1921年、第一次世界大戦によって下半身不随になったチャタレー卿との生活は、体の触れ合いも心の結びつきもなく、チャタレー卿夫人のコンスタンスにとって、息の詰まる牢獄のようになっていた。コンスタンスとチャタレー卿の雇われ人である森の猟番パーキンは、それぞれに深い孤独を抱えていたが、春の目覚めとともに森の中ですごす時間を重ねるうちに、ごく自然に愛し合うようになる。コンスタンスにとっては、官能の喜びへの緩慢な目覚め、パーキンにとっては、生へのゆっくりとした回帰の物語である。

セザール賞で最多5部門を受賞した今作のメガホンをとったパスカル・フェラン監督にお話しを伺った。





『チャタレー夫人の恋人』は通常第三稿が知られていますが、第二稿を映画化することにしたのはなぜでしょうか———

それは、第二稿のほうがより感動的だからですね。また、第三稿は少し説明が多すぎるように感じました。二つのヴァージョンでは、人物の違いというのも見受けられます。特に、パーキンのキャラクターの違いというのが大きかったです。第二稿でのパーキンの秘密めいた雰囲気、そしてその内面の変化、そういうものに魅かれました。

お互いの裸体に植物で飾りをしていくシーン、裸で森を駆け回るシーンなど、自然と性の調和がすばらしいのですが、監督自身そのシーンに関してなにか意図があったのでしょうか———

花をかざっていくシーンというのは私も好きなシーンですが、それはロレンスにとっても重要なものであったと思います。というのも、その場面は、第二稿でも第三稿でもほとんど同じように描かれているからです。また、このシーンははたから見れば馬鹿げたようなことでも、愛し合う二人ならそういうことができてしまうこと、いままで受身であったコンスタンスが能動的に変わっていくこと、そういうことの重要さがあって、ただ裸になるということではなく、二人の心が一体になるということを描写しています。

裸で駆け回るシーンは、お互いに自分の愛を子どものように喜んでいるのを表現しました。子どもというのは、ある種の社会的バリアというものから開放されています。だから、ここではその子どものように、喜びを喜びとして感じているふたりを描きました。

パーキンの最後のセリフは監督が考えたものだと思っていましたが———

いや、あれは原作とほとんど同じセリフです。ラストシーン自体も、原作とはほとんど変わらないものです。わたしはロレンスのこの本を読んだときに、“これは、人間がこの世に存在して初めて語ったラブストーリーではないか”というふうに、激しい感動を覚えました。そして、わたし自身がロレンスを読んで感動したことをそのまま伝えたいと思ったのです。

−−−20世紀最高の性愛文学「チャタレー夫人の恋人」という題材の映画化に取り組んだパスカル・フェラン監督。
原作の出版から約80年「性表現のあり方」について大きな進化を遂げている。

執筆者

Kazuhiro TAKAHASHI

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