19世紀末のウィーンに生きた天才画家、クリムトのイマジネーションの世界『クリムト』ラウル・ルイス監督インタビュー
それは誰よりも美しく、それ故危険な世界——。
19世紀末、芸術家が溢れる街であまりにもスキャンダラスに生きた天才画家・クリムト。
時代の先を見つめ、タブー視されていたものをこともなげに描く彼に対する人々の興味は失せることがなかった。
批判、賞賛、成功、挫折。
孤独の中で恋人とモデル達に愛を欲した彼の魂は、常にファム=ファタル(宿命の女)を探し求めていた。
混乱の中でもがく彼は、やがて現実と空想の区別がつかなくなり、自分という存在さえも見失っていく…。
あまりにも有名なクリムトを、彼の精神世界という独自の視点で捉え、繊細で大胆なタッチで夢と現を彷徨うその世界を描いた映画『クリムト』。
まるで罠のように隅々に仕掛けられているディテールが観客を彼の世界へと惹き込み、離さない。
誰もがその感覚に酔いしれ、再び求めるようになる。
まさにクリムト自身の作品のような映画を生み出したラウル・ルイス監督にお話を伺いました。
——現実と虚構の世界の境界線のあやふやさが非常に絶妙でしたが、監督はあのような世界を見たことがあるんですか?
「私はあのような世界を見たことがあると言わなければならないでしょう。私は人々があまりにも安易に覚醒している時と眠っている時とを完全に分離しすぎていると思うんです。ボルフェスという作家が自分の師と崇めていたマセドニオ・フェルナンデスという作家がいますが、彼は”目を開いているからといって、全て覚醒しているわけではない。”と言っています。つまり目覚めている時にも眠っている部分があるし、眠りの中にも目覚めている部分はあって、それは相互に錯綜関係にあるということです。私にとって映画とは夢の効果を誘発する芸術です。」
——夢の効果を誘発するとは?
「映画の中においてストーリーが語る説話の効果の部分を縮小し、ありきたりのストラクチャーを辿らないようにするんです。そうすると夢の効果が生まれてきて、映画が夢見るようなものになります。ストーリーテリングの中には明らかにストーリーの一要素だとわかるものがありますよね。例えば殺人事件が起こったならその事件が起こったという事実、誰が殺したのかという事実というようなものです。このようにストーリーの中で明白な部分は言わば人間の中のインテリジェンスな部分ではなくて、インテレクト(知力)に訴えかけるものです。この2つはお互いがお互いの中に存在するものなんですが、インテリジェンスの方は出来事を夢をも含めて展開させていくんです。私の作品はストーリーの図式が毎回動くものとなっているので、観る人は毎回違う映画を観ていると言えるのです。そしてそれぞれが違う夢を見るようになっているとも言えるでしょう。」
——では今生きている世界をどのように捉えてらっしゃいますか?
「私も皆と同じ世界に生きていますよ。でもその世界の見方が皆と少し違うのかもしれませんね。」
——作品中では鏡をよく使われていましたよね。それにはどういった意味があるんですか?
「確かにこの作品の中では鏡をたくさん使っていますが、使い方は様々に変えています。鏡の哲学者だとか鏡の物理学者とか言われている人々がいますが、彼らは世界全体が鏡だと考えていました。また、鏡と言えばアンドレ・ブルトンという詩人が第二次世界大戦中に作られた反日的な映画を引用していたことを思い出します。その映画では日本人のスパイがアメリカに侵入して鏡に自分の姿を映すと増殖していくように見えたんです。そうしてアメリカ中に広まっていって結局はそのスパイが大統領に選ばれ、戦争に勝つというものでした。この映画に対してブルトンが書いたのは”この映画に描かれているように世界は創られているのだと思う。”ということでした。鏡の中で増殖していく人という世界観の方が実際の世界に似ていますし、例えばニュートンやデカルト達が描いたような機械的主義のような世界よりも正しい世界だと思います。いずれにせよ合理的な世界像よりもこっちの世界の方がおもしろいでしょう。」
——では鏡は監督にとってどういうものなんでしょう?
「鏡の中には”鏡”と言う物体自体を乗り越えた思想があります。映画は記憶を持っている鏡であるという言い方がよくされますが、私は”映画は空想力を持っている鏡である”と付け加えたいです。また、鏡に関する神話や迷信はたくさんありますよね。水鏡に映る自分の姿に恋をしたナルシスの神話などです。『クリムト』の中に出てくる鏡にも、一つだけ迷信に基づいているものがあります。それは鏡の後ろには必ず誰かがいて鏡の向こう側からあなたを見ている、というものです。鏡の向こうは不思議の国のアリスのような逆様になった世界なのかもしれません。それは全くの謎ですが、鏡自体神秘的なものであるので、鏡自体が100%映画的なものだと言えると思います。しかし同時に、私は例え映画が鏡として世界を映し出したとしても全くそのままに再現するのではなく、カメラの軸を少し変えるだけで全く別の世界にすることができると思っています。」
——監督は”この映画の中で死は喜びである”とおっしゃってますが、死は美化できるものだと思われますか?
「ニーチェの引用になりますが、いずれにせよ死の中には変貌があります。つまり死は歓びではないにしろ、一つの解放であるということです。」
執筆者
Umemoto