中国の新鋭ジャン・チンミン監督が、これまた中国映画界期待の新進俳優のふたり、リュウ・イエとドン・ジエを主演に撮り上げた「恋人」が、第15回東京国際映画祭のコンペティション参加作品として上映された。トン・シーの小説を原作とした本作は、口の利けない少女と耳の聞こえない青年の間に流れる感情の移り変わりを、広西省の山村を舞台に描き出した作品。スタッフの平均年齢は28歳という、じつに若い現場で作られた。
 10月31日のシネフロントでの上映後に行われたティーチインは、ジャン監督とドン・ジエのふたりが前のスケジュールの関係で遅れ、主演男優のリュウ・イエひとりで始まった。
 会場には、リュウのファンの姿が多く認められ、質問内容もファンならではの愛情が見られるものが多く、彼も爽やかではにかんだような笑みで観客に対応。
 遅れて到着したジャン監督は、北京電影学院卒業後、日本映画学校と日本大学芸術学部に留学した経験の持ち主で、到着しての第一声は「すみません、遅れました」と流暢な日本語。ドン・ジエは中国語で「今から皆さんを失望させないように頑張ります」とコメントし、真摯な態度で質問に答えていた。
 コンペティション部門は12作品で競われたが、そのなかで本作は優秀芸術貢献賞(撮影:シャオ・ダン)を受賞。来年2003年の劇場公開が予定されている。





——(リュウ・イエに)いちばん気に入っているシーン、見てほしいシーンは?
リュウ「いちばん見て欲しいのは、やはり3人の障害者が家族のようにいろいろなコミュニケーションを図ろうとしているシーンで、僕自身も印象に残っているシーンです。言葉がいらない、心の中の暗黙の了解がとても素晴らしいと思います。あとお奨めしたいというか、映画のために、僕は1ヶ月くらい筋肉トレーニングをしたので、ぜひその成果を見ていただきたいですね」
——リュウ・イエさんは視力があまりよくないと伺ったのですけど、高地での撮影では、自転車に乗るシーンなどが多くて苦労されたのではないですか? あと、映画のなかで金木犀茶がでてきたのですけど、うちの庭にも咲くので作ってみたいと思います。作り方を知っていたら教えてください。
リュウ「たしかにロケ現場は危険な所だったんです。自転車のシーンもそうなんですけど、あと50センチくらいで下に落ちるところでしたので、そういう意味では大変でした。お茶の作り方はわからないのですが、食べ方だったら教えられます(笑)」
——撮影はいつごろ行われたのですか?
リュウ「9月から10月末くらいですね」
——この作品の前に『中国の小さなお針子』(2003年新春公開予定)という映画にも出てらっしゃいますが、風景が似ているのですけど同じ場所ですか? ああいった生活は、映画の撮影以外では未経験ですか?
リュウ「違う場所です。『恋人』は広西省という中国のいちばん南、『中国の小さなお針子』は湖南省。ふたつの場所は何千キロも離れています。山の中での生活ですが、僕自身は病院で生まれたのではなく、山の中で生まれましたから」

<ここからジャン監督とドン・ジェが合流>

——監督さんに伺います。最後のほうで意表を衝かれたのですけど、あの後チューリンさんはどこに行ったのですか?(会場笑)
監督「私は、開かれた映画を目指しています。つまり、結末は観客の皆さんが想像できるような空間、ゆとりを残したいと思っています。おそらく彼女はもっと美しい町に行ったでしょうし、もしくは麓の町に着くかもしれません」
——ドン・ジエさんに伺いたいんですけど、声がとてもきれいですが、ほとんどしゃべらない役でしゃべりたくなることはなかったですか? リュウ・イエさんは、坊主になさってましたけど、ちょっと血が出てたので、あれは痛かったのかなと……。
ドン「たしかに、この映画で私の声が出ていたのは最後のナレーション部分だけです。でも、今回いただいた役は私にとってひじょうに貴重な体験だと思っています。映画を通して一言もしゃべる場面もなく、自分の表情・演技だけが頼りだったんです。それだけで映画のテーマや監督の考えていることを表現できるのか難しいところでしたが、貴重な体験でした」
リュウ「かなり痛かったんですが、血はホンモノじゃないです」
——俳優のおふたりに。演技をするうえで心掛けていることは?
リュウ「僕は今まで出た作品のなかで、違った役作りをしました。『蘭于』(日本では映画祭上映のみ)と『山の郵便配達』では内面的な心境の表現に力を入れました。今回の作品では、明るく心の温かい青年を表現したいと思いました。つまり、自分にとってひとつの突破口のようなものになることを目指したということです」
ドン「私が今まで担当した役(『至福のとき』では盲目の少女)は、どちらも障害者でした。この映画の脚本を初めて読んだときも、また障害者か、と心の中に迷いがあったんです。つまり、役者にはイメージもあるわけですから。ですが、よく脚本を読んでみると、内容が素晴らしく17歳の少女の心境の変化がかなり丁寧に描かれていました。リュウ・イエの役との間の兄妹のような思いが、次第に自分の中でもひとつの恋に変わっていく。そういうところに自分自身が気づくわけですね。私にとって初めてのラブストーリーになるかもしれないし、こういう映画には挑戦する価値があるのではないかと思いました」






——リュウ・イエさんは水の中に浸かるシーンが多くて、監督が彼をいじめているような気もしたんですが、彼に対する期待も多いと思います。監督には、そんなエピソードを聞かせていただけたらと思います。リュウ・イエさんは、監督につらい場面を指示されたとき、どういう思いで演じていたのですか?
監督「まず、ロケ現場は山の上で水のない所なんです。そこで生活している人たちは雨水を溜めて生活用水にしているのですが、なぜ、リュウ・イエは水に浸からせたかというと、彼の役は母親がいないから。母親がいない子供にとっては、水というのは一種の母親の愛情が感じられるものではないかなと思いました。ロケは10月ごろでしたから、かなり寒くなっていましたね。映画のなかのドン・ジエの唇の色を見れば、どのくらい寒かったのか感じ取れるでしょう。いろいろなエピソードがありましたが、時間に限りがありますので話しきれません。一言で言うと、ロケはたいへんだったということですね」
リュウ「監督から演技の指示をされたとき、監督の考えていることは十分に僕に伝わっていましたし、インパクトのある映画を目指していることもわかりました。ロケ中、いろいろな危険な場面もありました。さっき自転車のシーンの話をしましたが、もうひとつ例を挙げると、僕が牛を倒すシーン。皆さんがご覧になったのは途中で終わってますが、撮影したものをそのまま流したら、その後で私が牛に引っ張られて山の下まで行ってしまったところが見れたはずです」
——監督にお聞きします。映画ができる経緯を教えてください。
監督「まず、この映画には原作がありました。原作者は広西省の方で、魯迅文学賞を受賞した作品として広く知られています。私が初めてこの作品を読んだとき、感動して眠れませんでした。そして、原作者に電話を入れて『会いたい』と。原作者はふたりいるんですけど、映画化するための様々な手続きのことを考える前に、私たち3人で山の中に篭って脚本を仕上げたんです。脚本を仕上げてから町に戻って、出資先や役者探しやそういう手続きに入りました」
——日本の奥山和由プロデューサーの名前がクレジットに入っていましたが……
監督「日本でポストプロダクションの作業に入った段階で、奥山さんと出会ったんです。奥山さんは、私たちが尊敬している映画人のひとりですし、実際お目にかかって、映画の理念・テーマを説明したところ、そんなに時間をおかずに返事してくださいました」

執筆者

みくに杏子

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