「もし小津安二郎がいなかったら、『ヴァンダの部屋』も存在しなかった。」と公言するのは、監督のペドロ・コスタ。映画の文法や既成概念を打ち破り、新しい地平を切り開いて行く様は現代映画の最先端を行くといわれる。ポルトガルの巨匠、オリヴェイラが自ら後継者と呼び、日本でも蓮見重彦、青山真治ら最前線の映画人が絶賛する、『ヴァンダの部屋』がいよいよ公開される!
この物語の舞台はリスボンのゲットー、そこは破壊されつつある地区。ペドロ・コスタはデジタルカメラを持ち込み、2年もの間、主人公ヴァンダとその周辺の人々、「捨てられた」街の姿を見つめ続ける。ドキュメンタリーなのかフィクションでさえ見分けがつかないこの作品で見えてくるのは、「人間がただそこにいる」ということ。観客は、あまりにも激しく、濃密な映像と時間の存在を前にして、一体どのような感想をもてばよいのだろうか?
「もし空虚に感じたとしたら、それはこの映画に対する賛辞だと受け止めている。なぜならあなたは肉体をもって感じ考えたからです。」そのように語る彼の映画哲学とは?

*『ヴァンダの部屋』は2004年3月上旬よりシアター・イメージフォーラムにてロードショー!!



——今回、『ヴァンダの部屋』が初めて日本で一般公開されますが、日本の観客はどのような反応をすると思われますか?

「日本人は敏感に反応してくれると思う。なぜなら、この映画は不在について多くを語っているからだ。まだ確かめるほど時間はないが、私には日本に対するあるイメージがある。それは、日本は、物、人、共同体の「存在」と、それと同じくらい重要な「不在」の2つの根本的な原理によって構成されているというものだ。「不在」とは、誰かの死後もありつづける空間、なにか精神的なものでなく、純粋に誰かを欠いた空間という意味だよ。ある人が生活しなくなった空間。しかしそこに彼は住み続けている。まるで小津の映画のようにね。
この映画は様々なものの不在を描いている。生きるための条件や希望、それからもっとシンプルなこと、お金や両親、愛とかね。人はそれを手に入れようとするが、手に入らずに苦しむ。なぜならば、人は川や海を破壊し、動物や人を殺す社会機構の一員となっているからだ。それは決して手に入れたいものを売ってくれない。この映画はそういったことを集中的に明確に描いたもので、何かの告発ではないんだよ。日本人をはじめ、世界の人々は、ヴァンダやその友人たち、家族を、兄弟だと感じ、何かを感じてくれると思っているよ。」

——はい。だけど私は見終わった時、まるで打ちのめされたような複雑な気持ちになってしまいました。それは空虚感なのかもしれませんが・・・。

「もしそのようなことが起こったなら、それは私にとってこの映画への賛辞だと受け止めているんだよ。なぜなら、この映画が感受性に訴えかけた、ということになるからね。感受性というのは、私にとっては知性でもある。そのような現象は、ヴァンダの体が少しあなたにのりうつったということを表し、彼女が持つ空虚感をあなたが共有したことでもある。この映画は、何か解決策を提示するものではないんだ。私は映画を見せる以外、何も与えることが出来ない。映画は最早、世界を変えることはできないんだ。ただ、この映画と共に生きるしかないんだよ。だから、もし『ヴァンダの部屋』を見た後で空虚に感じたとしたら、それはあなたがこの映画に反応したということなんだよ。」

——この3時間という緊張した濃密な時間に、同じだけの集中力で挑む というのは容易なことではないと思うのです。なぜなら人物背景他、何一つ説明的な箇所がありませんから。監督がよくおっしゃる、”小津のフィルムのように、複雑なものを複雑なままに描く”というのは、具体的にはどういったことなのでしょう?

「シンプルな言い方をすれば、白色の馬とか黒色の馬は存在しないということなんだ。馬を扱う人間や競馬の人間はよく知っているんだが、決して彼らは白い馬、黒い馬なんて言葉を使わない。(白や黒は)カテゴリーとして存在するだけだから、一頭の馬を表すことにはならないでしょう。なぜなら、馬の毛は白と黒の中間色で、純粋なモノトーン・カラーなんて存在しないからね。私は芸術的な仕事とは、少しこれと同じ意味合いがあると思っているんだ。『ヴァンダの部屋』には、説明がなされていない箇所が多く、それらは複雑で理解す
るのに苦しむと思うよ。例えば、どうして彼らは反抗せず、現実に甘んじているのか?皆に聞かれる質問なんだけど、私は「その問いには答えられない。」と答えるんだ。私は裁判官にはなりたくないし、もしこの映画に裁きや判決を求めるなら、最初から見ちゃ駄目なんだよ。なぜなら、私は裁きや裁判所が大嫌いだからね。
 私は映画とは具体的な物事を表すだけのマテリアル(物質的なもの)ではありえないと信じているんだ。それはマテリアルであると同時に神秘的なものでなければならない。また、真にマテリアルなものは神秘的でもあるんだよ。それはもしかするとあなた方、日本人のほうがよく知ってることかもしれないけどね。(何ものっていないスチールのテーブルを指して)神秘とは、それはこのテーブルだ!おかしく聞こえるかもしれないが、これは工業的であると同時に神秘的なんだ!ここには存在し続ける「不在」があるじゃないか。
 私はいつも自分の映画を生き生きとした肉体にしようと試みているんだよ。 魂は肉体の一形態だと思っているしね。あなたの魂はあなたの肉体の一形態。あなたの肉体、それはあなたのしぐさ、エレガンス、モラルの意識を含む。それはいわば空気中に漂っているものなんだ。」





——前作の『骨』同様、『ヴァンダの部屋』と2作続けてスラム街や、そこで暮らす人々の生活を描いてこられましたが、何かこだわる理由がありましたら教えてください。

「 私はすべての困難を前にしても、どこか誇りを失わない彼らの態度が大好きだ。それは、自分たちに最後に残された何かを守ろうとする人々だ。あの界隈にいる若者たちはとても老成している。とても賢く、そして暴力的だ。若い面差しの中に老成した感覚、その他すべてが混ざっている。もっと言うと、彼らはとてもダイレクトに生きている。その哲学、政治姿勢も、全てがまるで原始時代のようにね。原始時代がほんとに原始的なわけではないけど。彼らの街はアフリカの村のように成り立っている。とても常軌を逸していているがばかげているわけではなく、ある厳格さがあるんだ。
 一方でブルジョワの人たちはしばしばエゴイストで無意味に絶望していると思う。もちろん、このテーマで映画は出来るよ。ブニュエルがそうだね。彼は崩壊するブルジョワを、年をとるにつれ驚くべき感性と共に描ききった。私自身は、この危うくなり始めている世界に敏感だ。なぜなら、映画は人類と結びつかなくてはいけないと思うからね。」

——監督は『ヴァンダの部屋』には映画以上の何かがある”とおっしゃたようですが、その”何か”とは一体何でしょうか?

「 映画館で映画を見るという体験は、単なる映写以上のものでなければならないと考えている。映画の上映はとても奇妙なものだ。上映中、観客は映画にどんなものでも投入して見ることができるし、実際にそうしている。時に我々の大部分は実際に映画に語られている以外のことを読み取るが、間違っていることが多い。映画を距離をとって見るのはとても難しいんだよ。
 それは片思いの恋愛にも似ていて、誰かを好きになると何も見えなくなってしまう。そして、自分でもいつから始まったのか分からないうちに考え始めるんだ。この人のどこを好きなんだろう?なぜ彼女を失ってしまったの?どうして今苦しいんだろう?私が苦しいのは、こんなにも好きだと思っているのに、彼女が私をそれほどでも好きでもないからだ。そんなすれ違いの愛に。人はもっと映画と距離を持って見れば、もっと映画を愛せるように思う。
 逆説的に聞こえるかもしれないけど、私は考える人が好きだ。自分の肉体を通じて考える人であればなおのこと。あなたがヴァンダの部屋を見た後、空虚な気分になったということは、あなたが映画の中でたくさん考えたということでしょう。あなたはあなたと地球の反対にいる少女ヴァンダとの距離を知っていましたか?いや、あなたはこの距離について考えたはずだ。どうして?どうして?どうして?と。あなたが何を考えたのかは分からないが、もし空虚に感じたのだとしたらあなたが確かに考え、感じたことだけは間違いない。あなたは肉体をもって考えたのです。」

——監督はいつも “映画の限界”に挑戦されている、とお聞きしますが、それは具体的にどういうことでしょう?

「 ああ、私は時々映画の限界について話すんだよ。映画には限界というものはないと思うけど、それでも存在するんだ。私達が越すことの出来ない限界がね。
そうでないと人はイデー(観念、思念)を失ってしまう。イデーがないとマテリアル(物質的なもの)もない。まず、人はイデーをもち、それからそれを物質に変換する。ヴァンダの時もそうだった。ヴァンダのイデーは私とともにあった。二人の間にはカメラがあり、そして私はイデーについて思考をめぐらせた。イデーは部屋の中にあって、わたしはカメラがそれを壊しにやってくるのを待っていた。そして最後まで終わるのをまち、少しだけどうなったか見てみた。だから、まずイデーがあり、そしてマテリアルがそれ自体として現れた。私はそのマテリアルを形にしなければならなかった。私の仕事はまさに、それを肉体化し、形にすることだった。
 今日では人が限界がないと考え、なんでも出来ると思っている。そんなのは全くの嘘。それはファンタジーなんだ。資本主義が人をとても孤独でファンタジーの世界に追いやっているんだよ。私の考える映画の限界とは、映画はこの世界で一番ではなく、この世界自体に限界があるということ。一方で、限界の不在というのは全然別の話だ。それはルールに関する話。ルールは壊さなければならないんだよ。裁判所や陳腐な固定観念なんかは壊し、戦わなければならないんだ!」

——それを監督は、映画における“パンクの精神”とおっしゃっているのですね?

「 英語でいうパンクというのは、一部の若者たちを指す言葉で、彼らは年長者への敬意を持たず、時に過激なムーブメントを起こす。ある意味政治的に過激な態度でもあるんだよ。イギリスで70年代終わりに、そんなムーブメントが起こり、ヨーロッパ、アメリカ、日本など、そこら中の国へ波及した。それは私にとって、体の中を流れていくもので、私が若かった80年代に暴力的な音楽を通して、パンクを生きることが出来たんだ。私が小津や溝口の映画を注意深く見始めたのも、ちょうど同じ頃だった。」



——日本映画に特別興味を覚たのですか?

「 いやいや、違うよ。一般的に世界の巨匠の作品に興味があった。日本、アメリカ、世界各国のね。それらはとても謎めいていて映画を大好きになり、そして自分に言ったんだ。「自分も同じ小津、ジョン・フォード、フリッツ・ラングと同じ仕事がしたい。」って。その頃は、パンクの時代というだけでなく、ポルトガルの40年続いたファシズム体制の悪夢から革命によって脱出した時代でもあった。革命というのは、当時13歳の私にとって、2年間続いた絶え間ないお祭り騒ぎのようなものだった。それはパリで68年に起きた5月革命みたいなものだよ。実際はうまく運ばなかったけど、私はその時代をパンクと共に体感したんだ。その時、私は生きることや映画についてたくさん考えた。当時はクラッシュやセックス・ピストルズが大好きで、彼らは世界や家族、資本家をぶち壊せと言っていた。彼らのスローガンは「No Future!!」だったしね。その頃、小津の映画に出逢ったんだよ。そこには家族とか静けさとか、パンクとはまったく反対のものが描かれていてすごくショックを受けた。そこでパンクを取るか、映画を取るか、すごく悩んだんだよ。そして小津が勝った。小津や、ジョン・フォード、チャップリン達がね。パンクに愛情はあるけど、彼らは単に構造を破壊せよと言っている。
 私は小津が見せてくれたものの方がもっと革命的だと思ったんだ。例えば、希望を持ち続ければ幸せになることができるかもしれないとか、物事を締め出してしまってはいけないとか、家族を再構成しなければならないとかね。それらはとても深遠で、そういったものを通してこそ本当の革命ができると思ったんだ。また小津の態度にも興味を引かれた。他者に対する暴力的な姿勢、それが彼を孤独にしたのだと思うけどね。小津や他の偉大な作家たち、映画の古典でアカデミックとみなされている人々の固定観念に対する姿勢はすごくパンクだと思うんだ。
大体の人々は、そのようには思わないけどね。だけど僕にとってのパンクであるとは、こういうことなんだよ。小津は評判を落とすかもしれない変わった考えを平気で実行した。周囲は口を揃えて「視線が正しく合ってない、こんな映画はうまくいくわけがない、観客は見ないよ。」と。小津は「そんなのどうでもいいし、問題じゃない。だけど、そこが最も重要なところなんだ。見つめあう、他を見る、そこに距離がうまれる。」私は距離というものが愛なんだと信じているんだよ。」

——では最後に次回作について、少しお話をうかがえませんでしょうか?

「 とても小さな作品で、ダンスをおさめたものだよ。他にはある女優が歌うところを撮ろうと思っている。彼女のやっている音楽をね。そこにいる人や、リズムなんかを映画に収めようという計画をしているんだ。]

——シナリオはもうお書きになりましたか?

「 え?シナリオなんか書いたことないよ!撮ろうとする対象に何かを付け加えるのは良くないよ。歌う女の人がいて、それをフィルムに納める。その場所を探さなければならない。それがシナリオだ(笑)。」

執筆者

魚住桜子

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