“ベネックス・ブルー”?特許を取ろうと思ってるんだよ(笑) ジャン=ジャック・ベネックス監督特別講義開催される
『IP5/愛を探す恋人たち』から実に8年ぶりとなる待望の新作『青い夢の女』がこのお正月に公開されるフランスの鬼才、ジャン=ジャック・ベネックス監督。6月に開催された第9回フランス映画祭横浜2001での上映及びゲスト参加に続き、先だってこの新作『青い夢の女』のプロモーションのため、再び来日を果たした。今回の来日にでは、教授や学生からの熱烈なラブコールにより、特別講師として東京大学と青山学院大学に招かれ、特別講義が実現したのだ。
青山学院大学での講座は、12月4日の午後6時半から910番教室にて「私の映画作法」の演題で開催された。広い教室いっぱいに集まった聴講生の方々は、青山学院大学のフランス文学科の学生さんが多く、直接フランス語で質問をされる方々もいたほか、通訳の方が監督の言葉を翻訳する前に、関心による相槌や笑い声が起きることもしばしであった。その質疑の一部をレポートしよう。
「こんなに若い方々のお顔を拝見でき、しかも美しい方々が多くて本当に幸せです。色々な意見を交換していきたいと思います」。代表作『ディーバ』、『ベティ・ブルー 愛と激情の日々』、そして『青い夢の女』の映像が流されたのに続き、親愛のこもった挨拶を行ったベネックス監督。今回の講座は、聴講者からのティーチ・イン形式で行われた。
劇映画としては8年ぶりの新作となった『青い夢の女』。この8年間は、監督にとってどのような期間であったのだろう。「8年間、毎日映画を撮りたいと思い作品について自問自答しながら、思い浮かぶものはこんな映画は撮りたくない、そんな思いの8年を過ごしてきた。悟りにも似たインスピレーションという幻影の上に生きてきていたんです。そして8年間を経た今日、インスピレーションを待つのではなく、自分から仕事をすることによりにインスピレーションに向うことを決意したのです。勿論、8年間何もせずに過ごしてきたわけではなく、その間ドキュメンタリーを撮影していました。それは現実に向うものです。ドキュメンタリーでは、ドラマツルギーは現実からやってくる。フィクションにおいては、現実に創造的な要素を交えることでドラマを作ります。そこにはある程度の現実味から発しないものは無いと考えていたので、フィクションに取り掛かるために現実に立ち向かったのです」。ルーマニアの孤児の問題、東京で撮った“オタク”の肖像、全身麻痺状態に陥った男性が書いた本に関して、そうしたドキュメントに取り組みフィクションの創作意欲を回復していったベネックス監督は、2年前に吸血鬼映画のコメディを計画するも予算的な問題からいったん中止となり、そして本作『青い夢の女』に取り掛かったそうだ。学生時代から精神分析に関して興味を持っていたというベネックス監督だが、ジャン=ピエール・ガノニョーによる原作に基づく本作は、精神分析そのものがテーマというわけではなく、ある種のブラック・ユーモアを描いた冒険ものであり、主人公の精神科医は診察台の下に患者の死体を隠しながら、他の患者の相手をしていくという特殊な状況を描いたものだ。
ベネックス監督作品と言って多くの人がまず思い出すのは、“ベネックス・ブルー”と称されるその青い映像だ。この件に関して尋ねられたベッソン監督は、軽妙なユーモアや引用を交えつつ丁寧に答えていく。「いつか、“ベネックス・ブルー”ということで、特許をとろうと思ってるんだ、勿論冗談だよ(笑)。私自身それがどこから来るのか自問自答しているのだけど、まるでこの青は幽霊のようだ。そして、色彩について理論を作ろうと思ったんだ。色は周波の長短に拠るが、僕の脳は青の周波の上で留まってるのかもしれないね。しかし、実際はそれ程単純なものではない。青は黄色と緑を混ぜた色で、私の作品には常にこの2色の要素が見られる。実際青は単なる慣習で、それが次第に幅を広げていって、私が知らない理由でこのように多くなったのかもしれない。ブルーは、夢と現実の間にある感覚を現したものだと思う。そして一般的に色とは、現実を変化させる一つの方法ではないかと思っている。現実を知覚する方法を少しづつ変化させることにより、自分自身が受けた印象も修正していくのだと思う。私の作品が青だったら、それが緑あるいは赤であった場合とはまた違うだろう。私が色を使用するのは、ただ現実だけをフィルムにおさめようとするのではなく、現実から受ける印象をフィルムにおさめようということだ。それは絵画的なアプローチをするようなもので、ただしそれらは色だけで表現されるものではなく、様々なジャンルが交わることで表現されるものなのだ。ピカソはこう言っていました。「今私は赤を失ってしまった、だから今日は青を使おう」と。色を選択する理由は、ただそれだけなのかもしれない。また、一つの思い出で、昔父が水彩絵の具の箱を持ち帰ってくれたことがあるが、その時私が直感的に選んだ2色が青と赤だったんです。私の作品には青が多いが、必ず赤いタッチもある。この質問を度々受けてきたことから、私は色彩に対するセオリーを自分で作ろうかと思いました。もしかしたら、このセオリーを元に近々実験的な映画を撮るかもしれないね。」。
ベッソン監督の作品には、魅惑的な女性が毎回出演している。「簡単に言えば、女性そのものが魅力的だから、フィルムに収めるんだ。それで、こんなに魅力的な女性が多いと一人だけを選べず、それも8年間映画が撮れなくなってしまった理由かな(笑)」。ここでは、フランソワ・トリュフォー監督の言葉を引用して答えるベネックス監督。「トリュフォーは、一人の女性を前にしてカメラを据えれば映画はできると言っていたよ。実際は、もう少し複雑だけどね。男女間には魅惑とともに恐怖の思いがあり、そこから生まれるのがファムファタール=運命の女なんだ。恐怖からいだく連続殺人犯というイメージと、その逆に母親と天子の中間のようなイメージもある。このように単純化して話しても、そこから沢山の物語が作れることがわかるでしょう。今回エレーヌ・ド・フジュロールを起用したのは、天子のようでまた女学生のようにも見える彼女に、倒錯した女性として演じさせたいと思ったからです。彼女は見かけの太陽のような部分と、死を思わせる性格を持ったヒロインを演じている。映画は表層のみならず人間の内面も映し出すものなので、ただ美しいだけの俳優には興味はありません。その表面の後ろにある魂を映し出す窓である、眼差しから出てくるものに興味があるんだ。」
最も影響を受けた作品として、スタンリー・キューブリック監督の『2001年宇宙の旅』をあげるベッソン監督だが、彼が映画を撮る上で最も重要と思われる資質として、好奇心と持続性をあげている。「映画製作に不可欠なものは、好奇心だと思う。これは必要条件であっても絶対条件というわけではないし、他にも多くの資質が必要だ。そして他の資質中でも重要なものは、チェーホフが『かもめ』の中で言っているように本質的にはひらめきではなく持続性なのです」。映画とは歓びであり、感動であると答えるベッソン監督だが、現代社会において映画人であることについての意味を次のように語った。「一つだけ確かなことは、人生には驚きが沢山ある。そうしたものを生きていくうちに、驚きに意味があることが見えてくるんです。映画を撮るということで重要なことは、この意味を見つけるということです。初めはラブ・ストーリーやエピソードを語ることに興味を持つが、その時期が終わると、道徳的な意味という側面が強くなってきて、善とは何か、悪とは何かといったといったことですね」。
この他、ドキュメンタリー映画について、オタクという現象についてなど様々な質疑が交わされたが、既に予定の時間はつきかけている。最後の質問を募ると、まだまだ十数人近くの聴講者が立ち上がる。一人を選ぶことは出来ないと、ちょっと困った風のベッソン監督は、とりあえず全員に対して質問を述べてもらい一つ一つ丁寧に耳を傾ける。そして、「本当は、朝まででも皆さんと語っていたいのだけど…」すまなそうにしながら、代表していくつかの質問に答える。その中には、現段階では詳細は明かせないが、今回の来日時にある日本の作家の作品を映画化することに関しての内諾がもらえたということで、近々日本で新作劇映画の撮影に入るかもしれないとの話もでた。これは、是非とも期待して待ちたい。なお、答えられなかった質問に関しても配給元のアミューズ・ピクチャーを通じて、書面もしくはメールで寄せて欲しい、必ず答えるという旨を話すベッソン監督に、聴講生はお礼と感激のこめられた拍手を贈る。こうして、90分を越える充実した内容の講座は幕を閉じた。
なお、『青い夢の女』は12月22日より、シネスイッチ銀座にてロードショー公開される。
執筆者
宮田晴夫