ロベルト・スッコと出会った人の反応の中に
スッコという人間の真実が見えてくる

−−まずカーン監督から、この映画について。
「この映画は、フランスで86年から88年にかけて現実に起きた、三面記事的な殺人事件に基づいています。ほぼ10年以上前のことになりますが、当時少しばかりこの事件のことは話題になりました。しかし本当に有名になったのは、この事件からインスピレーションを得て、ある有名な演劇の戯曲が書かれてからです……」




−−ロベルト・スッコというキャラクターですが、映画の前半では全然殺人犯的な雰囲気がない。逆にドジな男に見えるくらいの描き方をしていますね。どういった意図からそういうキャラクター作りをしたんですか?
「この映画を書く時に元にした本は、実際にロベルト・スッコに出会った人たちの証言集です。その中にはたいして意味がないエピソードから、とても重大な証言まであったのですが、そうした証言を積み重ねていくことによって彼のポートレートを描くきたいと思いました。そうやって犯罪者の人格に近づき、知りたいと思ったのです。ただ彼をモンスターとして扱うのはなく、実在したひとりの人間として取り扱うこと、それが私が心がけたことです。(だから滑稽にも思える描写が出てくるんですね)」
−−”スッコは精神を病んでいた”という認識の上に映画をお作りになったのでしょうか。
「ええ。スッコが精神病であったということはとても重要です。彼の行動の予想がつかないからです。病気の人だから、私たちにとっては驚くような反応が帰ってくる。たとえ彼の暴力がどのように始まるのかわかっても、それがいつ終わるかわからないのです。さらに私が興味を持っているのは、このような暴力、このような精神病に対して、人々がどのような反応をするかという点で。それがとりもなおさず人々が示す”真実の瞬間”になると思うのです」
−−スッコの人生についての描写は事実とすべて同じですか?
「なにも付け加えていません。なにかを付け加えると、ストーリーが弱くなってしまいますから。もちろん台詞の細かいところとか、ちょっとした状況は私が作ったものもありますが、重要な事件はすべてその通りです。自殺のことも、スッコはあの通りのやり方で自殺しています。スッコという人物は、信じられないようなことを本当にやっているんです。現実のほうがスゴい。その点においてまさにすばらしい映画の素材だと思いますね。なにか自分で作ったものを付け加えようとすると、通常の人が持っている空想力の次元にとどまってしまい、退屈で陳腐な犯罪者の像を描いてしまうことにもなります」
−−スッコのポートレート(映画)を作っていく段階で、逆に切り捨てていったものは?
「切り捨てた部分はかなりありますよ。彼は誘拐も何回もしたし、レイプ、未青年監禁もしているし、いくつかのスリも起こしています。とても活動的です。でも私の興味を引くのは、彼ができることすべてを見せることではなく、彼の個性の底となる部分を見せること。だから人目を引く事件であっても、何度も出てくる反復的なことはすべて切り捨てました。しかし彼の残酷さは十分にそれで出ていると思いますよ」



両親を殺すこと……
それは自分自身を殺すこと

−−カンヌ映画祭で上映されたときに上映禁止のデモがあったりしました。監督はどう思いましたか?
「カンヌでの反応についてですが。コートダジュール地方にあるニースの街で、警察官と犠牲者の家族たちにロベルト・スッコの映画を上映して見せました。結果、彼らの反応は”この映画は正しい”というものでした。デモをしたのはカンヌ市の警官たちですけれど、彼らは映画を見ていません。カンヌでの取材に私はこう答えました。”警官たちが何を恐れているか、私はよくわかっている。その恐怖に対する答えがこの映画である。一番いい答えになるだろう”。いずれにしろ、私は犯罪を賞賛してはいません。私が正しいことを証明してくれる事実があります。サヴォア地方でこの映画は上映禁止になりました。しかし三日後に禁止が解かれたんです。禁止をしたためにこの映画はさらなる話題を呼んだので、禁止を解かざるを得なくなったんですよ(笑)」
−−スッコという殺人鬼の中に、監督はなにか人間として共鳴できる部分を感じましたか?
「私は映画を作る際、それが善なのか悪なのかといった判断よりも上に自分の立場を置かなければ、映画は作れないと思っています。確かに彼が起こした事件はとても恐ろしいことです。それは事実です。けれどもなんだか愛着を覚える部分だとか、憐憫を感じる部分があることも確かです。彼は不幸な男の子である…しかし自分が不幸だからといって、他の人を不幸にしていいということは、絶対にあり得ません! スッコの場合、特殊なことは両親を殺していることです。とても恐ろしいことであると同時に、この点は他の犯罪とは違った問題を提起している。親を殺すということは、つまり自分を殺すことにつながるのではないでしょうか」




スッコ役のステファノは、無垢さと凶暴性
ふたつの要素を最初から持っていたのです

−−キャスティングについて。スッコを演じるにあたってどんな人を求め、ステファノ・カセッティのどこがポイントで彼に決まったんですか?
「私はロベルト・スッコ本人の写真を持っていました。またスッコと会った人の証言がありましたから、彼がどういう顔なのか、どういうイメージなのか、頭の中にあったんです。スッコはまるで子供のようにふるまったかと思うと、まったく唐突に殺人を犯してしまいます。無垢な部分と空恐ろしさ…ステファノは最初からこの二つの側面を強く持っていたんです。絶対に演技では出せない、そうした二つの面を…。彼は合格でした。私が俳優を探す時は、演技をするにしても信憑性があるかどうか、その人が本物だと信じられるかどうかという点に重点をおいているんです。またスッコの俳優を見つけるのと同じくらい、スッコと対決する回りの人々の俳優を見つけることも重要でした。大切なのはスッコに出会った人たちが感じ取っていたこと。人々が感じ取ったことによって、スッコ自身の姿が見えてくるのです」
−−レア役にイジルド・ル・べスコを起用したのは?
「彼女にスッコ役はやらせられませんから(笑)。彼女にはスゴい才能があるからです。映画の撮影中、彼女は17才でした。なのに彼女はじつに演技がうまい。それに、スッコのほうはとても暗くていつも悩んでいる感じでしょう。だから女性のほうは軽やかで優雅さがある女性を置きたかったんです。イジルドにはその要素がありますからね。彼女の中で私が特に好きなのは、時間を超えた感じがするところ。現代の女性とは思えない。スッコはこのように流行からまったくはずれている、いわば正常性からはずれている女性に対して、愛着を感じたに違いないと思います」
−−イジルドは17才で女優としてかなりのキャリアを持っていますよね。そういう彼女と、初めて映画に出演したスッコ役のステファノ。ふたりのコラボレーションは、撮影現場でいかがでしたか?
「彼らの関係はふたりのプロの俳優としての関係であると同時に、ふたりのアマチュアの俳優としての関係でした。つまり性格の違いはあっても、仕事の経験による違いはまったく感じられません。イジルドのほうはいろいろ気にしないたちで、無頓着なところがある。ステファノのほうはもっとモロい部分があって考え込んでしまう…そういう違いはありましたけれど。俳優のキャリアよりも、才能があるかどうかのほうが問題であって、ふたりとも才能がありましたから、なんの問題もありませんでしたね」
−−レアはスッコが両親を殺したことを知っていたわけで、彼女の行動がもう少し違っていたら、この事件も変わってきたんじゃないかと思います。このレアという少女は、ある意味、スッコと同じイカれたキャラクターなのでは? 
「現実は映画に描かれている通りなんです。スッコはレアに対して”自分は両親を殺した”と言うんです。けれども彼女は、信じなかったし、それを理解しなかった。確かにレアにも少しおかしいところがあって、いわば優しい狂気というかゆるい狂気を持っています。しかし彼女はそのおかげで、スッコの暴力から身を守ることができた。彼女は無頓着さによって保護されていたんですね」

(構成/かきあげこ)

執筆者

かきあげこ

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