ソウルで働く美しい独身女性のヘウォンが、抱えている様々な問題を忘れるために、人口9人の小さな美しき弧島へと向かい、そこで、幼な馴染みのボクナムと再会する。しかし、へウォンがその島で見たのは、ボクナムが夫や住民から奴隷のように扱われ、蔑まれ、そして、暴力を振るわれ、果ては男の相手をさせられているという現実だった。なんとか島から抜け出そうとするボクナムだったが、ある日、ボクナムを一瞬にして残虐、残忍にしてしまうほどの悲劇が起きてしまう……。

2008年韓国映画シナリオ・マーケットで最優秀作品賞を受賞したシナリオをベースに脚本を作り上げ、演出、演技、全てにおいて他を圧倒する力強いパワーを持った本作。韓国のみならず、世界でも熱狂的に受け入れられ、カンヌ国際映画祭出品以降、数々の映画賞を受賞している。最高の脚本、そして最高の出演者とともに渾身の演出により、観ている人の心を一瞬たりとも離さず、そしていつまでも離れない、見事な作品を作りあげた。

近年韓国では、『チェイサー』、『息もできない』など監督デビュー作がいきなりの大ヒットを記録、各賞を総なめするという現象が起こり、日本でも大きな話題になった。本作で長編初メガフォンをとったのは、『春夏秋冬そして春』『サマリア』などで鬼才・キム・ギドク監督の助監督をつとめたチャン・チョルスはきっとその仲間入りを果たすことだろう。今回はそんな次世代の韓国映画の次世代の注目株であるチャン・チョルス監督にインタビューを行った。


−−商業主義的でもあり、作家主義的でもあるこういった作品が韓国の方に受け入れられるというのは面白いですね。

「興行的なことで言えば、それこそ商業的な作品に比べれば観客は少なかったんですが、ほかの作家主義的な映画に比べると動員は多かったんです。それを思うと、作家の姿勢がしっかりと示されている映画でありながら、ジャンル的な面白さのあるこの映画を観客が受け入れてくれたのかなと思います」

−−「息もできない」のヤン・イクチュン監督や「チェイサー」のナ・ホンジン監督など、作家性を持ちながらも商業的に注目を集める作品が増えてきていますが、韓国の映画状況というのはどのような感じなのでしょうか。

「韓国では今現在、あまりにも商業的な映画が多いので、作家主義的な映画を作ることがタブー視されているようなところがあるんです。以前は芸術的な映画は高く評価されてきたんですが、今はまったく無視されている感じなんですね。だから新人監督もそういった芸術的な映画を作ることができなくなりましたし、以前から活動している監督たちも、何とか苦労してとるような状況です。そんな中でも一応映画を完成させたということが、皆さんが評価してくださっているところかもしれないですね」

−−韓国の若手監督が元気な状況だと思っていたので、それは意外ですね。

「映画を撮るときには制作費を集めなくてはならないですが、そのときに『あなたは商業的な映画を撮っているのか、それとも芸術的な映画を撮っているのか』と聞かれるんです。作家主義の映画を目指しているなんて言ったら絶対にお金を出してくれないので、『作家主義映画なんて考えてもいないです。キム・ギドク監督とは違うんです』ということを強調しないといけないんです(チャン監督はキム・ギドク監督の助監督経験者)。だからその場では『いや、自分は観客さえ入ってくれればいいんです、映画祭に行きたいなんて思っていません』と言わないといけないんです。そういう風に言っても、お金を出す側は『何かおかしい。芸術映画を狙っているんじゃないかという匂いがしますね』と疑われてしまうんです(笑)」

−−なるほど。そうやって戦っているわけなんですね。

「一回、芸術映画を作って、それが当たらないとお金が入らないし、次の制作費を出してもらえなくなってしまいますからね。だから出来るだけ面白い映画を作ろうと努力をしてきました。それにもともと自分が目指しているものは、面白みがあり、作家性もあり、商業性もあるというものなんです。
 二兎を追うものは一兎も得ずという言葉もありますけども、一匹の虎くらいは追い求めてみようかなと思っています」

−−しかし制約があるからこそ逆に燃えてくるという部分はあるんじゃないでしょうか?

「それは言えますね。制約があるなら、逆にそれを乗り越えて、やっていこうという気になりますよね。制約を言うと、出資してもらった以上の稼ぎがないといけないというのが制約になっていくんですよ。じゃ、その稼ぎを出すためにはどうしたらいいかというと、商業的な要素をどこかに出さなくてはいけないんですよね。そしてまた監督が求めるところがありますから、そういった観客が何を要求しているのかというところを探していって、その中から新しいものを見つけていくということになりますね。

−−監督が観客が求めるものとして盛り込んだのは何ですか? 血ですか?

どこかひとつでなく、ワンシーン、ワンカットでさえ、観客に好まれないかもしれないというところは全部編集で外したんですよ。必ずこのシーン、カットは必要であろうというところだけを残しました」

−−この映画では都会の怖さだけでなく、田舎の怖さも描かれていますが、これは結局、都会であろうが、田舎であろうが安住の地はないということを描いているということなのでしょうか。

「都市の生活に疲れて、田舎に行ったら怖い目にあったという映画だったり、逆に田舎から夢を持って出てきたのに、都会の無常さを味わうという映画もあります。結局、今回の映画で描きたかったのは、相反する正反対の場所でも怖いことは起きるということなんです。こうういうことはどこでも起きうるということを描きたかった。そういう意味で安住の地がないというのは違うと思いますね」

−−どこででも起き得るということなんですね。

「それともうひとつは時間的な概念があります。島というのは、過去と現在が同居しているところがあるじゃないですか。逆に都市は現在と未来が共存しているところがある。しかしその両方の場所でああいったことが起きるということで、時間的に見て、過去にも起きうるし、未来にも起き得るのだということを表したかったんです。今までは被害者と加害者ではなく、傍観者を見せているんです。
 傍観しているということは、単なる目撃者であるだけで、自分が被害者であったり、加害者であることはないだろうと思いがちですよね。しかし今回描きたかったのは、いつの時代であっても、傍観者というもののは加害者にも被害者にもなりうるのだということなんです」

執筆者

壬生智裕

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