和歌山県田辺市で暮らす女子高生・夏美は突然の交通交通事故でマキ、理沙、美香を亡くしてしまう。しかし奇跡が起こり、3人は決められた時間だけ幽霊としてこの世に留まることになった。夏美と共にそれぞれの願いを実現させようとする彼女達は、互いに反発しながらも近づいていき、これまで感じることの出来なかった確かな想いを手に入れる。果たしてこの世で最後に見るものとは・・?残された時間は彼女達の手から、サラサラと落ちていく。

この物語を彩るのは田辺の美しい風景。夏美達の目を通して鮮やかに色褪せていく風景は、観る者の記憶の風景に重なる。ストーリーと景色の融合がこの映画をただのファンタジー映画ではなく、息が詰まるほどに懐かしさを覚えさせる映画にしているのだ。

そんな作品を5年もかけて完成させたのは、田辺出身の太田監督。どうしても田辺の風景の中でこの映画を撮りたかったという熱い想いが映画に反対していた町の人の心を動かし、この映画を誕生させたのだ。たくさんの人の想いがつまったこの映画について、監督に話を伺いました。




——舞台は和歌山県田辺市なんですね?
「ええ、僕の生まれ故郷です。でも、4歳までしか住んでなくて、その後は和歌山市に長くいました。でも、田辺には伯父夫婦がいたので、その後も何度も遊びに行ってよく知る慣れ親しんだ街という印象で、特に感じるものはなかったんです。それがアメリカに留学して、ロサンゼルスに住み、USC(南カルフォルニア大学)の映画科で勉強。ニューヨークやフロリダにも観光で行ってみて、6年ほど暮して分かったんです。実はあの田辺の風景というのは、凄く貴重で個性的なものだと!今も昭和40年代の景色が残り、古い木造の家や瓦屋根がある。汚くて狭い通りなのに、何か懐かしく暖かいものがある。あんな感じの街は絶対にアメリカはないんです。当たり前のことなんですけど、その当たり前を実感しました。なので、いつか田辺を舞台に映画を撮りたい!と20年ほど前から思っていたんです」

——住んでいた頃と今の田辺市に違いはありますか?
「田辺市はまだまだ懐かしい場所がたくさんあるんですけど、近代化の波の中で古い素敵なところがどんどんと失われています。例えば車がすれ違えない狭い道も魅力なのですが、それが広げられてアメリカのサンセット大通りのようになってしまったり。古い木の家とか板でできた塀とか、トタン屋根とかいった昭和40年代の懐かしいものがあるのに、それらが次々に壊されて新しくなっているんです。撮影協力を求めて町の長老のような方にもお会いしたんですが、「古い汚い建物を壊して、新しくすることが町のために大切」と言われました。でも、そんな古くて汚い場所や建物こそが美しく素晴らしいんです。東京にいる若い子たちに田辺の写真を見せると『凄い!こんな素敵な町があるんですか!』と感激します。けど、そんな場所がどんどんとなくなって行く。だから、せめて撮影することで記録として残したいという思いもありました。そして何よりも、そんな懐かしい素敵な場所こそが、『ストロベリー』の物語に相応しい舞台となるので、徹底して新しい場所は避け、古く汚いところばかりで撮影したんです」

——構想に5年くらいかけたそうですね?
「構想を5年間練っていた訳ではなく、すぐに製作費が集まらなかっただけなんです。(笑)お金を集めるには3つの大きな条件があります。有名俳優の出演。ベストセラーの原作権を押さえる。そして有名監督の起用。今回の「ストロベリー」は見事に3つともありませんでした(笑)。有名俳優のOKなんて取れないし、シナリオは僕が書いたオリジナル作品だし、何より監督は僕自身ですから超無名です!(笑)でも、どうしても撮りたい映画だったので、映画会社やビデオメーカー等を訪ね歩いてスポンサーを募ったんです。でも、さらに第4の問題が出てきました。映画会社の人たちは和歌山県が舞台というのに難色を示したんです。マイナーで誰も知らない町で映画を撮っても話題にはならないし、誰も興味を示さないと言われました。青春映画なら横浜とか、神戸とかがいい。或いは奈良や京都を舞台にするなら、知名度も上がる。でも、和歌山なんて誰も興味はなし、行きたいとは思わないというんです。確かに、和歌山県って知名度が低いし、どういう町なのか?よく分からない。まして田辺市なんて、東京の人は聞いたこともないでしょう。関西でも印象の薄い県です。大阪は『食い倒れ』と『吉本興業』の町。奈良・京都は『古都』。神戸は『港町』。それぞれに個性的なイメージがあります。じゃあ、和歌山は?というと何も浮かばない。友人なんて「毒入りカレー事件!」と言うし、全然印象がよくありません。そんなこともあって和歌山県田辺市で撮影するということも、大きな障害になって、製作費を出そうという会社はなかなか現れなかったんです。それに、その田辺の町さえも、当初は映画撮影を拒否していました・・」

——なぜ、協力を拒まれたのでしょうか?
「実は以前、『KUMAGUSU−熊楠−』と言う映画が田辺で撮影されたんです。町も製作費を支援して、市民が総出で応援。バックアップしました。それが撮影途中で資金が尽きて中止。製作サイドは町側に何の説明もしないで、東京に帰ってしまったんです。それで町の人たちは『あれほど応援して、お金まで出したのに!』と激怒。それ以後、田辺市で映画は禁句。映画人への信用は全くなくなりました。だから、町の実力者の方や企業の社長さんを訪ねても、「映画だけはアカン!」と言われ、会ってくれない人もいました。観光関係の団体や市役所にもお願いに行ったのですが、もう全く相手にされないような状態。でも、当然なんです。映画界の人間が本当に酷い事をし、町の人たちの信頼を裏切った訳ですから、並大抵のことでは受け入れてくれないと思えました。でも、3ヶ月に1度、田辺に通って「映画を作りたいんです! 協力してください」と言って、いろんな方々を訪ね歩いたんです。」

——でも、問題はさらに増えて行ったんですよね?
「ええ、僕は田辺って凄く素敵な美しい町だという思いがあったんですけど、いろんな方のお話を聞くと、『田辺は何もない町や。古くて汚くて道も狭い。若い子らもプライドを持てへん。見所のある子は皆、都会へ行ってしまって帰ってけえへん。寂しいことや』という方が少なからずいたんです。でも、それは違う。古くて汚くて、狭いから素敵なんだ。その風景が懐かしく、心癒される。だから、まず、田辺の良さを再確認してもらいたくて、スチール写真を何百枚も撮りました。ロケしたい場所を片っ端から撮って、町の方に見てもらったんです。すると、何人もの方から『おお、なかなか奇麗やないか?』という反応が返って来ました。次にムービーのカメラマンに無理を言って、一緒に田辺に行ってもらったんです。ビデオで町を撮ってもらい、編集して「天神崎」編とか、「東陽中学」編とかを作って音楽もつけて、見てもらいました。さらに景色だけでは、映画をイメージしにくいので、友人の女優さんにもお願いしてノーギャラで、田辺まで行ってもらい、『ストロベリー』のイメージ・シーンを撮影。これも編集して音楽をつけて見てもらったんです。そんなことを2年ほど続け協力を呼びかけ続けましたんですが、なかなか、支持してもらえなくて、もう駄目かもしれないと思ったこともありました。が、やがて町のニューリーダーとも言える方々が興味を持ってくれたんです。『田辺の町のことをそこまで思ってくれてんのに、私らが黙って見ている訳には行きませんから!』と、次々にいろんな人を紹介してくれて、仲間を集めて話を聞いてくれたりして、輪が広がって行きました。ニューリーダーの方々は一度故郷を出て都会に行き、戻って来たUターン組が多かったんです。だから、僕がアメリカに行って気づいたのと同じように、見慣れた町が実は素晴らしい場所であることを分かってくれていました。こうして『ストロベリー』はどんどん前へ進み始めたんです。やがて、製作費の寄付を募ろう!といってくれて、皆があちこち飛び回って様々な団大や公共関係にも働きかけてくれ、資金を集めまでしてくれました。もう、そのときは涙、涙でした。そのことがきっかけとなって東京でも資金が集まり始めて、製作会社で『感動的なシナリオだから、協力しましょう!』と言ってくれるところとも出会えて、ようやく5年かかって『ストロベリー』はスタート。撮影が開始できたんです。」

——町の人がこの映画をご覧になったときの反応はどうでしたか?
「嬉しかったことがあるんです。撮影前は『こんな汚いところで撮らんといてくださいよ!』とか言ってた年配の方が、映画を見たあとは『田辺は奇麗なええ町やなあ! ビックリしました!』と言ってくれました。ある会社の社長さんに『趣のあるあの路地はどこで撮影されたんですか?』と聞かれたんですけど、それは彼の会社の裏の道だったんです。いつも見ているのに映画で見ると、全然違って素敵だったので分からなかったと言ってました。驚いたのは若い世代で、町を出たことがないのに、密かに田辺市の風景は素晴らしいと思っていたという人が結構いたことです。撮影中にも地元のボランティア・スタッフの子が『監督。僕の一番好きな路地があるんです。帰り道なんで見てもらえますか?』とか言ってくれました。ああ、若い人たちはこの町の素敵な部分を分かってくれていると思えて、凄く嬉しかったです。それでも親から『この町は何もない。自慢できへん』と言われて、そう信じていた若い子たちもいて、都会へ行っても『田辺出身です』と言い辛いかったという女の子がいました。でも、『ストロベリー』を見て、『故郷は自慢できる素敵な町だと分かった。これからは自信を持って田辺市生まれですと言えます』と、いう話とかも聞き、本当に感激しました。映画というのは本質的な魅力を引き出す力があるんです。それによって田辺市の魅力がスクリーンに映し出された。町を見慣れた人も旅行者の視点で、新鮮な気持ちで風景を見る事ができる。映画の凄いところだと思いましたね」

——古い木造校舎が素敵ですよね。
「あれは昭和初期に建てられた東陽中学校の校舎なんですけど、本当に素敵な建物なんです。中に入ると古いのに木造の廊下がピカピカ! 何とも言えない懐かしくも優しい感覚に包まれて、タイムスリップしたような気になります。スタッフもキャストも訪れた人は全員感動して、しばしその場に佇んでいたほど。主役の佐津川愛美さんのファーストシーンもそこなんですけど、いつも礼儀正しい彼女が現場に来たとたんに、あいさつも忘れて『監督! この学校。ホント凄いですね!』と言ったくらいで、ただ、懐かしいというだけでなく、若い人たちも感銘を受ける素敵な校舎なんです。ただ、何年か前からあの木造校舎を壊して鉄筋にしようという話がありました。『ストロベリー』で一番撮りたかったのはあの校舎で、物語のメインともなる場所。壊される前に製作費を集めて早く撮らないと!と焦っていたんです。それと映画に登場させることで、その良さが再確認されて、移転して記念館として保存ということになるといいなという願いもありました。でも、結局、来年取り壊されることが決定したんです。本当に残念ですけど、せめて映像で記録できたことは良かったと思っています」

——何でそんなに懐かしいと感じるんでしょう?
「科学的ではないんですけど、日本人のDNAの中に、そういう遺伝子が入っていて、経験しなくても心に触れるものがあり、懐かしいと感じるんじゃないでしょうか? 17歳の佐津川だけでなく、同じ17歳の芳賀(優里亜)。15歳の谷村(美月)、14歳の東(亜優)もみんな「懐かしいーーーーーー!」と言ってました。お前ら生まれてないだろう!と突っ込みそうになるし、1990年代生まれの彼女らが昭和初期に建てられたものを懐かしく感じる訳がないんですが、やはり、そうとしかいいようのないものが彼女らにもあったんだと思います。きっと日本人が忘れてしまった大切なものや、建物に染み付いた歴史や思い出が若い人をも感動させるんでしょうね?」

#——本編で話される台詞は和歌山弁ではないんですね?
「実は意識してそうしなかったです。一昔前の地方映画というのは、必ず方言でしたよね? でも、方言を使いリアリティを高める場合は、その地方で起きた本当の物語を描く場合が多いんです。或いはその土地の魅力や特色を全面に打ち出した作品。最近、多い町おこし映画にはその手の表現が多様されます。でも、『ストロベリー』はそれとは違う表現が必要だったんです。もちろん、僕も田辺市は故郷だし大好きな町ですが、田辺はもはや田辺市民や僕のような出身者だけの町ではない重要なポジションにあると思えます。その背景に80年代のバブル波。地方交付税等が存在するんです。それらによって地方の風景は新しいけど皆、同じになってしまったと思えます。開けた駅前。同じような文化住宅。おしゃれな音楽ホール。モダンな形の市役所。昔、ながらの日本の風景がどんどん失われています。帰省しても、何か小型の東京のようなイメージで、古里という感じがしない。旅行で訪れても、皆、同じような町になっている。それに対して田辺市は未だに昭和40年代の風景がたくさんあります。通りにはホウロウの看板が今も貼付けられたまま、互い違いに合わさった木造の塀とか、ペンペン草の生えた土手。そして木造の東陽中学の校舎。昔はどこにでもある風景だったのに、それが今の日本で本当に少なくなってしまったのです。でも、その風景を見るときに若い人も懐かしいという。大人は心癒され昔の記憶が蘇る。それはもう田辺市出身の人だけでなく、日本人にとっての古里だと思えるんです。だから、『ストロベリー』はこれが田辺です!という形で描くのではなく、いろんな地方の出身の方が見ても、それがまるで自分の故郷を舞台にした映画を見ているように、思える作りにしたかったんです。見る人が古里に帰ったような、思い出の中にタイムスリップしたような感覚を持ってもらうためには、和歌山弁より標準語にする方が、多くの観客が物語に入り易くなると考えました」

——夏美が8㎜をまわす設定は?
「ひとつには時代感を出すためです。昭和40年代というのはまだビデオはなくて、8㎜カメラが流行っていた時代ですから。あとは僕自身も学生時代に8㎜をまわしていたので、その想いを込めたいというのもありました。また、映画全体が8㎜映画を見ているような味わいのある懐かしい感じを持たせたかったので、8㎜カメラや映写機を多様してみたんです」

——回想シーンはどういうものを撮ろうと思ったんですか?
「あれらのシーンで日本人が持つ夏の懐かしい風景を描きたいと思ったんです。打ち上げ花火、スイカ、川で泳ぐ子供たち、夏祭り、海で見つめる夕陽と、誰しもが経験したものを取り上げてみたんです。少女たちの思い出を見ると同時に、大人はそれに自分の経験を重ね、当時の友達を思い出す。そんな想いをシンクロできるような描写を狙ったんです」

——少女たち世代の目線で上手く描かれていますが、気をつけられたことは?
「そこが難しかったところです。男性作家が女の子を描く場合、どうしても男性からの視点で少女を描いてしまいがち。憧れとか女の子はこうあってほしいという理想を重ねて書いてしまう。そうすると同世代の子が見たときに『私たちはあんなんじゃない!』と反発を食うんです。その辺を気をつけて、10代の女子高生の視点で描かないといけないと注意して書きました。何とかうまくいったのは、演劇学校で講師の仕事をした経験でした。印象的だったのは彼女らの三大神器がプリクラ、携帯メール、カラオケだったこと。なぜ、そこまで夢中になってメールしたり、手帳にプリクラ張ったりするか分からなかったのですが、彼女らとの交流で次第に分かってきました。実は今の10代はもの凄く寂しい想いをしているんですね。喪失感、孤独感が強い、それを埋めるためにメールで友達とやりとりする。友達がいる1人じゃないんだと実感。張った何枚ものプリクラを見ることで、私にはたくさんの友達がいるんだ・・と安心する。カラオケで友達と一緒に歌う事で連帯感を持ち、自分の存在を感じる。モーニング娘。の歌が流行ったのは、たぶん、カラオケで8人以上でも一緒に歌えるからだとさえ思える。人が歌う間も待たなくてもいいし、みんなで歌う方が連帯感も強い。それが分かって来ると、ああ、女の子たちは孤独なんだ。寂しいんだ。機械を使ってその想いを埋めようとしているんだと感じたんです。10代の主人公たちの気持ちを書くに当たって、その『孤独感』や『喪失感』。『友達を求める心』。『大人が理解してくれない寂しさ』をきちっと描こうと思いました。その辺が10代の子たちが見て共感してくれた理由じゃないかな?と考えています」

——女子高生を演じる俳優さんたちには、どんなふうに演技指導したのですか?
「何もしてないんです。先の答えの続きになるんですが、10代の子の気持ちはこうだからね!何て40代の男性が言っても説得力がないでしょう?(笑)シナリオに寂しい気持ちを書き込んだ。あとは現場で彼女らがそれを自分に置き換えて演じてくれれば、より10代の感性が出るはず。だから、撮影では状況と前後のつながりだけを説明して、『だとすると、どんな気持ちかな?』と彼女たちに聞くんです。と、『悲しい・・』と言うえば、だったら、その気持ちで演じて!というだけ。最初、彼女たちも戸惑ってましたけど、皆、非常に理解力がある子なので、すぐに対応してくれました。芳賀(優里亜)さんなんかは、台詞を付け加えたいとか言い出すし、佐津川(愛美)さんは、この台詞はこんな動きの中でいいたいと主張。谷村(美月)に至っては、泣かなくてもいいシーンでまで泣いてしまう。でも、皆、自分の役と物語を理解した上での行動なので、よりリアルに、より感動的になるんです。普通ではあり得ないんですが、台詞を加えたいといっても、『OK! OK!自由にやっていいよ!自由行動!』なんて答えていました。けど、それは狙いで、ドキュメンタリーの効果を考えたんです。だから、映画の中で4人はイキイキと話し、飛び回っています。途中から涙なしで見れないと言ってくれる人が多いのですが、それもやはり佐津川愛美たちが抱える10代の寂しさや悲しみをリアルに表現し、撮影現場でも本当に友達を想い、助け合い、がんばる姿が演技にもダブるからでしょう。本当にドキュメンタリーなんです。それが見る人の胸を打つんでしょう。10代の目線で描く事ができた一番の理由もそこだと思っています」

——タイトルに「いちご」の意味を着けたのは?
「いちご=ストロベリーは小さくて、きれいで、可愛いけど、食べるとすっぱい。そして、ぶつけるとすぐに傷ついてしまう。女子高生のイメージと同じだなと思えたからです!」

執筆者

umemoto

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