人間はみな生まれてから死ぬまでただの男であり女でしかない。けれど女性という性はその長い人生において年齢や環境に社会に求められる役割が変化する。ある時は「妻」でありまたある時は「母親」であったりさまざまだ。ややもすると本人自身が誰かの何かであることでしか自分を捉えられなくなってしまうことすらある。
夫が亡くなり、子供も自立しはじめた主婦が、そのどちらの役割からも解放されたことで、60歳を前にしてはじめて「自分」を生きることに目覚めてゆく姿を、生き生きと描いた『魂萌え!』は、“肉体は衰えるが、魂はますます燃え盛る”という意味の造語で桐野夏生が小説で提起してみせた新しいタームであり、女性を中心に圧倒的な共感と反響を呼んだ。
映画化に名乗りを上げたのは、『どついたるねん』で監督デビュー以後、『KT』や『亡国のイージス』など男性を主人公とした骨太な人間ドラマを多く描いてきた阪本順治監督。女性を撮るというこれまでと毛色が違うものを手がけたことについて監督自身は「越境して不法入国してきたようだ」とちょっと照れたように笑う。
しかし、人生の次のステップへ進もうと前を向く主人公・敏子の姿や彼女を通して描かれる世界からは、力強さや図太さ、哀しさ、滑稽さなど人間がもつ様々な姿やあり方が肯定されていることを感じる。「妻」「母親」の枠から出た敏子は、まるではじめて世界を観る者のようにその瞳はキラキラと輝いている。内面的にも肉体的にも敏子が変化し躍動していくその世界の描き方は、やはり阪本映画ならではのダイナミズムであり、観る者に活力を与えるエネルギーに溢れている。







— 阪本作品といえば男たちの熱いドラマ、という印象が強いと思いますが、この『魂萌え!』も主婦が主人公で今までとは毛色が違いますよね、監督自身はどう思いますか?
「本当に俺が撮ったのかな?って思うことはありますよ。(ピンク色の華やかなポスターを指して)いままでの作品ではあり得ない色ですからね。これまで野郎ばっかり中心に撮ってたから、出来あがったテイストとか、ポスターやチラシ、パンフレットを見ているととっても不思議な気持ちになるんです。どこかに越境して不法入国して、捕まらずによくここまで来たなって(笑)。そんな感じがしてますね。」

— 発案はそもそもどこから?
「『亡国のイージス』の後、シネカノンの李プロデューサーとまたそろそろ一緒にやりましょうよっていう話になりました。半ば冗談で李さんが「監督の映画はいつもポスターがグレーとか暗い色だから今回はピンクにしてください」とゆってた。別に最初から「よし!次は女を撮るぞ!」みたいな発想ではまったくなかったんですけど、その後、本屋さんに行ったら桐野さんのピンク色の表紙の本が出ていた(笑)。桐野さんとはたまに一緒にお酒を飲んだりしてて、「グロテスク」とか本も色々読んでいます。「魂萌え!」を読んでたら、僕自身は男だけど、はっとさせられる文章や、主人公の敏子さんの心の声にグサッと来るものがあったんです。夫の死後に、愛人がはじめて家を訪ねてくるシーンで、玄関を開けたら自分より年上の白髪の女の人が立ってたっていう部分を読んでて、ぶわって映像が浮かんできたんですよ。映画で三田佳子さんがはじめて現れるところです。そこから「もしこの小説を映画化したら…」って思い始めたんです。」

— 主演の風吹ジュンさんが素晴らしかったです。
「この作品を映画にするうえで難しいのは、物語自体はダイナミックで、愛人との対立関係や新しい恋愛などスリリングな部分も含まれているんだけど、主人公はあくまで普通の平凡な主婦。映画を作るときって、主人公はどこかに傷を持っている、とかなにか過去があるとか、メインのキャラクターにある種の特殊性を与えていることが多いんだけど、今回のテーマは逆で、「普通」とか「平凡」とか「埋没」だった。
風吹さんは、子育てして家庭人で、お母さんでいながらも自然に俳優もやっている感じがすごくあって、両方をバランスよくやってきた雰囲気をもっている方。体温の上下の少ない、いつも平熱でいる感じ。風吹さんの持っている平易さや当たり前な感じがこの敏子役にピッタリだった。
だいぶ前に何人かで飲んでて、そこに風吹さんがいらっしゃったんですが、ずっと隅っこの方の席で誰かの話に笑顔でうなずいているだけだったんです。2,3時間の間にひと言も話してないんじゃないかっていうくらいの感じで。それがすごく印象に残っていました。放つ側ではなくて、受け止め続けるっていうような。主人公の敏子さんって、自分を犠牲にして主婦であり母でありってことをやってきた人だから、その時の姿がなにかしら重なったんです。」

— 皺や老いの演出もありましたが、敏子は劇中でどんどん生き生きとしていってきれいになっていきますね。
「風吹さんは実際当時54歳で敏子の59歳という役を演じたんです。学生運動やったりヒッピーもいた時代の59歳と、それを見ててしらけていた年齢の54歳。5つ違うとそれだけ変わってくるんですよ。その5つの年齢のハードルは、とてつもないものだったと風吹さんもおっしゃってました。ちょっと老けてみえなければならないので、ライティングなどもキレイに、というよりは自然な感じに抑えていますし。白髪も入れてみましょうかという風になりました。」

—風吹さんもそうなんですが、『顔』の藤山直美さんや『ぼくんち』の観月ありささんなど、阪本作品の役者は、本当にその映画の中で時を過ごしてきたかのような生身の存在のリアリティを強く感じます。
「それはひとえに役者さんの努力ですよ。ただ、演出でひとつだけいえるとすれば、クランクイン前に役者さんにお会いしてセリフや役について話したりする時間をもらうんです。ちょっと広めの会議室をとってもらって歩いてもらうんです。観月ありささんも、風吹さんも、常盤貴子さんにもやってもらいました。実際やってもらうとみんな役の歩き方じゃない歩き方をするんです。別の人間を演じるときでも、歩き方にはどうしても元の自分がでてしまうものなんです。セリフの言い方や中身でいくら演じてても、身体的な動きは元の自分に身についているものになってしまうんです。でも、それをちょっと物理的に矯正すると、また別の人物の動き方になってくれたりするんですよ。たとえは同じ話をするのでも、立って話をするのと、歩きながら話すのと、座って話すのでは語り口調やテンポが変わってきますよね。身体的な動きが語り口のリズムを変えるってことは表情も変わっているんです。セリフはOKだけど歩き方にNGだすこともありますよ。」

— 愛人役の三田佳子さん、娘役の常盤さん、またカプセルホテルに住みついている風呂婆役の加藤治子さんなどいろんな年代の女優さんを演出することが多かったですね
「女優さんでもまた世代によって違ってきますからね。加藤治子さんは「50代、60代、70代全部違うのよ!」って力こめておっしゃってましたしね。“年配の女の人”ってひとくくりにしちゃだめ、みんな全然違うから!って強くゆわれました。どう違うのかはくわしくはわからないんですけど、とりあえず「違うんだ」ってことだけは教えられました。」

— なかでも敏子の同級生役の由紀さおりさん、今陽子さん、藤田弓子さんのあと4人組のアンサンブルは絶妙ですよね。すごく可愛らしくて、“女性ってみんな中身は少女のまんま大人になってゆくものなのかも”と思わされました。
「同じ年の設定だけど実際の年齢は4人ともバラバラなんです。すごく忙しかったんですがクランクイン前に一度集まってもらって、ちょっとだけセリフ読んでもらいました。同級生って昔観ていたテレビドラマなどの話をして、「あのドラマ中学一年のときだよね」って話したりするじゃないですか。だからそれぞれの少女時代のこととかいろんなことを語り合ってもらったんですよ。紅茶のみながらずっと3時間くらい。そのうちに由紀さんが歌を歌いはじめた。そしたらそれにあわせて今さん藤田さんも一緒に歌いだしたんです(笑)。フォークソングとか。それを聞いて、それまでシナリオでは彼女たちはテニス部の設定だったんだけど、すぐに合唱部に変えました。」

— 三田佳子さんの映画出演は久しぶりでしたよね。
「三田さんには以前なにかの受賞パーティーで、三田さんから直接ご挨拶しに来てくださったんです。パーティーだったのでドレスをお召しになっていたんですが、「監督!あたし普段はこんなんじゃないのよ!こんな服きらいなのよ!」ってゆう自己紹介をしてくださって(笑)。なんて気さくな…と。その発言から“ああ俺の映画みてくれてるんだ”って思いました。映画に対する意識の高さもすごく感じました。もしかしたら気に入ったら、たとえインディーズでも出てくれる方なのかもしれない、と思うくらいのものを感じました。」

— 風吹さんと三田さんの妻対愛人の対決シーンは緊張感あってみごたえありますが、現場はどんな様子でしたか?
「直接対決は2回あるんですが、最初に出会う初対面のシーンは、お互い構えていて微妙な空気が漂っているので、一番むずかしい場面だなって思ってました。敏子は夫の携帯にかかってきた電話の声色だけで、多分自分より若くて肉体的な部分で旦那をひきつけたのかな、とか色々想像してるんです。想像しつくしたところで玄関のドアを開けると、それが自分よりも年上の女性だった。また三田さん演じる愛人の方でも、本当はどこかで正妻である敏子のことを見たことがあったかもしれないけれどとりあえず初対面として訪ねるので、口臭を気にしたり、最初に話す言葉を練習してみたり、決して自分が慌てているわけではないという自己演出している。ドアあけるまでの2人をたくさん想像してやらなきゃいけないなって思いました。そこが肝ですからね。座るときには座布団はずすのかとか、どこでお茶をいれているのかとか、何を感じてお互い背中を向け合っているのかとか。仏前でチーンと三田さんが音を鳴らすとき、敏子はなにを思っているのかとか。ドアを開けた瞬間から対決ははじまっているんですよね。一方がなにをしているときにもう一方はどこでなにをしているかっていう動きが通しで決まっているんですよ。だからあまり芝居が段取りくさくならないうちに本番にいくようにしました。敏子がだすお茶菓子とは一体どんなものだろうか、とかそういうことまでみんなでディスカッションしましたよ(笑)。」

— いろいろ想像しながら撮られていったんですね。今回女性を撮ってみたことで新たに発見したことはありますか?
「理解できたことより、理解できなかったことのほうが多く残ってますね。理解したつもりだったものが理解できるようになったところもある。これまで全く目をむけてこなかった部分だったので。夫が先に亡くなって、息子や娘が独立して家にいなかったら、最後に残されるのは女。夫が亡くなれば「妻」は解消されるけれど「母親」としての自分が残っててさみしく家に一人でいたときに、それがいくつだろうと荷を下ろしてもう一度「女」として最後まで生き抜くということをこの映画は“がんばんなさいよ”ってすすめているんだなって思いましたね。女が最後に一人で家に残されるっていうことはこの映画を撮らなかったらまったく考えなかったことだから。急に「女」に戻されたことでもう一度なにかそこに希望を託して、いくつになっても自分のことを考えて最後まで生きるっていう。そこをよいしょ!って腰を上げることが“魂萌え”なんだって気がつきました。」

執筆者

綿野かおり

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