人間の持つ再生力を信じて『生命(いのち)—希望の贈り物』ウー・イフォン監督インタビュー
1999年9月21日の台湾大震災。台湾中部を震源にマグニチュード7.3という大規模なものだった。その震源に近い山村で、人々は失意に打ちひしがれながら行方不明になった肉親の姿を土塊の中に探していた。それぞれの事情で郷里を離れていたために自分自身の生命は助かったものの、彼らは郷里に残した家族を失った。土塊の中を幾ら探しても懐かしい家の残骸すら出てこない。閉塞状態の日々、彼らが立ち直れる日はいつくるのだろう?
呉乙峰(ウー・イフォン)監督は、このドキュメンタリーを4年の歳月をかけて制作した。さまざまな思いを抱き、苦しみながら、それでも生きていかねばならない彼らの姿を優しく、また力強く映像で支えている。本作は、山形国際ドキュメンタリー映画祭2003で優秀賞を、ナント三大陸映画祭では観客賞を受賞するなど、国際的に評価されているが、じつは台湾国内では驚くべき大ヒットを記録したという。世界でも有数の地震国である日本で被災した方々に見てほしいという思いを抱いたウー監督に、このドキュメンタリーに抱く思いをうかがった。
$blue ●『生命(いのち)—希望の贈り物』は、ポレポレ東中野で公開中。
大阪・第七藝術劇場では、2月26日公開。$
——このドキュメンタリーには、4組の被災した方々が登場します。この4組は、それぞれ違った状況にあるのですが、大勢いる被災者からこの方々を選ぶまでの過程をお聞かせください。
「地震の一週間後に我々“全景”(編注:ウー監督らのドキュメンタリー製作集団)のメンバーは被災地に向かいました。私は、九[イ分]二山(ジョウフェンアルシャン)の災害規模がひじょうに大きかったと知り、そこへ向かいました。まず出会ったのは、10代の姉妹でした。肉親を失くした姉妹の姿を見るととても辛くて、その時は彼女たちを撮ろうという気にはなりませんでした。が、彼女たちと出会ったことが契機となって、生命について考えることになったのです。
そのうちにチャン・ゴーヤンを知り、ロー・ペイルーという女子大生を知るようになり、だんだんと被災した人たちと知り合いになっていったわけです。他にも知り合った人たちはたくさんいますが、撮られることを嫌がったために撮らなくなった人たちもいました。
最終的4組になったのは、ひじょうに自然な成り行きです。比較的若い人たちばかりなのは、山で犠牲になった人たちのほとんどが年寄りや子供で、外に働き出ていたあの年代の人たちが生き残って肉親の捜索に来ていたからです」
——撮影を拒否した人を除いていって残ったのがあの4組だけだったというわけですか?
「もうひとり男性でずっと撮っていた人がいたのですが、彼は被災地を離れてから取材を拒否するようになりました。プライベートなことがいろいろあるというので、プライバシーにまで踏み込むのは避けようということで彼を追うのはやめました」
——被災した方々のエピソードと、一見関係のない監督のお父様のエピソードで構成されています。この二種類のものが、一緒になって生命というものの尊さを伝えていると思いますが、当初からそういう狙いがあったのですか?
「最初は、そんなにはっきりとはしていませんでした。それがだんだん固まってきたのは、被災地に入って1ヵ月ほどして宜蘭の養護院にいる父に会いに行ったときです。被災地から宜蘭までの台湾を半周するくらいの距離を移動しながら、自分と父との関係、被災地の方々の失った肉親を思う気持ちなどを考えました。そのときに、この地震を記録しようとしている呉乙峰という役柄をすえようと思ったのです。そこに亡くなった友人の存在を入れて、被災した人たち4組プラス監督である自分を撮影対象にしようと考えたわけです。そして、地震という現象を撮るのではなくて、何を撮らなければならないか、生命について考えてみようと思うようになりました」
——苦労したのはどういう点でしたか?
「いちばん大きな困難は、どうやってこの日々を過ごしたらいいかわからなくなったとき。これから彼らの身に何が起こるのか見当もつかないと思ったとき。そして、また、彼らの失った肉親を自分が掘り出してあげることができないとわかっているのにどうしようもないとき。それらどうしようもない思いにとらわれたときが、このドキュメンタリーを撮る上で最大の困難であったと言えます。自分がとても無力なことを思い知らされ、何度も止めたいと思いました。しかし、止めなかったのは、被災した方々に会って自分が感じたこと——どうやってここから立ち直るのか、もし自分ならどうやって生きていくか——そこに絶えず立ち戻るようにしたからです。その力が自分の支えとなりました。人間の持つ再生する力を信じることができたからです」
——今お話しされたようなことに突き当たるのは、ドキュメンタリーを撮って行く上での宿命なのでは?
「多くの人たちが地震とは関係なくても自分の失くした肉親を思い出して深い感動を持って見てくれましたなかで、(取材対象の)ロー・ペイルーはこの作品を見て『自分がこの作品によって誰かを助けることができれば嬉しい。立ち上がれなかったかつての自分と同じような思いをしている人が、この作品を見ることで勇気を持てたらとても嬉しい」と彼女は私に言いました。私は、肉親を亡くす痛みを作品を通して描いているわけですが、誰かを勇気付けることができるのであれば、ドキュメンタリー作家としてひじょうに嬉しい、光栄なことだと思います。高雄で上映されたときには、台中にいた両親を地震で亡くした女の子が『5年間、そのことを思うたびに辛かったけれど、この作品を見て慰められた気がした。やっと心が落ち着きました』と話してくれました。こういう感想を聞く度に、私はドキュメンタリー作家として嬉しくなります。制作した甲斐があったと思いました。
人の心は孤独なものだけど、その孤独な心で他者の苦しみがわかることができるかもしれない。それが人間の美徳であると思います。他人の苦しみをわかりたいという、そういう思いが発生してくる。そこが人間の心の美しさ、素晴らしいところだと思います」
——台湾でこの作品は、たいへんヒットしたそうですね。
「劇映画・ドキュメンタリーを問わず昨年の台湾映画のなかではナンバー1の大ヒットでした。ひじょうに奇妙な現象と言われました。ドキュメンタリーで興行収入のナンバー1は初めてです。高校生も大学生も皆こぞって見てくれました。彼らの話を聞いて、その両親が見にきました。何年も映画館に足を運んていない世代の人たちが、これだけは見たという現象が起きました。
山形ドキュメンタリー映画祭のとき、お母さんに連れられた姉妹が、上映後、私に感想を言いに来ました。妹が泣きはらした目で『監督、どうして私は最初から最後まで泣いていたんでしょうか?』と私に問いかけたことがとても印象深かったですね。小学校高学年の少女がわかってくれて生命とは何だろうと考えてくれたことは、私にとってもひじょうに印象深い体験でした」
——それにしても長い作品ですね。素晴らしい作品ですが、体力的に辛い人もいるのでは?
「台湾でも、ちょっと長すぎるのではないかと公開前には言われていたんです。でも、映画館で公開した後は『なぜ、あんなに短く終わってしまったの?』と言う人が多かったです。長いと感じない人が多かったようですね」
——全体でフィルムを回した量はどのくらいあったんですか?
「300時間。ですから、編集は気が狂うくらいたいへんでした。1年あまりを編集作業に費やしました。頭がどっかにぶっ飛んでいった感じで、死にたくなりましたよ」
——死なないでください。せっかく“生命”を撮ったんですから(笑)。
「私が死ぬわけにはいかないと思ったのは、この人たちの肉親を土の中から掘り出してあげることはできないけれども、この人たちの心の戦いをどうしても残さなくちゃいけないのだという思いがあったから。だから、なんとか生きて編集ができました。何回もトンネルの映像が出てきますね。トンネルによる闇が何回も何回も繰り返されるわけなんだけど、編集の苦しみも含まれているんです。闇は何度も何度も訪れるけど、必ずどこかに光り溢れる出口があるはずだという強い思いがあそこに込められているのです。ですから、私はこの作品の副題を“gift of life”(邦題では“希望の贈り物”)としたのです」
執筆者
稲見 公仁子