かつて娯楽の王様であった映画。特に「最近、映画がつまらない」とお嘆きの貴方、今だから観て欲しい映画がある。観れば必ず、忘れかけていた「映画の醍醐味」に出会えるはず。そして「何となく物足りない」と日頃感じていたものが何であるか、朧気ながら見えてくるかも。

時代劇の黄金期、ミュージカルシーンやテンポの速い演出で、映画の醍醐味をたっぷりと味わえる作品の数々を生み出し、多くの役者にも信頼され、中村錦之助(萬屋錦之介)、美空ひばり等の生涯の最後まで、映画や舞台の世界を共に歩んだ沢島忠監督。この監督の映画を観て欲しい。

「二人の大天才に一人の鈍才が引きずりまわされたというお話です。鈍才だから良かったんです。天才だったら喧嘩していますからね」そう言ってのける沢島監督の穏やかな笑顔に騙されてはいけない。スクリーンの中の創意工夫が、痛快、爽快、手に汗握る熱狂もろとも大団円まで、貴方を連れていってしまうのだから。

5月12日より三百人劇場にて「東映黄金期時代劇 沢島忠の世界」開催予定。まずは監督ご本人のお話をどうぞ。




中村錦之助と一心太助

最初に「江戸の名物男 一心太助」を撮ったんですよ。それから「天下の一大事」「男の中の男一匹」「家光と彦左と一心太助」、そして「男一匹道中記」と、五本を撮りました。錦之助という人は、魚屋も出来るしお殿様も出来る、浪人も出来れば股旅物も出来る、どの役をやっても華と品とリアリティがありました。最初に企画を練った時に、錦之助で家光と太助の一人二役でやろうと決めたわけです。

彼は演技に品格、モダニティがありました。子供の時から歌舞伎で鍛え上げられた。
六代目菊五郎、初代中村吉右衛門、お父さんの三世時蔵、松本幸四郎、勘三郎・・そういう名優達に、可愛がられてしごかれた。映画に来る前に立派に基礎が出来ていました。映画界に彼が入って来た時、撮影所の中に旋風が起こりましたよ。

中村錦之助との出会い

錦兄と出会ったのは私の助監督時代です。萩原監督の「紅孔雀」五部作でチーフ助監督が私。錦兄は主演でしたから此の五部作で二人は意気投合しました。「いつか一心太助をやろう」と相談していました。錦之助はそれまで色々な役をやっていましたけれど、地のままが出た映画というのはなかったんです。彼はチャキチャキの江戸っ子なんですよ。それをそのまま出そう、彼の地を出そうと、私が脚本を書いた。それが一心太助なんです。彼とはよっぽどの時でなかったら、意見が違うなあという事はなかったですね。合いすぎる位合いました。

「森の石松鬼より恐い」というのを撮った。意見が違ったのは、その時位かな。僕が少しオーソドックスになりすぎたんですね。自分で言うのも何ですが、それまで撮っていた作品が進みすぎてましてね(笑)。会社の上層部に呼ばれて「お前、もうちょっと抑えろよ」と。それで僕は遠慮する、錦兄はもっと行きたい、そこの所のギャップがありましてね。後はずっと一緒に映画もやり舞台もやり、亡くなるまで一緒に仕事をしました。






青春時代劇「ひばり捕物帖 かんざし小判」

ひばりちゃんとの仕事で最初に撮ったのが「ひばり捕物帖 かんざし小判」でした。
新人監督は会社から「おい、これ撮れ」とポンと本を渡されるんです。でも「こんなの撮ったら、監督としてあかんようになる」と思ったんです。全然、脚本になっていないんです。僕はアメリカ映画のミュージカルファンでした。「ひばりちゃんは歌って踊れて演技も出来る人だから、時代劇のミュージカルを作りたい」と当時制作部長の岡田茂さんに話しますと「お前の好きに書け」と言ってくれたので、書き直しました。その本をひばりちゃんが凄く気に入りましてね、乗りに乗ってやったのが「かんざし小判」。完全なミュージカルではなかったので、僕は「パートミュージカル」だと言っていました。当時、パート天然色がありましたからね。

僕はひばりちゃんと千代ちゃん(東千代之介)との青春映画をやろうと思ったんですよ。当時、各社、青春映画というのがあったんです。ところが時代劇だけにない、だから僕は青春時代劇をやろうと思ったんです。千代ちゃんは踊りの方から来た人でね、貴公子なんですよ。普段は貴公子ですが、飲むと「虎狼」になるんです。あの力道山が「千代ちゃんにはかなわん」と逃げる位凄かった。それで「かんざし小判」の時は、大酒飲みの浪人をやってもらった。千代ちゃんは、その役で、今までの殻を破れたんです。ひばりちゃんも千代ちゃんも、画面一杯に青春をぶつけて、演じてくれました。

美空ひばりとの長い縁

最初にひばりちゃんに会ったのは、僕が助監督の時です。僕が監督になった時は、ひばりちゃんは大スターでしょう、僕が撮れるなんて思わなかったです。「本当?僕がひばりちゃんの撮るんですか?」と驚きましたよ。

昭和39年にひばりちゃんのお母さんは撮影所にいらして「新宿コマ劇場の長期公演の監督に沢島を貸して欲しい」と。当時は五社協定というのがありまして、私は東映の専属契約者でしたから、東映以外の仕事は出来なかった。ところがひばりちゃんのお母さんという人は、娘の為なら、たとえ火の中水の中という熱意の人。岡田さんに粘りに粘った。岡田さんは考えた末に「東宝から淡島千景さんを借りて、東宝に沢島を貸そう」と、バーターで話はまとまり、以後22年間、亡くなるまでひばりちゃんの舞台の脚本と演出をしました。映画は13本監督しました。



やっぱり映画は面白いですよ

どうしても時代劇というものは拘束があるんです。それを破っていかねばならない。
今までのテンポの遅い時代劇では、若い人は付いて来ないなと思ったから、テンポの速いものを作りました。

監督はですね、自分の作品にお客様を引きずりこまなくてはいけない。そういう修行をするわけです。嘘の話をいかにも本当だと思わせないといかんのです。「新選組」はやりたいと思っていた作品でした。三度の飯より映画が好きな人が集まって映画を作っていたわけです。役者もスタッフも、皆の気がひとつにならないと、フィルムに穴が出来るんです。気のゆるみがそのままフィルムに出るんです。
フィルムは正直ですよ。だから全員が集中していると、熱気のあるいいものが出来ます。私には子供がいないから、全部作ったものが子供みたいなのものです。やっぱり映画は面白いですよ。映画は三日やったら止められません。
(撮影/中野昭次)

執筆者

鈴木奈美子

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