文化大革命が終焉を迎え、戻ってきた父は息子に自らは断念せざるを得なかった夢を継がせようとした。下放政策によって強制労働についていた父は画家だったが、手を潰され、絵筆の持てない身になっていた。9歳の息子シャンヤンは、6年ぶりに戻るや何よりも絵を描くことを強要する父に反発する。
「スパイシー・ラブスープ」「こころの湯」で多くのファンを持つ中国新世代の監督チャン・ヤン。彼が最新作で描いたのは、1970年代半ばから90年代半ばにかけての30年間の激動の中国・北京を舞台にした父と子の葛藤の物語だ。父子が暮らすのは、北京出身の監督自身も思い入れ深い胡同(フートン)と呼ばれる古い町並。再開発の荒波のなかで減少の一途を辿る胡同を背景に、旧世代の父と新世代の息子はどんな物語をつむぐのか。主人公同様に胡同に育ち、父親と同じ職業についた監督に本作への思い入れをうかがった。

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——まず、この映画を撮ろうと思ったきっかけをお聞かせください。
「映画監督であるかぎり、皆、自分が経験してきたものをなんらかの形で映画に表現したいという意欲というものを持っていると思います。僕には、自分の幼年時代について童年往時という感じで現代までをきちんと描こうという意図がありました。特にこの20年から30年の間、中国には劇的に変化し、自分はそれを間近に見て経験してきたわけですから、その中国の凄まじい変化をきちんと見直したかったんです」
——30年間の描写の方法について、監督は、10年毎にポイントを決めてそれぞれを詳細に描くという方法をとっています。なぜそういう方法をとられたのですか?
「それはですね、やはり俳優を何人使うかという問題がけっこう大きかったです。子供の成長は早いのですが、9歳はこの子、12歳は別の子というように何人もの俳優を使うわけにはいきません。それが大前提にあるわけですが、ひとりに成長期の子供を演じさせるとリアリティに欠けてしまいます。
 3人の俳優でこのストーリーを組み立てようと考えたときに、脚本段階で、まず、ある年のある一日を描こうと考えました。たとえば、76年の春節にするとか、86年だったらある1日だけを選ぶというようにして、ある年のある1日を描くというアイディアもありました。が、その後、ある1年を取り出すことにしました。その1年間でその人物の変化と彼を取り巻く環境の変化をしっかりと描けるだろうと考えたのです。そうして、ごくシンプルな描き方をすることで、より説得力がでたのではないかと思います」
——監督は、お父様が映画監督ですが、この主人公のような葛藤があったのでしょうか?
「父子関係は、映画の中と僕の実際の関係は逆です。映画では、主人公は画家になるように無理やり絵をやらされますが、僕の場合は、環境的には影響は受けましたが、父から映画監督になれといったことは一切言われたことはありません。むしろ両親は、僕が文芸関係に進むのを嫌がってました。というのは、文芸界というのは、とにかく政治運動の標的になったのです。ですから、息子にはそんな目に遭わせたくなかったのでしょう。両親は、僕を理系に進ませようとしていました。ですが、結果的に監督という道を自分で選んだわけです」
——映画のタイトルに“ひまわり”を使った理由は? 主人公の名前シャンヤン(向陽)という名前は、一般的に多いのでしょうか?
「僕が幼い頃、庭にヒマワリが植わっていて、幼い頃の花の思い出といえばヒマワリだったんです。その頃、流行っていた歌に“ヒマワリ、ヒマワリ、太陽に向かう”というものがありました。太陽とは、当時、毛沢東のことを意味していました。その時代の子供には、太陽=毛沢東に向かうという意味でシャンヤンとかシャントン(向東)という名前が多かったですね。とても政治的色彩を帯びた名前なのです。ただし、この映画のなかで、僕はヒマワリにもうひとつ“希望”という意味合いを持たせています」
——近代化が進むにつれて、北京からフートン(胡同)が減少していますね。安全上の問題もあるそうですが、一方で保存するという動きもあるようです。監督ご自身のフートンについてのお考えをお聞かせください。
「もともと北京という都市は、元の時代に碁盤の目のようにきっちりと計画して作られた都市だったんです。ひじょうに整然と配置された街並みでしたが、それが大きく変わってしまいました。人口の増加という事情があって、仕方なく都市も肥大化したわけですけど、僕がひじょうに残念に思っているのは、ある建築家が、郊外にもうひとつの政治地区を作ってそこに政治や商業の中心を移転させ、古い北京の町並みを残そうと提案したのですが、その提言が採用されないままに開発が進んでしまい、昔の面影とまったく違った街になってしまったことです。部分的には昔の姿は残っていますが、全体的に見て昔の北京の町がなくなってしまったのはひじょうに残念です」

——同世代のジャ・ジャンクー監督も「プラットホーム」で同じ期間を描いていますが、これは世代的な特徴なのでしょうか?
「そうですね。この傾向は、我々同世代の監督に共通する傾向だと言っていいと思います。この点は、第五世代の監督たちと大きく違うところです。第五世代の監督たちは、あまり現代の生活を描こうとしません。彼らが描くのは、農村を題材にした映画や時代劇で、中国の古典的な面をテーマとして捉えた作品が多いわけです。彼らの作品には、ひじょうに個人的なものを描いたものは極少ないと思います。ところが、僕らの世代の監督は、自我のとらえ方から出発しているんです。だから、自分の目で見た社会の変遷を、どう描いていくか、映画制作によって自分と社会の関わりをしっかり見据えようとしている、そういう面があります」
——あなたが自我を意識したのは、いつくらいからですか?
「自我が強力になったのは、大学に入ってからですね。大学では、演劇が専攻でした。当時、比較的短い時期でしたけど、友達とロックバンドをやっていた時期もあります。あの頃は、演劇や音楽を通して自己表現をしたいという若者らしい欲求がありました。その後、映画のほうが自分にあった自己表現ができるのではないかと思うようになりました。僕が映画監督になっていなかったら、演劇か音楽で自我を表現していたと思います」
——中国と日本は、戦後もずっと複雑な関係なんですけど、来日に戸惑いはなかったのでしょうか?
「政府間のことと民間の個人的な交流はまったく違うと思います。日本人も中国人も、個人的にはすんなりと分かり合えるし、話のできる人たちです。僕たちは、個人の交流をきちんとやっていきたいと思います。僕の母は、留学生に中国語を教える仕事をずっとやってきました。僕が中学・高校の頃も、よく日本の留学生が家に遊びに来ていて、一緒にご飯を食べて、友達になった人もいます。僕は、日本人に対してはそういう印象を持っています。来日は4回目ですが、来る度に日本に対してはとてもいい印象を得ていますよ」

執筆者

稲見 公仁子

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