2000年9月に始まった第二次(エルアクサ)インティファーダ以来激化したイスラエル・パレスチナ間の対立は、2002年になってその激しさをいっそう増し、9,11のアメリカ同時多発テロ以降、イスラエルの状況は殺伐とした絶望や無力感を漂わせるほどになっていた。そんな情勢のなか、マスメディアによるニュース報道や政治的、軍事的プロパガンダでは伝わらない“別の声”を発信しよう、としてこの『モーメンツ:イスラエル2002』が企画された。
300以上の応募の中から選んだ17の作品は、ドラマからパーソナル・ドキュメンタリー、MTVもどきの映像からコンピューター・ゲームのフェイクまで、目まぐるしいほどの多様さである。また、参加した作家も、60年代・70年代から活動しているラフィ・ブカエ、ウリ・バラバシュといったベテランから、イスラエルを代表する国際的監督アモス・ギタイ、長年日記映画を撮りつづけている“イスラエルのジョナス・メカス“ダヴィッド・ペルロフ、若者の間でカルト監督とされている新鋭グール・ベントヴィッチ、将来を期待される女性監督ディナ・ズィヴ・リクリス、アリエラ・アズリまで、イスラエルの映画界の人材の豊かさを示すような多彩な面々が顔をそろえている。プロデューサーとしてこの作品の企画・製作を手がけたデヴィッド・フィッシャー氏によると、「17の作品はまるでパズルのひとつひとつのように、全体で『モーメンツ:イスラエル2002』という大きなひとつの作品として考えている。」という。

★『モーメンツ:イスラエル2002』は3月29日から国際交流基金でおこなわれる「第五回イスラエル映画祭」にて上映!






ーーーまず、『モーメンツ:イスラエル2002』についてプロデューサー・デヴィッド・フィッシャー氏から説明をおねがいします
「この作品は内容的にもそうですけど、非常にユニークなフォーマットをとっています。わたしたちもこういうものを手がけるのははじめてですが、多くの映画製作者を応援したいと資金なども応援し、そこからイスラエルの現在を模索しようというユニークなプロジェクトです。私達イスラエルとパレスチナの間で戦争が続いている。そういうことへ私たちなりに考えたことへの答えとなっています。現実になにか答えるものを、という衝動がありました。私は映画製作者としてわれわれが持っている武器はカメラしかないと思っています。そのカメラで映画製作者たちに映画をとおして現実への考えを短く作って欲しいと呼びかけました。ことなるジャンルや技術が使われていて、アニメであったりドキュメンタリーであったりドラマであったりしますが、製作者たちはそれぞれの表現方法でもって映画を作ったわけですが、私としてみれば、作品すべてでひとつのドキュメンタリーであると思います。というのは、すべてが同じイスラエルというテーマで製作されたものだからです。たしかに個別の異なる視点でそれぞれ描かれてはいますが、私という一人の人間がこれをみた場合、17作品ぜんぶをつなぎ合わせて、一連の出来事、一連の感情としてとらえることができるわけです。この作品のひとつで描かれている”恐怖”も私達イスラエルの人々がもつ感情ですし、作品のひとつで描かれるテレビゲームの世界もまた私達が現状をひとつのゲームとして捉えることがありえることだと思います。私としてはそれらすべてをひっくるめて今のイスラエルの生活としてとらえています。」

ーーー作品のひとつの最後で赤ん坊の顔がアップになって「希望はない」というナレーションが入っていますけれど、それはあなたの答えでもあるんですか?
「いいえ。そうではありません。“希望がない“というのが結論なのではなく、“絶望の瞬間”を描いたものなんです。紛争を抱えている我々には、自分の周りを超えた何も見えない状況、最悪の場合ということもあるわけです。お互いが今起きていることを見据えて、双方非常に苦しんでいるわけですから、そういうことに意味はないということを双方が理解する日がくるかもしれないかたです。緊張が高まるなかでは、泣き叫びたくなるような絶望に立たされ“希望はない”と思うときがあります。しかしそれは一瞬なんです。」

ーーーエリア・スレイマン監督のパレスチナ映画『D.I.』についてはどう思いますか?
「非常に楽しみました。彼のその前の作品『消滅の年代記』も素晴らしい作品だと思います。趣向は違いますが、現実に対するひとつの反応としていい答えを出しています。その表現は直接的ではなくシンボリックなものであり、ドキュメンタリーではなくフィクションであります。新鮮な視点をもった素晴らしい作品だと思いました。」






ーーーアカデミー賞授賞式でのマイケル・ムーア氏(『ボウリング・フォー・コロンバイン』)のコメントが日本で非常に大きく取り扱われていますが、それについてどう思いますか?
「彼が授賞式でなにを言ったのかは知らないのですが、だいたいどんなことを言ったのかは想像することができます。それは非常にはっきりしていると思います。それはこのような作品がもつひとつの問題だと思います。こんなこというのはなんですが、私は映画に興味があるのであって政治的なことについて興味があるわけではありません。はっきりいってしまうと、まったく興味がないんです。ですから、彼にたいして私が興味をもつのは良い映画製作者かそうでないかということのみです。彼が映画を作った後のコメントについては私に関係のないことです。彼の作品『ボウリング・フォー・コロンバイン』についてですが、非常にエンターテイメントであえい、挑発的であり、それから少し不道徳だと思います。というのは、私にも彼の気持ちに共感する部分はありますが彼の映画の制作方法にちょっと賛同しかねる部分があるからです。映画を作るには、ただカメラを向けるのではなく監督が必要です。ドキュメンタリーは特にそうです。監督は色々なパーツを選び、いわゆる編集をおこないます。そこで、“操作”が起こります。良い作品というのはその操作が見分けづらいんです。しかし、『ボウリング・フォー・コロンバイン』には操作がはっきりと見てとれるわけです。もちろん操作によって美しいシーンが生まれることもあるわけですが、時にはその操作が不正直な、不誠実にとれる場合もあります。あまりにもコントロールされ過ぎてしまうことがおこるからです。あまりにもプロの手が入りすぎてしまうと、映画そのものを自分が“体験”することができなくなってしまいます。ですから私は操作されている部分はあまり見たくありません。」

ーーー実際にイスラエルではこの映画についてどういった反響がありましたか?
「2002年のイスラエル映画祭ではじめて上映した時の反応は、“とても面白い作品だけれど、とてもこんなものテレビでは放送されないだろう。誰も見ないよ”というものでした。特にこのアンソロジーの中の『72人の処女』(注:平和のためにだったら国家首脳に性的奉仕できるかを多くの人にインタビューしたもの)ですね。そんなものはテレビで放送されないだろうと言われたんですね。ところが驚いたことに、民放でしかもゴールデンタイムに放送されとてもいい反響を呼びました。それはきっとここに、人々の求めていた答えがあったからだと思います。」

ーーー最後にこれから作品を見る方たちにメッセージをお願いします
「状況がとにかく複雑だ、ということ。魔法のような解決策はないんだということ。そういう目セージをこめました。片方が勝利を収める状況はありえません。双方がそれを理解すれば、世界が妥協を働きかけることが可能になると思います。両者の対立は、我々イスラエルのほうが優勢なのだからこちらからより積極的に妥協していかねばならないと思います。」

執筆者

綿野 かおり