人間の滑稽さをそのまま認めるためには、それを認める人間にある種相当なたくましさがないと不可能だ。人間の情けない、ダサい、おかしい部分は、つまりは同じ人間である自分の滑稽さを受け入れることだからだ。いや、それはもしかしたら人間に対する無責任さ(いい意味で)でもあるのかもしれないけど、どちらにしろ、なんとも美しい人間たちばかりが存在する近頃の映画において、そのたくましさ、無責任さは本当の意味での共感を呼ぶし、そういったことを超えた上での本当の愛しさは生まれてくる。山下敦弘監督は(自身の意識したものではないかもしれないが)それをやっている。だから、この『天然コケッコー』はとてつもなく愛しい。

小、中学生あわせて全校生徒たった6人の田舎の分校に通う右田そよ(夏帆)を主人公としたこの物語におきる事件といえば、東京から来た転校生・大沢広海(岡田将生)の登場くらい。二人の未完成の恋愛を中心に繰り広げられていく物語は、驚くほど何も起こらない。従来の映画のセオリーからしたら、ありえないほどの平坦な物語は、けれどこのままずっとこの世界に触れていたいような、エンドロールがなぜか寂しく感じてしまうような愛しさに満ち溢れている。それは、くらもちふさこの原作による力がものすごく大きいし、渡辺あやによる脚本の力もとても大きいし、山下監督の類まれなセンスの力もやはり同じくらい大きい。月並みな言い方だけど、ほんと素晴らしい作品だ。

この作品に映し出された愛しい滑稽さは、過去の山下監督の作品に比べてもより強い余裕と、愛情に満ち溢れていた。それは単に、原作の要素だからなのか、子供を撮ったからなのか、山下監督自身の変化によるものなのか。その答えはこの素晴らしい作品と、山下監督の今後の作品にあるのだと思う。








”今回は、監督っていう役割に徹しましたね”

——前作(『松ヶ根乱射事件』(07))のインタビューで監督がおっしゃっていたのがですね、「これからはもっと思いやりのあるデリケートな映画を撮っていきたい」と(笑)。
「ははははは!あぁ、そんなこと言ってましたね(笑)。今思い出しました」

——で、そう言ってるそばから「でもな・・・」ってなって、「そんな映画監督、別にね・・・」って(笑)。
「はいはい(笑)」

——それで最終的には「わかんない」ってことで終わったんですよ。で、この『天然コケッコー』自体、『松ヶ根乱射事件』と企画も並行していたし、撮影も直後(両者とも06年)ですよね?
「そうですね」

——でも、実際観て思ったのが、ものすごく思いやりあるなと。
「あ、はい」

——撮ってみていかがでしたか?
「いつもそうなんですけど、結果的に僕は現場ではいっぱいいっぱいなので、ほんと子供たちをちゃんと芝居させようっていうことにすごく気を張っていたから。あんまり風景を楽しむ余裕とか、“思いやりをもって”とかっていうのはなかったですけどね」

——なんか、『リンダ リンダ リンダ』(05)のときって、監督が女子高生の“うーん、ちょっとなぁ”っていうところの青春のキラメキみたいなものと、山下監督、向井(康介−大阪芸術大学時代からずっとコンビを組んできた脚本家)さんとのバランス、シーソーゲームみたいなもので、絶妙な空気が出せたと思うんですね。美化された青春モノに対して山下監督たちが・・・
「そうですね、ちょっと疑ってかかるみたいな。斜めから見るみたいな感じありましたね」

——その中でも照れを感じたんですよ。監督の画とか演出に。でもこの『天然コケッコー』はそういった照れが少なかったような気がしたんですね。それって実際ありました?
「最初にこの原作を映画化する時点でもう、照れてたら仕方ないって思ってたんです。でも、いざキャスティングしたり、リハーサルとか進めていくうちにやっぱり、照れくさいんですよ、すごく。それを撮影までに1年くらい時間があったので、その間に自分の中に馴染ませていったというか、慣れていったんです。だから現場でそういった照れということはなかったと思います」

——うん、『リンダ〜』は“外からの要因VS山下監督、向井さん”っていうバランス、シーソーゲームだったのが、『天コケ』では監督自身の中でのバランスになっていましたよね。
「今までは向井っていうずっとやってきたやつとシナリオ書いてたんで、そういうやりかたがあったんですけど。今回渡辺あやさんっていう初めての方で、なおかつ『天然コケッコー』という原作を昔から読んでいる熱烈なファンだったので。だから今までとはバランスのとり方がちょっと違いましたよね。・・・なんだろう、そういう意味では監督っていう役割に徹しました。今までの脚本に対する考え方とは違いは出た気がします」

——『リンダ〜』の後に、たくさん青春モノのオファーがたくさん来ててそれを断っていった中で、この『天然コケッコー』を受けた大きな理由は何だったんですか?
「まず原作を読んで、正直最初読みづらいマンガだなって思ったんですけど(笑)、あるときスッと読み始めたらもう一気に読んでしまって。すっごく面白いなと思って。『リンダ〜』終わった後で相当青春モノというものに疑いというか、もうちょっとしんどいなと思ったんです。当時『リンダ〜』作り終えた後にきた青春映画って結構同じようなやつだったんですよ。要はイケてない子達がなんかを通して、最後優勝するとか(笑)。そういう、なんかなっていう話だったので。そういう意味では『天コケ』は青春モノとはちょっと思ってなかったです。自分の中では少女マンガっていう方がインパクト強くて、少女マンガを自分がやるとどうなるんだろうっていうのはちょっとありました。あと、僕がすごく興味を持ったのが渡辺あやさんという脚本家。その二つに順位は特にないんですけど、ただその強烈な二つというか。だけどもし、渡辺あやさんじゃなかったら僕はちょっと自信がなかったかもしれない。とにかく、渡辺あやさんに興味があったし、原作がすごい面白かったんです」

”コンプレックスがあるんですよ。同じ人しかやったことないコンプレックス”

——その少女マンガを自分がやったらどうなるかっていうところと、脚本家が渡辺あやさんというところで、やはり自分の技術の向上というものが念頭にあるんですか?スタッフも結構意識的に変えてらっしゃるじゃないですか。
「そうですね。大阪で映画作っているときずっと同じメンバーでやってきて、それはすごく自分の強みだと思ったんですけど、東京でいろんな先輩とかのやり方を見ていると、やっぱりいろんなスタッフとやっていたりして。自分がずっとやってきたスタッフもいろんな、違う監督の現場に行って、いろんなこと得て、力付けて帰ってきたりとかして。僕は監督で、しかも助監督経験ないような人間なんでやっぱり意外にコンプレックスがあるんですよ。なんだろう、同じ人しかやったことないコンプレックスというか。スタッフを意識的に変えるのはそういう意味で、いろんな人とやった上で、自分も磨きたいし、勉強したいっていうのが強かったです」

——向井さんもいろいろとやってらっしゃいますもんね。『神童』(07/荻生田宏治監督)とか。
「そう、あいつは昔から『青い車』(04/奥原浩志監督)とかいろいろやってますしね。だから向井からは昔から言われてました。“他の人と一緒にやってみたら”って。だから本当は『リンダ〜』も最初は向井がやる予定じゃなかったんです。僕が途中泣きが入って、”助けて”って感じだったので(笑)」

——(笑)やっぱりそれって観客とのコミュニケーションという意識なんですか?前回のインタビューでも最後乱射で終わるっていうラストが『リンダ〜』で最後演奏してワァーッっていうラストと同じカタルシスで、観客を意識したところがあるっておっしゃってましたけど。
「うん、そうですね、でも・・・質がぜんぜん違いますよね(笑)、あの二つは。ただラストを意識したっていうのはそれはあるのかもしれないんですけど。結果的には『リンダ』と『松ヶ根』は全く、真逆のものになっちゃいましたよね。でも、・・・実際のお客さん意識しているかって言ったらよくわかんない。・・・自分たちが変わってきたって感じですね。『松ヶ根』は相当突き放してますから。だからその反動も『天コケ』にはあるかもしれない。もう『天コケ』に関しては本当に切り替えていたというか、とにかく照れてたらしょうがないなとか。『松ヶ根』である意味徹底的にお客さんを気持ちよくさせないような作り方で作っていて。それは画にしてもそうだし、フレームにしてもそうだし、役者の芝居にしてもそうなんですけど、そういうことをやってきて。『天コケ』ではもう、それとは違ったことしなきゃなっていう意識があった。自分の性とか癖とかっていうものは『松ヶ根』にあると思うんですが、そういう自分の癖は『天コケ』には持ち込んじゃ駄目だなっていうのはすごく思ってました」

#”僕も向井も、最近、お互い素直ですよね”

——うん、そういう監督自身の中でのバランスの上で出された監督の持ち味、それがこの『天コケ』には溢れているなと思うんです。もちろん今回持ち込んじゃだめだと思った監督の性や、人間に対する見方っていうものを監督に期待する面もものすごくあるんですけど、今回『天コケ』に溢れた監督の匂いって、とても思いやりだと思うんですよ。子供たちの滑稽さを微笑ましく見守るような視線。それがこの『天コケ』っていう驚くほど何も起こらない物語に陶酔してしまう、いつまでもこの世界に漂っていたいと思わせる重要なエッセンスだと思うんですね。で、そういった、何度も言いますけど思いやりを(笑)だせたのには、前作の『松ヶ根乱射事件』っていう映画をやったことが大きい意味をもっているんじゃないかと思うんです。そしてそれは今作だけじゃなく、今後の山下監督自身にとって大きな意味をもっているんじゃないかなと。
「うーん、・・・そうかもしれないですね、未だによくわからないですから、『松ヶ根』っていう映画は(笑)」

——『松ヶ根乱射事件』ってある種、監督自身の乱射だと思うんですよ。あそこで乱射をしてなかったら、『天然コケッコー』のさわやかさは有り得なかった、と(笑)。まぁ大げさに言えばですけど(笑)。
「なるほど(笑)。でも・・・『松ヶ根』ってほんとよくわかんなくて・・・。『松ヶ根』はねぇ、乱射なんですけど、まだ不発な気がしててですね(笑)」

——そうなんですか?(笑)
「いろいろこれはあとを引く映画だなって気がしますね。実際あんまりお客が入んなかったっていうのもあるんですけど(笑)」

——(笑)。
「あの、『松ヶ根』は時間経つと反省点がいろいろ出てきますね、すごく。だから、逆に『天然コケッコー』の方がつくり終えた感じはすっきりしてます。”『松ヶ根乱射事件』みたいな映画作ってバランスとってるんでしょ”って言われて、まぁそういうところもあると思うんですけど、・・・この映画って意外と、まだしこりが残ってますよね、自分にも・・・
でも、『松ヶ根』撮る前とかは頭が破裂しそうでした。一方で『天コケ』のロケハン行って、一方で『松ヶ根』のロケハン行ってとか繰り返してると。むちゃくちゃでしたね、頭の中。子供のオーディションやって、こっちでは三浦友和さんの芝居見てみたいな、ことやってると・・・もうヤでしたねぇ(笑)」

——ははは。
「だけど、どうなんだろう・・・。正直『天然コケッコー』終わって今、頭空っぽですよ。あぁ次どうしよっかなっていう感じで」

——次はオリジナル?
「うん、オリジナルをやろうと思ってるんですけど。それがなかなか出てこないというか」

——それは向井さんと?山本浩司さん(”山下監督と言えば山本浩司”とも言える山下作品ほぼ常連の俳優)主演?
「そうですね、向井と。主演も今のところ山本さんで。でも、やっぱ向井も『神童』やったりとか僕も『天コケ』やってちょっと、なんか・・・・・最近、お互い素直ですよね。それがいいことじゃないような気もするんですけど」

——素直ってどういうことですか?
「結構ベタなんですよね(笑)」

——ははは!
「うん(笑)、結構ベタなことやってもいいんじゃないかっていう風にはなってるんですよ。ベタっていうか素直になったというか。まぁそれが、結果どうなるかわからないですけど」

——それは今までの反発というか?
「そうですね、逆にやったことない・・・意外と二人そろって素直なことしたことなかっていうのはあるし。向井は向井で『神童』ですごくそういうことやってるし、僕は僕でこっち(『天然コケッコー』)で素直な、素直というかそういうことやってるんで。だから僕も『神童』観て、向井らしいなと思いつつも、すごい“ちゃんとやってるよなぁ”とか思ったり。向井もこれ(『天然コケッコー』)観て、“山下がこういうことできるんだ”とかいうこと言ってたんで。今のそういう二人がなんかやるとしたら、素直というかシンプルなものにした方がいいんだろうなっていう気はしてます」

”夏帆なんて(撮影当時は)15歳だったんですけど、それには敵わないなって。そこには自分の力が及ばない”

——うん、そういうことだと思うんですよね。これまでいろいろなことを経て、監督自身、無意識の内に変わってきたそういう部分が映画の中に結構出てきたんじゃないかなって。大人になった、というか(笑)
「ははは。なるほど、大人に(笑)。まぁ、それもあるかもしれないですよね。・・・うん、確かに最初の自主映画の頃から比べるといろいろ変わってはきてますね。なんだろう・・・少なからずスタッフを信頼できるようになったとか。そういうところはあります。自分が全て正しいとは限らないなとか、いろいろ。・・・・・大人になったんですかね(笑)」

——『松ヶ根』のすぐ後なんですけど、『天然コケッコー』にすごくびっくりしたところが結構あって。あぁ、もう変わってるって。それは監督独特の人間の見方、人間の滑稽さを眺める視線に余裕というか、思いやりのようなものが以前よりも強く感じられるんです。この『松ヶ根乱射事件』〜『天然コケッコー』っていう非常に短いタームではあるんですけど。そういう意識って監督自身の中に全くないですか?
「・・・だけど、『天コケ』作り終えた今はもう、『松ヶ根』ってすごく遠い昔の映画の様な気がしますよね。・・・そうそうそう。たかが一年前の話なんですけど、なんかすっごい昔に感じますね」

——うん、本当に短いタームの中で、『天然コケッコー』で次のステージに移ったような気がするんですよ。『松ヶ根』に出ているような監督の性は今後も持ち続けて欲しいんですが、それとは別の側面、最近素直だっていうひとつの側面として、この『天然コケッコー』は監督の新たなステージの幕開けになった作品だなって。・・・実感はないですか?
「・・・・・でもちょっとありますかねぇ。なんだろう、まぁオッサンになったなぁって感じですかね(笑)。大人というよりもなんか・・・要は、若い頃のような照れが少しはなくなったなというか。僕って青春映画しか撮ってない人間だと思うんですけど、このタイプの青春映画は初めてですよね。『松ヶ根』っというちょっとねじくれた映画を撮った後にこれを撮って。まぁ原作がそうっていうのもあるんですけど。今まで、『リアリズムの宿』(03)も青春映画だと思っていて、『天然コケッコー』も同じく青春映画と思ってるんですけど、そこは決定的に同じ青春でも違うよなっていう。昔は自分の目線でしか語れなかったんですけど、これは結構自分の目線じゃないですからね。だから自分で気づかされることも多かった。夏帆なんて(撮影当時は)15歳だったんですけど、それには敵わないなって。そこには自分の力が及ばないんで、それを自分の演出で駄目にしたらいけないなって思ってやったりとか。今までの自分の青春映画はなんか違いましたもんね。結局なんか、やりながら自分の型にはめていく演出だったと思うんですけど。今回はやっぱ自分で夏帆を演出しながら、自分の言ってることが違うなってことがいっぱいありましたから。で、やってみてもらって全然、”あ、それ違うよな”と思って、”それ夏帆やめよっか”とかなって。で結局正解わかんないからもう夏帆本人に任せてしまったり(笑)。・・・言わないっすよ(笑)。言わないけど悩んでる感じなんですけど、結局僕が言ったこと全部駄目だったなっていうこととかありましたよね。夏帆が勝手にやったほうがよかったなとかね。だからそういうのとかも、今までと違いますよね・・・まぁこれ、原作がそういうこと、だからかな(笑)、結局は」

”子供の映画は撮りたいなっていう気持ちはずっとあります”

——(笑)確かに、これだけしつこく大人になっただの、次のステージに移っただのって僕言ってきましたけど、そういった原作っていう要素と、監督自身が『天然コケッコー』に登場してくる子供たちに対してずっと前から愛情みたいなものを感じてたんじゃないかなとも思うんです。これはものすごく深く考えすぎかとも思いますけど、『どんてん生活』(1999)のDVDの特典で、同窓会(出演者が再び集結してラストシーンの公園で開いたもの)あるじゃないですか?あそこで小さなお子さんが一人いて、壁に向かって走っているところを監督撮ってますよね。あそこで感じる視線と今回の『天然コケッコー』の視線って似てるんですよ。
「まぁ、あれはたまたまですけどね(笑)」

——そうなんですけどね(笑)。ただ、・・・女子高生はもしかしたらもう撮らないかもなって思うんですよ。
「ははははは!なるほど(笑)」

——(笑)だけど、『天然コケッコー』くらいの子供たち、夏帆ちゃんたちよりももっと下の小さい子供たちは、もしかしたらまた撮るんじゃないかって思うんです。
「うん、子供は興味ありますね。子供の映画は撮りたいなっていう気持ちはずっとあります。・・・うん、そう。まぁ女子高生は相当な自分の中で何かがないとしばらく撮らないと思いますけど、子供はいつか撮りたいですね。子供たちによる子供たちが観ても面白い映画は撮ってみたい」

——それは最近、思い始めたんですか?
「いや昔からちょっとあったんですけど。まぁ子供って相当難しいことだと思うんですけどね。子供が観ても大人が観ても面白い映画というかそういうのはいつかやろうとは、向井とはずっと言ってるんです。子供騙しにならないような子供映画。そうそう、小学生くらいの話はいつか撮りたいですね」

執筆者

kenji Hayashida

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