自分の中の殻に閉じこもり世界というすべての外界を遮断してきた自閉症の主人公と、母親を殺してしまった甥。嘘や矛盾が跋扈する世知辛い浮世からはじかれたところでそれぞれ生活する二人。映画は主人公が甥をともなって赤いスクーターで出奔するところから始まる。
 昨年12月にピンク映画として公開された本作は、母親の庇護、自己という温かい胎内でしか生きてこなかったはみだし者の男女が、皮肉にも殺人をきっかけにはじめて外の世界へと飛び出し、その瑞々しい美しさ、フレッシュな外気、また人間の営みが本来もつ醜悪さに直に触れ、「生きる」という鮮明な何かをつかむまでの魂のロードムービーである。殺人、近親相姦、盗み・・・と彼らが辿る道筋は修辞的には過激で猥雑なものでしかない、しかし瀬々の彼らを見つめる視点はやさしく温かい。「根源的な生」の象徴をも感じさせる今作について、また久しぶりのピンク映画への復活について、どんなことを思ったのだろうか。







ピンク映画は久しぶりですが、ピンク映画ということをほとんど感じさせない仕上がりになってますよね。
「ピンク映画では、人妻もの、痴漢電車もの、みたいなお題ありきで始まるものもあれば、女優さんありきのもの、このパターンは最近では少なくなってると思いますけど。あとは監督におまかせするもの。今回は最後のパターンで、割と任せられて撮ってたので自由にやれました。」

脚本は前作『ユダ』で共同脚本された佐藤有紀さんが今回は単独で脚本ということですが、作品の方向性はどのように決めていったんですか?
「今回一本ピンクをやるということだったので彼女と相談して話し合いながら企画を練っていきました。佐藤さんはちゃんとした脚本書けるし、いい感性をしてると思ったのでもう一回一緒にやりたいなと思ってたんです。」

追い詰められた男女のロードムービーという設定は、瀬々監督の他の作品にも出てきますよね。
「はじめにあったイメージは、篠田節子さんの「逃避行」という小説です。子供も成長し手がかからなくなってこれから第二の人生をはじめようとしている中高年の主婦が犬を飼い始めてすごく可愛がる、けどその犬がある日隣家の小学生をかみ殺しちゃうんです。大騒ぎになってその犬を保健所に引き渡して殺さなきゃいけなくなってしまうんですが、主人公にはそれができなくて犬と一緒に逃げてしまう。犬との逃避行の話なんですけど、それがすごく面白いなーと思ったのが一番のはじまりです。」

篠田さんの小説からモチーフを得て、佐藤さんと脚本を膨らませる作業をすすめていったと。
「彼女自身は新井英樹の「キーチ!!」というマンガが頭にあったみたいですね。主人公の自閉症の設定は、彼女のいとこに自閉症の方がいたというところから、佐藤さんの中で自然に出てきたんだと思います。自閉症とか障害とかで映画をひっぱってくのはなかなか踏み込めない題材なんですけど。差別感なくつきあってきた彼女だからこそ出てきたものだと思ったし、僕もそこに彼女の脚本家としての意思があると思ってそこは尊重しました。」

自閉症だとか殺人者だからこそより彼らの生への憧れが端的に伝わってきたと思います。映画自体すごくシンプルで、根源的な世界が描かれていると思いました。
「自閉症の人って、悲しいとかうれしいとか他人の感情に対して無頓着というか把握しづらいそうなんですね。ラストで主人公がなにかを見つけるというふうな映画にしようとなったんですが、その何を見つけるかっていうのは最初の脚本にはなくて、他者や世界に対するある感情を見つけるっていう風に脚本作りのなかで考えていきました。それが彼女にとって外の世界に触れることのはじまりだと。脚本を作ってるうちにそういう結末になって、そこでやっと脚本が完成した気がしましたね。」

瀬々監督の作品はいつも風景が印象的で、今回も光の感じや自然が美しかったです。撮影についてはどうでしたか?
「撮影はなるべくシンプルにしたくて、ストーリーがあたかも観客の目の前で起こっているような、ドキュメンタリーに近いような生生しさが出るように目指して撮影も三脚なしで手持ちで撮っています。でも結構悲惨な話だからカメラマンの方にはなるべく綺麗に撮ってもらうようにしました。光の加減とか自然の中での色使いだとかは良い感じに仕上がっていると思います。こういうストーリーだから画面くらいは見やすくしとこうかなと(笑)。」





舞台は田舎の風景からだんだんと都会に近づいていきますね。主人公が何度もつぶやく「ガイコクに行きたい」という想いとは?
「ガイコクというのは知らない世界、触れたことのない世界という意味で主人公は口にしていて、そういうところに行きたい、触れてみたいという欲望があるんじゃないでしょうか。今まで本当に自分が生きているような実感もないまま過ごしてきてて、そこへ行けばきっと生々しく生きていける何かがあるんじゃないかと思っている。自分と世の中が密着しているような、そういう感覚を求めて、「ガイコク」へ行きたいって言っているんだと思うんです。でも、それが最終的にはガイコクへいったつもりが、なんだ東京じゃないか、しかもそこには浮浪者たちがウロウロしてるような世界。そういう凶暴な世界でも主人公たちは生きていかなきゃいけない。そうは言っても、いま現実にガイコクと呼べるような外の世界ってどこに存在するんだろうか、というような疑問もあると思うんですよ。」

不二子さんのダイナミックな芝居が印象的ですが、監督の彼女に対する印象は?
「自閉症という設定に関しては彼女に映像資料をみてもらっていたんですが、ほとんどはおまかせですね。今回彼女と一緒に仕事をして面白かったのは、彼女って存在がけっこうパンクな人で(笑)。剥き出しの存在感というか彼女の中に破壊衝動めいたものがときどきチラッとみえることがあった。不二子さんがこの役をやったことで、最初に我々が描いていたイメージを変えてくれた思います。僕らのイメージを超えて役者を通して別のものが出てくる、そういうのが映画作りをやってて一番の醍醐味といえますよね。」

監督が役者を決めるポイントは?
「うーん。隙間のある人がいいなと思います。役になりきることも大事だけど、その人の今まで生きてきた人生というかキャラクターが加味されると思うんです。仕事だから役を演じます!というよりも普段の人生も役ににじみ出ている、という人と仕事したいなと思いますね。役からこぼれ落ちてくるその人の存在感が見え隠れするような人に惹かれます。」

ピンク映画と一般映画で作品づくりのなかで違いを感じるところは?
「一般映画を撮っててキスシーンのあとに本当はセックスシーンがあればいいなあ、なんて思ってしまうことはありますけどね(笑)。昔はかなりピンクと一般映画の違いは感じてたし意識してましたけど、最近は一般映画の予算もピンキリでかなり安い予算で撮ってるものもありますよね。そうすると予算や環境から言えばピンクと変わらない。あと僕が映画を作り始めたのはピンク映画専門の獅子プロダクションで、まわりもみんなピンク映画のスタッフで、毎日ピンク映画漬けってところからのデビューだったけど、今の映画スタッフはピンクも一般も両方やるんですよ。そういう意味で現場のスタッフもわけ隔てなくなってきていて、若い助監督が接する現場も変わってきていると思います。」

なるほど。ピンク映画と一般映画とのボーダレス化を感じられていると…
「こういうと語弊があるけど、僕が知っているピンク映画というのはもう無くなったのかもしれない気が感覚的にしています。今回はピンク映画の役者さんではなくあえてそうじゃない役者さんに出演してもらったのはそういうところの理由もありますね。知り合いのピンクの役者さんじゃなく、あえて付き合いのない、非ピンク映画の役者さんとやってみたかったんです。そうしてみないと一歩踏み出せないような感じがどこかにありました。」

いい面も悪い面も含めて具体的にはどういうところでピンク映画の従来との違和を感じていますか?
「ピンクの世界というのは少し閉ざされた世界で、お客さんもよっぽど映画好きの青年じゃないと見てなかったりというのがあって、一般映画と同じように分け隔てなく作品を見て欲しいと10年前は思ってましたね。でも実際自分が思ってた状況に近くなってきてはいるんだけど、果たしてそれでいいのかという自問が今度は出てきましたね。なんとなく違和感というか。はっきりと言語化できない感覚なんですけど。一般映画との間がボーダレスに近くなってきているけどピンク映画業界自体が変わったのかといえば変わってないとは思います。そういうところでまだこれからどうなるのか僕自身もわからないですね。」

今後の作品のアイデアなどあったら教えてください。
「そうですね。ずっとやりたいなと思い続けてる企画なんですけど、昔から女相撲の話を作りたかったんです(笑)。江戸時代から昭和30年代まで本当に女相撲という文化があって、彼女たちは日本全国を巡業していたそうなんです。そこにはスターもいればそれに憧れる若い女力士もいる。そういう女だらけの世界の姿をどっぷり描いてみたいな、なんて思っていますね。」

それはすごく面白そう!確かにいろんな面で難しいと思いますが、少なからず期待して楽しみにしています。
どうもありがとうございました。

執筆者

綿野かおり

関連記事&リンク

作品紹介『肌の隙間』