映画『息衝く』は、木村文洋監督が東京に生きる30代の青年たちを中心に、原発・宗教・家族を描くことで社会と個のあり方を模索した意欲作だ。デビュー作の『へばの』(08)で原子燃料サイクル施設がある青森県六ヶ所村を舞台に、分断された家族と恋人たちの選択を描き、『愛のゆくえ(仮)』(12)では、「地下鉄サリン事件」のオウム真理教の幹部・平田信と逃亡を助けた女性という実話をベースに、閉鎖された空間で変容していく男女の姿を描いた木村監督の最新作だ。『へばの』につながる物語でもある『息衝く』について、木村監督にお話を伺った。

※7/2《木村文洋監督最新作『息衝く』関西公開記念~
『へばの』上映》のトークショーにて。

個人的には木村監督の姿を見たのは2009年に『へばの』がプラネット+1で上映された折のトークショー以来だったが、その時の木村監督の姿はもう記憶にない。その代わり、小口容子監督のブログ(13/5/25)にあった桃まつりのイベントで『愛のイバラ』のトークイベントに参加した際の木村監督が、観てもないのに強く印象に残っていた。小口監督の「本物の批評がしたい」という要望に、震えながらも求められた役割に挑んでいく真摯な姿だ。

今回インタビューを始める時に木村監督から勧められたイスの位置が遠かったので、勝手に隣のイスまで移ると、とても戸惑ったような顔をしたのが印象的だった。木村監督の声は、語りなれた人独特の声とは対極にか細く、時にはかすれながら思いを語っていく。インタビュー後、トークショーをカメラに収めながら改めて思う。本来は人との距離の詰め方や、人前で語ることは得意でない人なのかもしれない。それでも畏れを抱きながらもやるべきことに毅然と立ち向かう姿は映画に対する姿勢そのものであり、木村監督の作品そのものなのだ。

 

目の前にあった宗教、選択した宗教

『息衝く』は、ある政権与党の政治団体でもあり、大新興宗教団体でもある「種子の会」で育った子供たちの姿から始まる。やがて彼らは成長し、則夫(柳沢茂樹)と大和(古屋隆太)は宗教の掲げる理想と原発の再稼働に目を瞑る政党という矛盾に悩みつつ選挙活動に明け暮れる。一方、慈(よし/長尾奈奈)は、「種子の会」を離れ、母親となり、独りで子を育ている。
『息衝く』で主人公たちのキャラクターが生まれた背景には、木村監督の経験がある。

――木村監督ご自身のことを少しお伺いします。ご家族と共に宗教団体に所属されていたということと、その後ご自身で別の宗教団体に入られたことがあるとお聞きしました。どのような違いがあって決断されたのでしょうか。

木村:15歳くらいの頃に、実親が日蓮系の宗教団体に入信しました。長年上手くいかなかった家族関係について悩んだ末の入信でした。先祖を供養することで隣人との問題が解決される、日々祈ることがそれを解決に導くと。罪の話、前世から積もっている咎の話をされました。15歳ながらに自分も家族をふくめ対人関係に悩みだしていて、本当に信仰がないと解決できないのか、と踏み切れないまま、そのまま対人恐怖症になりました。友達がいない時期が長く続きました。その後18歳で、親からも、与えられた宗教からも離れる形で、大学進学で地元を出て…。京都で一人暮らしを始めたときに、初めて出来た近しい友人に勧誘されたのが創価学会だったんです。

――創価学会を離れるきっかけはどんなことでしたか。

木村:党の論理、というか、当時の団体が使っている言語や語調にどうしても自分が馴染めませんでした。僕が交流していた同年代の学会員とは親しくさせて頂いて、今でもお付き合いはしているのですが…19歳の頃に、宗教や祈ることありきじゃなくて、自分で人間関係を一からつくるということをやってみようと思いました。映画をつくりたいという思いがあって、映画をつくる過程で人と関わることを始められないか、と思い、脱会しました。

――映画の世界に行ってみようという踏ん切りは割合簡単に付いたんでしょうか。

木村:映画を好きだ、と初めて思ったのは17歳の頃でした。それは先ほど言った…対人関係について悩み出したさ中だったんです。とはいっても地元の青森にはミニシアターはもうなく、TSUTAYAでレンタルビデオを借りる毎日だったのですが…。あの時期に「自分には好きなものがある」と思えたことが、本当に嬉しかった。あのときの―何かを好きだ、と思えた無根拠な確信のようなものは、今まで経験していないかもしれません。前途多難であることは幼いながら実感してはいたんですが、一歩踏み出してみようと思いました。

 

『へばの』から『息衝く』へ

木村監督のデビュー作である『へばの』は、青森県六ヶ所村で再処理工場の創設に携わって来た父親と二人、つつましやかに暮らしている紀美(西山真来)が主人公だ。同じく工場で働く治(吉岡睦)との結婚が間近となった矢先、治が作業中にプルトニウムの内部被曝を負ってしまう。壊れる人間関係と家族の絆、苦悩の末の選択とは…。

――『へばの』で描ききれてなかったものを『息衝く』に引き継いだということですが、思われていたものは描き切れましたでしょうか?

木村:結局10年くらいかかってしまいましたが、描き切れたと思います。『へばの』を撮った28歳当時はどうしても、この国の大情況に対しての虐げられた目線しか描けなかった反省がありました。そうした情況の原因は個人個人にあって、誰もが加害者の部分も被害者の部分もある、ということを長く映画では描きたいと思っていましたので。色々な生き方をしている人間たちの生活や像から、いまの日本がどういう時期にあるのかを、浮かび上がらせたいと思っていました。ひとつの姿は、描けたのではないかと思っています。

――『へばの』を初めて拝見した時に、安全地帯の曲の使い方がすごく唐突な感じがしてたんですけども、今回久しぶりに拝見してやっとわかった気がしました。木村監督の意図とは違うかもしれないんですけども、主人公の2人が車で走っている時に曲がかかりますよね。「東京へ行こうか」という台詞もあるんですけど、美しい歌の世界に対して、事故で変わってしまった現実はそこから遠く離れていて、多分東京にもいかないだろうし、二人の関係もうまくいかないだろうという予感がある。より現実を際立たせるための歌だったのかなという風に感じたんですけど、実際はどうでしたでしょうか。

木村:そこまで考えてくださり、嬉しいと思います。あの選曲は年代的な意味もありました。84年の曲で、六ヶ所村に原発のリサイクル施設の誘致が決まったのもそのぐらいだったので。その頃の歌謡曲ということと、ロケハンしていたときに聴いていたらはまったんです。うまくいかなかった二人、についてか。ありがとうございます。今回歌謡曲は使ってないですけどね(笑)

―― そうですね(笑)。でも物語のトーンの飛躍という意味では、今回も意外なシーンがありましたが、そういうものが出てくるのは何故でしょう?

木村:スタッフから発案されるものが多いです。特に映画の後半は、そうしたアイディアが多かったですね。自分からはなかなか出てこない発想が多かったです。

――今回は、5人ほどでのシナリオを進められたそうですね。意見をどのように上手く集約していくんでしょうか?

木村:シナリオ作業は5人で、最初の時間は映画全体のコンセプトについて話しました。映画で、なにをしていくのか。主人公3人はどういった違い、交錯があるのか。それからたたき台を誰かが書き、書き直していく過程で―誰がどの人物を担当するか、ということを分けてやりました。ディテールですよね。それぞれの人物の弱さについて考えることは、書き手自身の弱さや醜さを直視することにもつながった。それでも脚本が煮詰まった段階で、5人のうち全体を先導していく人間を変えてみる、ということもやりました。それでも最終的に決めなければいけないのは僕なのですが、この映画に関してはゼロから5人で始めたこともあり、誰かが方向性に違いを感じ離脱を決めるか、あるいは納得するか、うなずくか―というところまでやらざるを得ませんでした。途中で門を閉める、ということが出来ませんでした。3年ほどかかりました、シナリオが上がるまで。5人で仕上げたものも、別のスタッフの目線からやり直していますしね。

――最終的にどこを選び取るのか、難しそうですね

木村:いままでの映画の作業の反省なのですが、誰もが共感し合える、最大公約数だけを取っていくのはできるだけ避けたいと思っていました。どこかいびつなままのもの、過剰なもの…意味にさえ還元できないもの。そうしたものを残すことが大事だと思っています。変に中庸を取ることは今でも避けたいと思っています。

 

世界には中心も周辺もない

――主人公3人の名前の由来を教えてください。

木村:則夫(のりお)は永山則夫から。大和(やまと)はヤマトタケルから。慈(よし)は、宗教で用いられる言葉―慈愛の“慈”から取りました。

――永山則夫を選んだのは何故ですか。

木村:北海道から青森の…故郷、親に対して、複雑な思いを抱き続けたひととして思い起こしました。

――『息衝く』を拝見した時に、凄く腑に落ちたのが、“世界に中心も周辺もない”という感覚です。例えば昔は原発が安全で未来が明るいということで進んできたものが、全くそうではないし先が見えない状況になってしまったり、ヒーローがいて解決できるものでないとなった時に、それぞれの人々のドラマこそが、現状を認識するために必要だと思えるんですね。
『息衝く』では主人公3人がいるんですが、登場人物それぞれを星座のように描くというスタンスに至った経緯をお聞かせください。

木村:“星座”というイメージは杉田俊介が提案したものでした。3人とも 強さとか弱さとか色々なものがあると思うんですけど、それを誰かに寄与するとか、誰かに捧げるんじゃなくて、それぞれの中に光があるはずだ、と。それを別の人間、違う場所にいた人間が見れば、星座になっている。3人で一緒にいた時間というのは別れた後もそれぞれ残っていくわけですし、それが本当の連帯につながっていけば―。それがさっき仰って頂いた、世界に中心も周辺もない、ということかもしれません。2時間10分ある映画なんですけど、そういったことが少しでも描けていればいいなと思ったんです。

――こういう構成になったのは、やはり震災の影響が大きかったんでしょうか。

木村:震災以降に明るみに出てしまった、この国の根幹から変えがたい大きなもの。そうした遠大なものや無秩序に遭遇したとき、知恵者や新しい先導者を待望してしまう。それも重要なことですが、同時に、一人一人が考えたり行動する、ということも本当に多様になってきたし、必要なものになってきたと思います。スタッフそれぞれが震災以降の自身の人生観を立て直す、リハビリのような時間もあったと思うのですが、脚本を書くにあたっては、そういう要素も大きかったと思います。

――映画を作られる方々は、震災以降すごく悩まれるところが多かったと思うんですけど、その辺はいかがでしたでしょうか。

木村:フィクションで何をやるかが、問われることになったと思います。ドキュメンタリーで届けられる事実を、多くのお客様はいまもこれまで以上に、観たがる。

――『へばの』の改めて拝見しまして、現在がよりリアルに迫ってくる状況になってしまっていて、それに愕然としました。

木村:『へばの』に関しては、原発事故が起こる以前より、原子力施設が今後も稼働していけば被曝事故に遭う可能性も環境の変化も、11年前から変わらないこととしてあったわけなんです。逆に愕然としてしまうのは、こんなことが起こっても経済成長路線の延長と言うか、何を優先させて何を犠牲にするかというのは、なかなか変わらないものだと痛感しました。

 

家族関係を描く

木村監督は、映画で“家族”を描くことで何よりも「生」を映し出せると考えているという。
――大和は極端なキャラクターなんですけど、則夫と慈に関しては、どこか観ている方に、自分と重なる部分がある。宗教に関することではないんですけど、親と分かり合えない部分がすごくあるので。則夫に関しては平間さんの関係とか。通じる部分がある人が、自分と全く違う環境で様々な選択をする様をとても興味深く感じました。

木村:それは一番嬉しいですね。彼らが特殊な環境にいるようでも、どこか観ている人に重なる人として見てもらえるといいなと思いました。

――大和と親の関係は描かれていませんね。

木村:シナリオ段階では書いていたんですね。大事なところですよね。彼はそれよりも自身の私生活や日常が無い人物、ということで映画で描くに当たって、後景化してしまったと思います。

――慈の家族関係をどのように考えていますか?

木村:人間も生物も何かを“交換”し合うものだという言葉がありますが、慈の家族関係は一方的な状態でしょうね。 親から伝えられるものが一方的な流れ、あるいは母親に関しては謎かけのまま中断してしまったという。慈自身はまだ何も返せていないし、引き継いでいる実感も持てていないでしょう。“交換”が途中で止まった家族なんじゃないかなって思ってます。

――木村監督ご自身は、親御さんとの関係を“交換”で語ると何かありますか?

木村:最初にお話しした地元と親の話に戻りますが、同年代の友人たちは、地元で自分の年代からの仕事を始めたり地域に根付いたりして、親御さんに違う形での、仕事や地での生き方を反射させることで交換している。自分は、といえば、10年間で3本、映画を見せられただけですね。ただ本作は、親に見せることに勇気が必要な映画ではありました。自分と親との関係を、少なからず反映させた映画だったので…具体的な言葉で、まだ感想は交わしていないですね。

 

日本人は強くなったのか?

――劇中、「日本人は自分のためだけに生きていけるほど強くなった」というセリフが印象に残りました。この言葉が出てきた背景を教えてください。

木村:あれは、三島由紀夫なんですが…。「人間の生命というのは不思議なもので、自分のためだけに生きて、自分のためだけに死ぬというほど人間は強くないんです」という、三島が『葉隠』や近代以前の日本人の“大義”についてよく話していた頃の、言葉です。しかし現代では大義のために生きて死ぬことが必要ではなくて、自分のために生きて死ぬだけで十分になっているのではないか。―あるいは、その大義が「家族」であったりする。震災前、原発で働いているひとが、反原発のひとがどう言おうが私は私の仕事をして、私の家族だけは守る、とネットで発言していて、これ以上のことが言えるのかと思った。それは逆に強くなったと言えるのではないか、と思ってしまったんです。それ以上のことを考えることが果たして求められているのか?特に選挙運動に疲弊している大和は、宗教も必要とされてない中で活動を続けています。

――それは個人主義的なものでしょうか?

木村: 個人主義については、丁度ポレポレ中野で公開した時に先崎彰容さん(日本大学教授)と話しました。今の日本人の“個人”というのは荒野に投げ出された孤独の“孤人”、という形容が正しいんじゃないかって。福沢諭吉が日本に「個人」という言葉を翻訳し紹介するのに時間がかかった、苦心した、ということをひとから聴いたことがありますが、日本人の個人主義は現代でまた、違ったものなのでしょう。この辺が、『息衝く』を作る上で根幹になったと言えます。

 

映画に取り組む原動力とは

――中々結論が出なかったり、現実も動かなかったりする難しい題材を映画にしようと取り組む原動力について、お聞かせください。

木村:映画はやはりつくることも観ることも、自分の外側との橋をかけるようなものだと思っています。他の国や他の時代、人間の内面にまで橋をかける。原動力はやっぱりお客さんに見てもらって、普段自分でも見つめてなかった心に、何か響くものがあったっていう反応や言葉があった時ですよね。それによってまた外に橋を掛けて行きたいと思えるし、上映がそれを確かめる場所だと思っています。

――東京で上映された際に面白い反応はありましたか?

木村:日によって反応が、極端に違ったことでしょうか。上映後の会場から、長い沈黙とピリピリしたものが伝わってきた日もありました。強い拒絶を頂く日もありました。あるいは、信仰や家庭についてずっと悩んでいた、ということを上映後にお話ししてくれるお客さんも段々増えていきました。当然、すべてが予想していた反応ではなかったですが―嬉しかったですね。映画の中に何か見てもらったのが。様々な世代の方がいました。

――木村監督は、映画を撮り続けることで人間関係に対する考え方は変わってきましたか?

木村:10年前と、映画を上映していくなかでの社会との関係というか…反応も変わってきたので、そのことに対して考え方が変わってきたことはあると思います。また、先ほどお話しました星座の話は思い出します。一緒にいた時間が、それぞれの中で育っていけば…といまは思っています。同時に僭越ですが、映画で観て頂いた時間が、観てくださった方の心をなにか楽にしたり、なにか育っていけば…ということは、より強く望むようになりました。

――それでは最後に、これから『息衝く』をご覧になる方々に一言お願いします。

木村:自分の人生の総括のつもりで、いろんな人の力を借りてつくりました。自分の人生の証明のようなものでもありますが、どこか見る人の人生の一瞬とも交差するものだと思っています。いままでもこれからも、映画館を出て終わりではない映画を目指していて、…ほんの少しでも、近づけたのではないかと思っています。

執筆者

デューイ松田

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