トルコの山あいにある小さな村。1日に5回、モスクから響くアザーン(礼拝の時間を告げる読誦)が自給自足で生活する人々の時間を刻んでいる。村の宗教指導者の息子オメル、美しい担任教師に恋をする少年のヤクップ、男女の関係を知り戸惑う少女ユルドゥズ3人の子どもたちは思春期を迎え、それぞれが新たな出会いに喜び、傷つきながらも、移り変わる季節と共に成長していく—

初監督作“Oh Moon”(88)がナント3大陸映画祭で賞を受賞したほか、“Mommy, I’m Scared”(04)が国際批評家連盟賞ほか国内の各賞を総なめにするなどトルコ映画界で今最も重要視されている監督の1人であるレハ・エルデム監督にお話しを伺った。




まず、この映画のアイデアというのはどこから生まれたのでしょうか。

まず、この映画のテーマとして、思春期を迎えた子どもたちの成長、時間の流れと共に子どもたちが育っていくということがあります。こういったテーマは、私の映画には、いつも含まれているものです。アイデアがどこがら来たかといえば、それは、自分の経験はもちろんですし、私の知人・友人の経験などからもヒントを得ています。

子どもたちが草むらに寝そべっているシーンがありますが、それは場面によって、咲き乱れる花の上であったり、枯れ草のうえであったり、季節の変化がみられます。そこには、単に時間の流れということ以上のものがあるのでしょうか。

季節の移り変わりということに関しては、時間の流れ以外には特に意味はありません。特に何かがシンボライズされているということもないです。あと、草むらの上で子どもたちが寝そべっていることについてですが、そこでは寝ることによる成長というものを描きました。というのも、子どもは眠ることにより成長し、成長するために眠るからです。また、彼らは、夜も忙しく働かなければならないので、昼自然の中に横たわって疲れをとるということも重要なことです。

海や荒野や山などの大自然の映像が印象的でしたが、自然の描写については何か意識をされたのでしょうか。

これも、時間の流れを表しています。というのも、時間がいつでも流れているように、自然のなかでも、雲が流れていたり、風が吹いたりしますよね。

この映画には、厳格な父に対する不満や、美しい女性への憧れ、交尾への興味など、思春期の子どもなら誰しもが持っている気持ちが描かれていますが、監督ご自身が子どものころはどうだったのでしょうか。

そうですね、そういった子ども興味というのは、やはり誰しもが持つものだと思います。ただ、一つ分かってほしいのは、ここで描かれている父親は、確かに厳しいのですが、それが悪い父親を意味しているのではないということです。ある子どもの父親はまた自分の父親から厳しく教育され、またその父親も自分の父親から厳しく育てられるというように、鎖状にいつまでも続いていて、その鎖は断ち切ることができないのです。

監督ご自身の父親は怖かったのでしょうか。

いえ、私の父親は怖くなかったんです。

では、オメル君のように父を殺してしまいたいと思うことはなかったですか。

そうですね。ただ、私も親に隠れてタバコを吸ったりしていたので、そういうところで、親に対する罪悪感のようなものは持っていました。

ラストのほうで、オメル君が涙を流しているシーンがありますが、そのシーンにはどのような意味がこめられているのでしょうか。

オメルは最初、親に追い出されるようなことがあっても、ずっと家のそばにいますよね。このときは、まだ心の自立みたいなことができていないのです。しかしあのシーンでオメルは、家を出て、家からはなれたところに1人でいます。この家出というのが、彼のなかの一つの時代の終わりを告げていて、彼はまた次の段階へと成長していくのです。

キャスティングについて、この映画ではプロの役者さんというのは、どのくらいいるのでしょうか。

親の役を演じた方々、そしてユルドゥズは役者です。主演の男の子二人は素人の中から選びました。

素人を使うということで、なにか苦労したことはありましたか。

私は子どもと撮影をするのが大好きなので、全くそういうことはありませんでした。プロの役者さんは自分でイメージを持ってしまいがちで、そのイメージを取り除いてもらうことがすごい大変なので、むしろ子どもと撮影したほうが楽ですね。

最後に、次回作はもう決まっていらっしゃるのでしょうか。

実は今撮影中で、もうすぐ撮り終わるのですが、次回作は本作よりももうすこし大人の女性を主演として、大人になっていく段階での問題をテーマとして、本作よりもハードでつらいような雰囲気の映画です。

執筆者

Kazuhiro TAKAHASHI

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