“パプリカ”とは若く才能豊かなセラピスト、千葉敦子が、極秘のセラピーを行う時のコードネーム。普段の彼女は、精神医療研究所でサイコセラピー機器の開発・研究に取り組む、知的で大人の魅力を漂わせた優秀な研究員。だが、夢探偵パプリカとしてクライアントの眠りの中に姿を現す時、彼女は容貌も正確も一変し、キュートで解放的な少女となって、迷える心を解決へと導いていく・・・

映画『パプリカ』の世界に一度足を踏み入れると、自分が今いる場所が現実なのか夢なのかさえも曖昧になってくる。他人の夢の中は覗き見ることができないけど、あなたもこんな夢を体験したことがあるのでは?なんというリアリティ!そして随所に散りばめられた遊び心!何度も繰り返し見たくなる傑作がここに誕生した。

映像化不可能と言われた筒井康隆原作の傑作SF小説『パプリカ』の世界を今 敏監督はどのようにイメージ化していったのか?魅力的なキャラクター達にどのように息を吹き込んでいったのか?そして、9月に行われたヴェネチア国際映画祭での反響は?気になるところを今監督に伺いました。














——筒井先生から『パプリカ』について直々にお話があったそうですが、その時にどう思いましたか?
まず、筒井先生と対談する機会を得られるということで、私はすでに大喜びの上に緊張していたんですよ。実は最初に監督した『パーフェクトブルー』の次回作として『パプリカ』を映画化したいなと言っていたことがあって、それは実際何も動くには至らなかったんだけど、縁のある名前が何年も経て、ましてや先生ご自身の口から出たっていうので、勝手に運命を感じることにしました。本当は別に用意していた企画もあったんですけど、「今、『パプリカ』を作るのだ!」という風にと一気にそこから思いましたね。

——筒井先生の作品の中では特に『パプリカ』がお好きなんですか?
そうですね。色々面白い作品はあるんだけど、ああいう風に夢の中まで入り込んでいくのが、一番面白い。まして「パプリカ」というキャラクター自体がキャッチーなところがあるんで、アニメーションなり映画にするには可能性があるんじゃないかなあと。ただ難しい作品であることに変わりはないと思うんですけどね。あまり原作に寄り添った形で、原作を再現したり翻訳したりする発想は無かったですね。『パプリカ』という枠を借りてその中でイメージをどれだけ展開できるか。あえて違える必要はないとは思うけど、全く違うものになるくらいじゃないと、きっと筒井先生も面白くないだろうなと思っていましたね。

——筒井先生からは映画化についてお話はあったんですか?
一切無いです。内容的なことに関するリクエストや要望等は特になくて、「協力できることがあればなんでもしますよ」というありがたいお言葉を頂きました。

——「夢」の世界に対して特別な思いは以前からあったんですか?
もちろん夢そのものも面白いなと思うし、一時期は夢日記をつけていたこともあるし、夢に関する精神分析や心理学的な本も好きで読んだりはしているんですよ。だからといって、夢そのものを描くなんて大それたことができるわけじゃなくて、あまりにも難しいことに変わりない。ただ、夢そのものというよりも「夢」と「現実」の関係が好きなんですよ。夢が妄想であっても構わないし、例えば、「現実」と「映画の世界」のような、要するに二重性が好きなんですよ。そういう本来、截然と別れているはずのものが混濁してくるとか。それらを同時にパラレルに描くことそのものが好きで、描き方というか考え方が好きなんだと思います。それはある人物が経験している現実の時間とその人の頭の中で起こっていることを、もしパラレルで描ければ、夢であろうが劇中映画であろうがそれほど問題ではない。ただ夢となると本当に奥深すぎて、どう描いたもんだかさっぱり分からない。なので『パプリカ』というストーリーに乗せて、夢を利用させてもらう。その中からどんなイメージが出てくるかは自分では選べない。そこまでいって自分で考えてみてこんなものが出てきた。これはどうつながるんだろうっていう連想をつなげていくやり方そのものが、夢っぽくていいんじゃないかなとは思ったんですけどね。大変苦労しましたけど。

——パレードシーンのイメージはどのようにできたんですか?
私は平沢さんの音楽から触発されることが多くて、ああいう無機物たちのパレードイメージはたぶん音楽にあるような気がするんですよ。ただ、言語的な説明をすれば、「今までに人間達から捨てられてきてしまった物たちが大挙して砂漠の向こうからやってくる」ということなんです。

——映像と言葉のイメージはどちらが先に入ってくるんでしょうか?
それはどっちもありですね。言葉から触発されて絵が出てくることもあれば、なんだか分からないけど、絵のイメージからそれに流れを与えるために言葉をつけることもあるだろうし。決まりはないですね。だいたいアイディアを出そうと思って出す方ですね。「よしっ、出すかな」って。もちろん日常生活でふいに思い浮かんだりとかってあるんだけども、そういうのはいちいちメモしたりはしないですし、そういうのが沈潜して発酵して、出そうと思って出すんですよ。やろうかなってときに何が出てくるかを楽しむことにしています。

——パレードのキャラクターがそれぞれすごく魅力的ですが、色々な意図を持って選んでいるんですか?
そうですね。確かにこれは良くてこれはダメって言うのはどこかあるんだけど、なかなか言葉にはしづらいんですよね。変なものっていったところで。何をして変でここに合うかっていうのは、あまりにも人それぞれ解釈が違うんで。基本的には絵コンテの段階でかなり描きましたね。アイディアを引っ張り出すための方法として、このカットでは動物の置物とかそれにまつわるもの、「鬼瓦」、「福助」、「人体模型」、「ロボット」っていうのは基本的に人を模した人的なもの。あるいは宗教と戦争という風にいうと、「大仏」が出てきて、「鳥居」が歩いていて、「鎧武者」なんかがいる。全部それで揃えちゃうとまたつまらないですけど、ある意味枠を作らないとアイディアって出てこないんですよ。なので、それは今までの経験則として、でたらめなものなり変なものをつくる時は、むしろ理性的に考えることも必要だなと思うんですよ。

——「カエル」が印象的だったんですが
カエルはですね、実はああいう場所があるんですよ。キッチュな公園みたいな所にカエルの楽団があって、その写真を見て、こいつらが歩いたらおもしろかろうと触発されたと思うんです。
なんかこう変なものを書くに当たっては、WEBとか色々探って資料、素材を集めましたけどね。あれ結構大変なんですよ。例えば何でもいいからって“お茶の缶”でもいいかっていったら、それは単に缶であって面白みがないし。ある程度の大きさで歩いてきて面白くてリアルなものっていう風になると、例えばドアが歩いて来たって、ただの板にしか見えないんで。アニメーションの画面の上ではそれほどインパクトはないので、結構選ぶのは苦労しましたね。

——劇中で描かれた人間の夢のイメージがコントロールされることが実際にあると思いますか?
感動の仕方だって既にメディアにコントロールされている世の中なのに、イメージがコントロールされる恐怖ってもうなっているじゃないですかとしか言い様がないんですよ。そういうイメージはもちろんこの作品に投影していますけど、メディアのコントロールってそんなに生易しいものじゃないと思います。どれだけ自分たちの感受性から考え方、批判の仕方まで全てメディア、それは、誰かコントロールしているヤツがいるって話じゃないですよ。結果的にお互いがお互いをコントロールしあっている形にはなっていると思います。例えば、テレビの恋愛ドラマは、昔は実際にある恋愛から想定されうるシチュエーション等を書いていったと思うんですけど、今はおそらくテレビドラマで語られたセリフが現実に反映して、どっかで聞いたようなセリフを最もらしい顔して言っている人たちがたくさんいると思うんですよ。じゃあ、どっちがどっちを影響したかっていう話にはもうならなくなっていますよね。それはテレビにコントロールされていると言ってもいいんですよ。例えば、一時期歌謡曲の中で、「いつかきっと翼を広げて自由に大空を駆け巡る君」みたいな、戯けた歌詞がずいぶん繰り返し繰り返し流れていましたけど、それに影響された人たちが実際業界やなんかで若い人として見ているわけだし、こっちは「そんな根拠のないこと誰が信じてるんだよバカ」と思っていたけど、子供のうちから刷り込まれたらそれはそうなるんですよ。「なんの根拠もないけどいつか僕の才能が花開く。できたらいいとこ見つけてくださいね。」それはコントロールされていると言っても私はいいと思うんですよね。

——テレビと映画を描く時の明確な意識の違いはあるんですか?
テレビはこうだ、映画はこうだというよりもアイディアをどう転がしていくかが、テレビ的か、映画的かというのはあります。テレビは1回しか作ったことがないし、私がテレビで期待することは、次が楽しみになるっていう、次週までの間も含めてテレビを見るっていうことだと思うんですね。例えば『ツインピークス』が面白くてたまらなかった時は、「このあともう眠いけど、ビデオ屋に行って借りるのだ、なぜ六巻がない!そういえば駅の向こうにもレンタルビデオ屋が!(笑)」極端に言えば連続ものの面白さってそういうことで。例えばそれがつまらないオチがついていたとしても、その途中の楽しみは十分だと思うんですよ。でも映画って1回で見てしまうものですから、まとまりとしてやっぱり面白みがなくちゃいけない。そういうテレビの面白さは映画ではできないけど映画の密度とかっていうのはテレビじゃできない問題だったりするんで。どっちもどっちでネタによるっていう感じですね。

——ヴェネチア国際映画祭の現地の反応と感想について
ヴェネチア映画祭ってあまりにもメジャーで、歴史もあって権威もある。ましてコンペ部門に自分が監督した作品が関わろうなどとは思ったこともなかったんで、まずそれが光栄でしたね。実際に行ってみてレッドカーペットの前で車を降りたら、どうもファンなんだろうなっていう人が、すごく名前を呼んでくれたりして、本当それは照れくさいというより驚きますけどね。
初めて一般お客さんの前に出す機会で、映画が始まって電気が付いた時に「お客が半分しか残っていなかったらいやだなあ」と思ったんですけどね。上映前満席になって、エンディングのテーマが始まった途端に、大多数の人が立ち上がって二階席にいる私の方に向かって拍手してくれたのには、ほっとしました。そんなに長いこと拍手されて、7分間だったらしいんですけど。笑顔を続けるのは苦痛なんだけど(笑)。7分間も拍手があるんだったら、もう4、5人現場スタッフがいてくれたらな。私にとって二年間一緒に作ってくれたスタッフが横に誰もいないというのは申し訳ないなってことなんですよ。拍手をおみやげにするのもなかなか難しいんで。ずっとスタッフのことを考えていましたね。おかげさまで拍手をもらいました。大半は私のお陰ですけどね(笑)。いや、ウソですけどね。本当にね、やっぱりスタッフの顔を思い浮かぶんですよ。拍手や声援をもらったりするといつも思うんですけど、私一人でもらって悪いなっていうのは。でも、ヴェネチアの印象を一言で言うなら、おいしかった!と。私はひたすら食べることに忙しかったですね。

——何がおいしかったですか?
パスタもリゾットもワインもチーズもボルチーニ茸も白トリュフも魚も。思い出すとああ食べたいなあ。いいですねえ、遠いけど。

——じゃあまた次回作もヴェネチアに
それは私の意志じゃないんでね。選んでくれたらいいなあと思いますけど、時の運といいますか、できあがる時期のタイミングとかほかの映画祭に出ちゃっていたらダメっていうのもあるし、作品の力だけで決まるものじゃないないなあとは思いますね。

執筆者

Miwako NIBE

関連作品

http://data.cinematopics.com/?p=44381