今回の京都映画祭の目玉のひとつは「阪妻百年」。戦前からの大スター阪東妻三郎の今年は生誕100年にあたります。京都の太秦に初めて撮影所を建て”日本のハリウッド”のきっかけを作った阪東妻三郎。サイレント時代の作品からロシアから新たに里帰りした作品、名作「王将」まで、ファンならずとも観たい映画が目白押しの特集です。
「王将」の上映前に、田村三兄弟の中でも父親の品格を一番受け継いでいる演技に定評がある、阪東妻三郎の長男の田村高廣さんと映画祭のプロデューサーでもある中島貞夫監督のトークが行われました。「歳をとる毎に親父の記憶が不確かになっていくので、覚えているうちに」と、息子として、俳優の後輩として語る田村さんの口調には、偉大だった人への尊敬と愛情が感じられ、場内もしんみりとしていました。




田村高廣さんは故・阪東妻三郎の長男として生まれました。映画に囲まれた環境にありながら何故か俳優には興味を感じる事がなく、三中から同志社大学へ。当時の秀才でした。大学が決まった時は小学校の先生も挨拶に来たそうですから、今の合格とは格も違います。卒業後は貿易会社に勤務、堅実な日々を送っておられたそうです。しかし蛙の子は蛙、その証拠に、学生時代に家族を映写機で映していたのです。今回はその映像に一部も紹介されました。海岸や旅行先で、子供達よりも楽しげに遊びに興じる阪妻。眼鏡をかけて暗い画面を、スクリーンをのぞきこむようにして解説をする田村さんは「似てるもので、誰が誰だか」。確かに、高廣さん、田村正和、田村亮と皆の顔立ちは同じ血を引いているのが歴然としています。半世紀も前の幼顔は、白と黒の影の中にぼやけてしまうと、本当に区別がつきません。その子供達の中で一番背が高く大人に見えるのが高廣さん、海水浴でもボート漕ぎでも、一番はしゃいでいるのが阪妻。映画の役柄からは想像が出来ない姿です。こんな可愛らしい面が大スターにあったなんて。家族の事を語る時は、標準語から知らず知らず、京言葉になっている高廣さん、彼の心も御室にあったという邸宅にいた頃に戻っているようでした。

役者としての阪妻の潔さ、姿勢を語るエピソードのひとつとして披露されたのが「撮り終った映画の台本は焼いてしまう」というものでした。或る日、庭の隅で、何かを燃やしている
父親の姿を見かけた高廣さんが「あれは何をしているの」と母親に尋ねると「台本を燃やしている、いつもそうしている」という答え。後年、役者になった高廣さんが、何か書き込みがあったら参考に見たいと思い探したけれども、本当に一冊も残っていなかったそうです。映画を撮り終えるまではそれに全てを注ぎ、終ったら終わり。まさに一期一会。「同年代のスター、たとえば嵐寛壽郎なら『鞍馬天狗』のようないわゆる『ご存知モノ』がなかったのは、そういう姿勢であったからでしょうね」と中島貞夫監督。





後年、時代劇から離れ「無法松の一生」、「王将」という傑作を世に送り出すわけですが、この根底にあったのは、当時、小林多喜二の「蟹工船」等に代表されるプロレタリア文学への傾倒があったと、高廣さん。華やかなスターとしての生活を送りながら、彼の心を支えていたのは、貧しい頃の自分であり、同じような境遇を多数見て来た事、それが「無法松の一生」などの演技の根底にあったと。そして、いつか彼等を主人公にした映画を撮りたい、時代劇のスターでいれば不自由はない、しかし大会社にいる限り、そういう映画を撮る事は出来ない。その思いが独立プロダクションの設立へ繋がっていったのではと。現実では資本家たる大会社に騙されるようにして潰れてしまった撮影所でしたが、「自分の撮りたいもの」を貫こうとした阪妻、そこにもある種の潔さを感じます。その為に苦労が多い仕事の束の間の、家族との時間だったからこそ、高廣さんの撮った映像の中の阪妻は、あんなに笑顔で精一杯楽しんでいたのかもしれません。きっとその時間も「一期一会」だと。

最後の「息子として、後輩の役者として、あえて言うなら、阪妻は未完だった。時代劇と決別した後の彼の演技をもっと見たかった」という言葉に、中島監督も会場のファンも深くうなずいた事でした。希代の大スターは未完でしたが、その子供達が今もその後の物語を作り続けています。その意味でも未完なのかもしれません。

執筆者

鈴木奈美子

関連記事&リンク

京都映画祭