公は中年の公務員の男性で、壁を抜けて別の世界に行くというストーリーです。私はこの作品の、現実を突き抜けて別の世界に行くというテーマが気に入ってとても惹かれたので、それと別に若者が心の中に別の世界を持っていて、夢の中でその別の世界に行ってみたいと思っているという事を重ね合わせてこの映画を発想したのです。そして、それに映画の最後の方に登場する荘子の胡蝶の夢の話を加えて膨らませました。」

——「放射能を浴びると超能力者になる」というセリフが登場しますが、どういう意味なのでしょうか?

「このセリフは、よく冗談で使われたりするのですが、私としてはこの映画の中で重要なセリフとして使っています。この映画の主要登場人物の三人は、それぞれ何か欠けたところがあるのです。まずノノは耳が不自由で人間の言葉が聞き取れず、別の世界のヤーホンは目が見えないという設定になっています。ティエも見た感じは正常なのですが、壁を抜ける力を持っていて、逆に絶えず現実に満足できないという満足できない欠けた心を持っているのです。ティエはノノと初めて会った時に、“耳は僕らの言葉が聞き取れないの?”と言うセリフがあるのですが、そこに彼はノノと自分の共通点のようなものを見出すのです。壁を抜ける力を持ったティエは、絶えず別の世界へ行きたいと思っています。放射能を浴びると超能力を持つ事ができるという事は、裏返して言えば現実世界への不満を抱いていて、幻想を抱いているという事なのです。」

——ノノとティエとの間で多く交わされる手話は、二人だけのテレパシーのようでしたが

「愛という微妙な感覚を、往々に言葉で持って表現しようと思うのですが、私はこの映画では別の方法を取ってみようと思いました。手話で愛を語り合う事で、愛の秘密の感覚を表現しようとしました。そして、二人は二十年後に出会った時に、再び手話によって心を通じさせようとするのです。」

——別世界で、ヤーホンの目が急に見えるようになるシーンについては?

「あれは奇跡なのです。ティエとヤーホンをキスをしますが、その行為によってモノクロからカラーに変わる事によってその奇跡を表現している訳です。愛は奇跡をも作り出す事ができるという事ですね。よく、愛は盲目であると言われますが、好きな人と一緒にいる時は感覚を全開するので、あらゆる感覚を使って愛を表現するようになるのです。ですから、見えるという事もできるようになるのです。私はこの映画で様々な寓話的な表現方法を使って愛を表現しようとしました。」

——モノクロとカラーの使い分けや、デジタル処理が印象に残りましたが、どのように工夫されたのでしょうか?

「映画とうのは、詰まる所ビジュアル、芸術であり、ストーリーを語るだけではなく、ひとつひとつのシーンで観客に驚くようなものを持ってきたいという意図があります。そういうものができてこそ、ビジュアルゲージとしての映画ではないかと思います。」

——デジタル処理にはかなり時間をかけられたのでしょうか?

「そうですね、でも特殊効果を多用した訳でもポストプロダクションに時間を裂いた訳でもなくて、何と言っても撮影の時に美術、照明などの調整に時間をかけて色の調整などを行ったのです。ポストプロダクションの時に行ったのではなく、撮影な時にほぼ完璧なイメージが欲しいので、むしろ準備段階の方が大変でしたね。」

——最後の方でティエがバスの窓ガラスを割るのと、最初に電車の非常ガラスを割って出るようにという説明シーンがありますが、引っ掛けて作ったのですか?

「最初の汽車のシーンでは、乗務員が“この旅が平安であるとは思わないで下さい”と言いますよね。乗客は必ず自分で何か手段を講じて、より安全なところへ逃げる必要があるという危機感に見舞われています。一方、ティエは壁を抜けて別の世界に行く事でやっと自分で呼吸ができるような存在である訳です。つまり何が言いたかったのかと言うと、ガラスを割ったり壁を抜けて別の世界に行こうとするのですが、その別の世界は存在せず、永遠の世界は幻想でしかないのです。現実から逃げようとする行為自体が、実は虚しく、逃げてもその場所とは存在しないという事なのです。」

——ティエとヤーホンのシーンに、「世界の果て」という場所が登場しますが、最後の二十年後のティエとノノが再会する場所と同じ場所ですか?

「ティエとヤーホンが出会う別世界は幻想的で美しい世界は、彼らは永遠に別世界に生きているで美しく映るのです。ところが二十年後に成長したティエがノノと出会うのは、あれは塩山なのですが、観光地になって非常に騒がしい場所になっています。幻想を抱いていた少年が、成長して醜い現実に直面するけれども、現実の中から二十年前のノノと再会してもう一度美しいものを創り出して行く、その美しさといのはビジュアル的には二十年前のノノが出てきて、概念の中の美なのです。その時ノノが着ているのは、それまで一度も着た事がない赤い色の服なのですが、赤色というのはヤーホンの身に着けていた色なのです。つまり、概念上ではノノとヤーホンは同じ人物であるという事を表現したかったのです。
撮影したのは、台南の観光地である七股塩山という場所です。」

——今後の予定は?

「今のところ二つありまして、一つは学園推理劇もので、テーマは教育を扱っています。もう一つは、中産階級の中年を主人公にした、本屋さんを舞台に物語が起こるという話です。どちらを先に撮るかはまだ決まっていません。」

執筆者

池田祐里枝

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