『CURE キュア』『カリスマ』『回路』『アカルイミライ』『ドッペルゲンガー』『LOFT』・・・これらの作品は“映像のカリスマ”黒沢清監督の代表作である。

しかし今現在の日本の法律ではこれらの作品の著作権者は黒沢清ではなく、作品を配給する会社と定められている。

つまり『映画』における責任者は、監督ではない。

だが、映画を鑑賞する観客のほとんどは、「映画の責任者はあくまでも監督で、作品がコケるか大成功するかはすべて監督の力量だろう」と考えているのが現実だ。
そして、監督たち自身もそう思っている。

『映画監督って何だ!』には、捻じ曲げられた過去・現法律への監督たちの憤り、そして未来への希望が作家主義の監督たちによって、ドキュメンタリー風に、はたまた劇画タッチに映し出されている。

本作を制作した日本映画監督協会に所属している黒沢清監督も憲法が改正されることを願ってやまないうちのひとりだ。

そこで、監督には今後の映画における著作権のあり方、監督の魂のこもった映像へのこだわり、そしてベネチア映画祭での公開も決まった最新作『叫』についてなど、さらには普段聞くことができないようなプライベートなお話をうかがうこともできた。

「『監督!』そう呼ばれるとつい振向いてしまうんです。」と笑いながら話す黒沢監督。日本での“監督”、海外での“監督”、現場での“監督”、私生活での“監督”・・・現在の“監督像”を追う!


いまだ変わりそうもない著作権法。率直なご意見を聞かせて下さい。
「私は監督に著作権はあるものと思っています。法的な原理では認められていませんが、『映画において作者はだれか?』と問われれば、ごく自然に皆さん監督だと思うはずです。映画は監督の我を通して生まれるものではなく、不都合だらけの中監督がひとつの作品に仕上げていくものです。ほっておけば完成しません。ですから自分の意見を通すだけでは映画を撮ることはできませんし、人だけではなくそれ以外の様々な障害をもクリアしていく力が監督には必要になります。」

映画を観る側にとって監督は作品における最高権力を握る人物に見えるが、実際は中間管理職のような辛い立場なのだ。監督が感じるプレッシャーは計り知れない。

黒沢監督自身にとってプレッシャーを感じるときはどんなときですか?
「嫌でも自分がこの作品の作者なんだと思う瞬間にそう感じます(笑)。たとえば映画を観た方に、偶然雨が降ったシーンについて『なんであの時に雨が降ってきたんですか?』と聞かれても、なぜ雨が降ったかまで答えなければいけないんです。自分がやろうとしたことではなくても、全て僕の責任になるわけです。そう言った時は非常にプレッシャーです。ただその見返りといいますか、そのプレッシャーを乗り越えると『あの雨が素晴らしかった。』『あなたの作品は素晴らしい』と言われたりもします。その場で起こったことをうまく取り込んで自分の作家性に変えることができると非常に嬉しいですね。現場で起こった偶然を自分の作品に取り込むと、自分の能力をはるかに上回ることということもあります。それがこの仕事の面白いところであり、誇らしく感じるところです。そのためになら全ての責任を引き受けることもあります。」

日本では海外よりも映画を撮る上でも弊害が多いとも言われている。
監督の映画に登場する“ある建物”もその典型例だ。

頻繁に登場する廃屋も偶然見つけているものなんですよね?
「そうですね。廃屋はいい例だと思います。たとえ街中で撮影をしたくても許可が下りなかったりすると廃屋でやるしかないんです。特に東京の街を撮影するまえにロケハン(撮影場所を探す事)をしていると非常に廃屋が目立ちます。壊れたビルなんかもよくあります。そういう建物は見つけた時に撮影しておかないとなくなっていることが多いですよ。次回作のために撮っておこうなんて考えていて、その時行ってみるともう取り壊されている。だからロケハンをして廃屋を見つけると、シナリオにはそんなことは一行も書かれていなくても、公園を探していても、廃屋を見つけると、『これはなんとかどこかのシーンで使わなくては!』と無理やり使ったりしています。おこがましい言い方もしれませんが、その建物の最後を可能な限り作品に記録しようと思っているんです。」

廃屋を映像に残そうと思うのはなぜですか?
「やはり他の表現とは違う、“その時あったそれそのもの記録する”ことが映画が持つ特徴的な表現の長所だと思うからです。写真もそういった意味で似た特徴を持っているんですが、写真以上の力を映像は持っています。僕たちはフィクションを撮っているんですが、その中にフィクションの物語とはいえ、マンガとか小説とかアニメーションにはない本当にそこにあったそのものを記録しているんだという痕跡を残したいんです。それが映像の根源だと思います。何月何日何時にはその廃屋はあったということを映像に残したい。その日撮ったものの確証を残すことが、基本的に映像の価値だと考えています。」

映画の真髄はフィクションの世界に本当の世界を混在させることができるということだ。そういう意味で監督が切り取る世界=フレームの中には、世界を彩る様々な情報が仕込まれている。監督はフレームの中の世界をどう捉えているのだろうか。

監督にとってフレームで世界を切り取るとは?
「実際目の前にあり、存在する世界を撮るということが僕たちの基本だと思っています。フレームで四角く切り取られるけれども、その外にも世界は当たり前のように存在します。映画館で観る方にはそのフレームの外の世界を見ることはできませんが、でも間違いなくフレームの外にも世界はあります。ワンカット撮るごとに、フレームの外にも世界があるんだということを感じてもらえるように撮っているつもりです。それは大変感覚的に微妙な問題なんですが、撮影する側からすれば映像を動かすだけでなく、かすかな光の動きで表現したり、あるいは外から風を吹き付けて、外の世界を感じてもらえるようにしています。それは物語をそのまま撮っているアニメーションとは違う実写を撮ることの意味に直結することだと思います。ストーリーだけ追っているとなかなか気づかないところだったりするんですが、気づいていただけて嬉しいですね(笑)。」

ありがとうございます(笑)。しかし撮影方法だけでなく、私たちが日々忘れかけているテーマを取り扱っているところが黒沢監督作品が、たくさんの方々の支持を受けるポイントだと思うんですが、監督自身が日頃から考えていることが題材になっているんでしょうか?

「日頃から難しいことを考えているわけではないんですが、僕がものを考えているときは大体映画を作ろうとしている時です。でも僕の描く世界がそのまま描かれているわけではありません。先程の述べたように、うまくいろんな折り合いをつけながら映画を作っています。当初脚本上に理路整然と描かれていても、俳優が『このセリフはいやだ。』ということもあれば、カメラマンが『こっちから撮りたい。』なんて言ってくることもあります。けれども整然と書かれたプランが乱れていくのは非常に興味深いですね。特に俳優という生身の人間と付き合っていると、どうやったって、物語に書かれた抽象的な人物から離れていきます。本人のクセや個性、また本人にはどうしようもできない部分がありますから。そういう意味で脚本に書かれた抽象的な人物と生の具体的な俳優が合わさって、その中間の人物が出来上がります。どこに落ち着くのかはやってみないとわからないし、撮影当日にならないとわかりません。まさにドキュメンタリーです。人物が急に出現して記録され、それが積み重なった後で順番に並べられて映画は出来上がります。作り上げられる過程の中で、僕自身まったく予想もつかない、『こんなことになってしまうのか』という驚きがたくさん出てきます。編集をしながら、元の物語のように並べていくんですが、そこからはみ出たものはどうしても残ります。僕自身も偶然撮れたものは生かしたいので、観た方にも僕が感じた驚きや不思議を味わってもらいたいと思いながら編集しています。でないと脚本を読めば済む話ですからね(笑)。書いてあるものとは随分違った驚きがどの作品にも入っています。」

以前、『LOFT』が公開される前に中谷美紀さんにインタビューした時のこと。「黒澤監督の脚本にはあまり説明書きがないんです。」と聞いていた私は真実を聞いてみることに。

中谷さんはこうおしゃっていましたが・・・。監督自身、撮影中に偶然起こる出来事を見越して、説明書きをあまり書かれていないんでしょうか?
「脚本のときから狙っているわではなく、僕としては随分説明書きをいれたつもりなんですが(笑)。中谷さんがそうおっしゃるということは他の作品ではきっともっと説明がされているんでしょうね。僕はこれで充分だと思って書いているんですが、良くも悪くもそれを僕自身が監督してしまうので、脚本の時点では『もうこのくらいでいいか。』と切り上げているのかもしれません。自分は脚本だけしか書いていなくて、もし他の方が監督するとなるとここは誤解されたら困るからと思って、これでもかというくらい説明するかもしれません。また俳優を見方につけておきたいという脚本家の思いからがっちり過剰なまでに説明をしたくなるかもしれませんね。ただしすぎはよくないと思います。脚本家がうんと書いたものを監督がここはいらないよと言っていく形の方が健全なのかもしれませんね。」

監督を目指している人にとって“監督”と呼ばれることはある種の恍惚感をもたらすことは言うまでもない。しかし、数十年“監督”と呼ばれ続けられている監督にとってはどうか?

監督として気をつけていること・クセになってしまったことはありますか?
「映画をずっと作り続けていると人の映画を観なくなってしまうんですよ。これはいけないなと思っています。実際作品に関わっているときは『観たくない』という気持ちもあるので仕方ないんですが、もともと映画を観るのは好きだし、これでは普通の人より観なくなってしまうので、作品を撮り終わったらなるべく他の人の作品を観ることを心がけています。あと、“監督”と呼ばれると振向くクセがついてしまいました(笑)。人の撮影現場でも振向いてしまいます。日本の撮影現場、監督だけが『監督!』と呼ばれるんです。他の人はみんなは、〜さんとか〜ちゃんなのに、なぜか監督だけが『監督!』と・・・。飲みの席でもそう呼ばれると、常に仕事をしろと言い続けられている気がしてしまいます。私生活でも監督と呼ぶ人がいて、それでも振り返ってしまう自分が悲しくなります(笑)。」

次回作『叫』はベネチア映画祭への出品も決まっている。

監督にとって海外での活動はどういった刺激をもたらすのでしょう?
「『叫』は2〜3年前からプロデューサーの一瀬隆重さんとなにかいっしょにやりたいねと言っていた事が実現したものです。公開までに紆余曲折ありましたが、もうすぐ日本でも公開になります。奇妙な映画ですよ。海外の映画祭に参加すると自分がますます作品の作家なんだと認識しますね。監督は俳優やプロデューサーよりも丁重に扱われて、スポットライトを浴びながら燦然と舞台に立って挨拶をします。いろんな人の意見を調整して映画を作り上げ映画祭に向かうと、すべての責任を請け負って実行した最高指導者として扱われます。それはもう緊張します。下手するとブーイングの嵐ですからね(笑)。どんな言い訳も許されないし、ひどい言われ方もしますが、栄光を受ける事もあります。『自分がこの作品の作者なんだ。確かに撮ったんだ。』と感じることができる瞬間ですね。こんなに褒めてくれるならまたこの人たちのために作ろうと決意したり、反対にこんなにひどいことを言われるなら次はみてろよと思ったり、どんなことでも次の作品を作る原動力をもらえます。」

最後に今映画監督を目指す若い人たちへ、黒沢監督からのメッセージを預かってきた。それは、不本意に作品の権利を奪った会社側と戦ったことのある黒沢監督だからこそ言える重みのある言葉。日本の現実はまだ暗いが、その中で見失ってはいけないものを監督は教えてくれた。

「僕が唯一できるアドバイスは『監督に作品に対する権利はありません。』ということです。権利を撮ることも重要ですが、自分の作品を撮ることがより重要です。自分の作品を作っていく過程で、“権利”という言葉は強すぎるかもしれないので、“自分が思っていること・やりたいこと”と言い換えますが、そう言ったことをどんな手を使ってでもいいから細かく実現していって下さい。権利やお金の問題はもちろん重要ですが、『だれがどう見てもこれはこの人の映画だよ!』と語られることを目指してください。これが最大の力になりますし、作品が監督のフィルモグラフィーの中で輝ける1本としてずっと残ってくことが権利以上に重要だと僕は思います。」

●11月4日(土)〜17日(金)
連日21:00〜 ユーロスペースにて 特別限定レイトロードショー!
11月4日(土)・5日(日)・11日(土)・12日(日)の4日のみ朝9時よりモーニングショー有 佐藤真監督ドキュメンタリー『映画監督って何だ?』モーニングショーのみ本編に引き続き特別併映(38分)
*劇場窓口にて、前売り券¥1,000(税込)〈大島渚のポストカード付〉絶賛発売中!
●地方劇場公開決定!
・名古屋シネマスコーレ 11月4日(土)〜11月17日(金) 朝10:20〜モーニングショー
・大阪第七藝術劇場 12月上映予定
・京都シネマ 2007年2月上映
 

執筆者

林 奏子

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